夜
その日は結局そのまま屋敷に戻ることになり、屋敷についてからアギトに頭を下げられた。
「チルリットさまがはじめて街に行かれたのにあまりよい思い出にならなくて申し訳ありません」
「そんなアギトさんのせいではないですから」
逆に恐縮してしまう。
シオンと言えばいつにもまして口数が少なくそのこともわたしの心を重くする。
自室に戻りドレッサーの中から適当な一着を選びいつもの服に着替え終えてようやくほっとした。曇っていたとはいえ帰り道に日よけもせずに歩いてきたからか身体が火照ってひどく疲れていた。
ベッドに横になりたかったが寝入ってしまいそうだったのでちょっとだけのつもりでソファに横になる。
遠くで声がする。
冷たい手がわたしの頬や額をなでる。その感触が熱を帯びた身体にとても心地いい。
「…………」
「…………」
切れ切れに声が聞こえてきて目を開けなければと思いはするがどうしても開けることができない。声が耳を素通りして意味をなさないものになる。
わたしの身体に触れている手のひらの感触が遠くなる。
もっと触れていてほしい。
夢うつつにそう思いながら、暗転する。
目を開けた。
寝入らないようにソファで横になったのに抵抗虚しくすっかり眠ってしまったようだ。慌てて飛び起きると辺りは闇に包まれていてルルが置いて行ってくれたのか枕元のサイドテーブルの上に置かれた明りがほのかに辺りを照らしている。
急いで部屋を出てすぐ隣の扉を小さくノックするとすぐに返事が返って来たので少しだけ安心した。
「呼んでないぞ、僕は」
シオンはいつものように書斎机に座って本を開いて顔も上げない。
「すみません。いつの間にか寝てしまったようで……お食事はもうお済みですか?」
「とっくに済んでいる」
時間からして当たり前なのにその返答に落胆する。わたしのやれることと言ったらシオンにお茶を入れることくらいしかないのに今日はそれすらも満足にできなかった。
「お前が口を開けて寝ていたことは知っている。さっき見たからな」
そんな間抜けな姿を見られていたなんて、と頬に血が上るのを感じる。
「あのう、シオン様、わたしは今はお茶を入れることしかできませんが、ルルさんにいろいろ教わってがんばりたいと思いますので……いえ、もちろんルルさんのようには到底こなせないとは思いますが」
「当たり前だ。僕の目から見てもルルは相当にできる使用人だ」
「そ、そうですよね。では料理とかお洗濯とかお掃除とかどうでしょう」
「料理は料理人がいるし、洗濯も掃除も専用の使用人を雇っている」
「では、ええと、畑仕事とか?そちらのほうはかなり自信がないのですが」
「さっきから一体お前は何が言いたいんだ」
イラついたように本を閉じため息をつかれ途方に暮れたような気持ちになる。わたしは自分の気持ちをうまく言葉にするのがどうも下手なようだ。
「いえ……。あの、あんなに立派なお部屋もいりませんし、豪華な食事を頂けなくてもかまいません。どこか屋敷の隅のほうでもいいのでこれからもわたしをここにおいてください」
ぺこりと頭を下げる。
今日の出来事で分かった。あの孤児院に入ってやっていけるとは到底思えないし、わたしを奇異なものでも見るような好奇の視線はつらい。所詮わたしは異端者であまり人と会うことがないこの屋敷の中はわたしにとって非常に心地の良いものだった。たとえヴィングラーのすすめでもあの孤児院には入れられたくなかった。
頬づえをついてじっとわたしを見つめるシオン。
無表情ゆえに沈黙の時間が痛い。
「茶をもらおう」
「はい、只今」
慌ててお茶の用意を始めるとシオンは立ち上がり一つ伸びをしてからソファに移動した。
「お前も飲め」
「はい」
言われてカップを二つ用意する。温めたカップに頃合いを見計らって香茶を注ぐ。部屋の中に香茶の香りが漂い、無言のままひじ掛けに片肘をついているシオンの前に静かにおいた。




