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ミレア・マーダー。
心の内で何度も復唱し、刻みつける。
「子供がふたりいますが、すでに成人して独立しています」
「…………」
無意識のうちに唇をかみしめた。
ふたりの子供……。
シオンもすでに成人しているので、シオンより年上だというその子供が成人しているのは当然だろう。
シオンが家を出てしまったあの日から、エミリアはいつかその子供たちがウリウスの後を継ぎ、自分は屋敷から追い出されるものだと覚悟していた。しかし一年たっても二年たってもウリウスは全くそんなそぶりを見せずに変化のない生活を送るのを不思議に思ったものだ。
「実は少し疑問に思っていたことがあって、ちょっと調べたんですが」
「疑問……ですか?」
「はい。思いのほか時間がかかったのはそういうわけなのですが……その、お聞きになりますか?」
「調べたことについてですか?」
何となくためらいを見せているアギトに、エミリアもしばし逡巡する。
「それは……アギトから見て聞かない方がいいことなのでしょうか?」
知りたいという欲求よりも今は聞くことによって自分が受ける衝撃が怖い。
「エミリアさまが今後どうされたいかによって変わって来ると思うので一概には言えないと思います」
「わたくしは……、ウリウスと、もう一度話がしたくて、今回のことをお願いしました」
「それなら御館様と話をする前に聞いておいた方がいいと思います」
「ではお願いしますわ」
汗がにじんだ掌を握りしめる。
「まず、その二人の子供は御館様の子供ではありません」
「え」
「シオン様も勘違いをしていらしたのですが、ミレアという女性は一度結婚しております。残念ながら夫の方は若くして事故でなくなり、それからはウリウスさまの援助を受けて生活していたようです。現在その女性が出している店も御館様の援助によるものです」
子供は、ウリウスの子供じゃなかった……。
こわばっていた身体から力が抜ける。
十年以上、信じ込んでいたものがあっけなく崩れた。思えばウリウスに対する不信感の元になったのが、他の家庭の存在だった。単なる女の問題だったら、ここまでエミリアの心に影を落とさなかったようにも思える。見たこともないのに、笑いの絶えない幸せな一家の幻覚がエミリアの心を頑なにし、ウリウスを拒絶させたのだ。
「ミレア・マーダーという女性と御館様の関係がいつから始まっていたのかは定かではありません。実は御館様の過去が、ある一定の年齢以上から先がまったく分からなかったので。それでミレアの過去を調べました。彼女はある孤児院の出身です。成人と同時に孤児院を出て結婚し、夫と死別したのはその女性が21歳の時になります」
「先程の話からすると、その方の夫が亡くなられてすぐにウリウスが援助をしていたということでしたが、その時点でお知り合いでしたわけですね」
子供のいる女の面倒をみると言うからにはそれなりの関係があったのだろうと推測されるのだが、それならふたりはいつ知り合ったのだろうか?
「その女性は御館様より三つ年上ですから、21歳の時御館様は18ですね」
18歳……。そのころエミリアはウリウスとまだ出会っていない。そんなに昔から、その女性と関係があったのか。
それにしても18ならとっくに適齢期を過ぎている。そんなにミレアの面倒を見たかったのならその時点で結婚すればよかっただけの話だ。なのに自分と結婚するなんて、一体どういうことなのか。
いまだにエミリアは一体何故ウリウスが自分に求婚したのか分からない。貴族なんて名ばかりの自分と結婚することで何か享受するものがあったのか。
「ウリウスの過去が分からなかったとはどういうことですの?」
「ヴィングラー家はそのころすでに世間では名の知られた商家でしたが、その嫡男はなぜか成人するまでだれにも知られていなかった、言葉にするとすごく不思議ですが、そういうことなんです。不確かな噂めいたものはいくつか耳にすることは出来ましたが、あまりにも想像の域を出ない話しなので。もう少し時間をかければ何か分かるかもしれませんが、中途半端な結果に終わってしまい申し訳ありません」
首を垂れるアギトにエミリアはあわてて首を振る。
「いいえ、わたくしがお願いしたのはウリウスの居所です。アギトは十分な働きをして下さいましたわ」
「エミリアさまは御館様を訪ねられるのですか?」
「……そう、ですわね。そのためにここに帰ってきたつもりでしたが……」
「向かわれる際にはぜひ、わたくしめをお供にお連れ下さい」
「ええ?でもそれは……」
そんなことをしてもらうわけにはいかないとエミリアはいったが、アギトは譲らなかった。
「分かりました。ではウリウスの元を訪ねるときにはお願いしますわ」
「ありがとうございます」
根負けしたエミリアの言葉に安心したようにアギトは柔和な笑みを浮かべて屋敷を辞した。
一人になり、ぼんやりと視線を落とす。
あれほどまでに意気込んでビュータを出てきたのに、今のエミリアの中には虚しい思いだけが広がっている。自分が戦うべきものは何だったのか。周りの声に踊らされて下らない意地を張ってかたくなに閉じこもって。
ミレア・マーダー。
ウリウスの愛人。
自分と出会う前からの関係。
ミレア・マーダー。
名前を呟く。
胸がかきむしられそうになる。
今、自分の側にはいないウリウスはミレア・マーダーの元にいる。今この時も抱き合っているのかもしれない。あの時の自分とウリウスのように。
今ならケーキナイフを持って愛人の元へ向かったターシャの気持ちが痛いほど理解できる。
けれど、自分に乗り込んでいく資格があるのか?
鎹になる子供もいない。
自分から離縁を申し入れウリウスの記入済みの離縁状まで手元にある。
何よりウリウス自身が自分で選んでミレア・マーダーの元に身を寄せている。
そのことが、エミリアを打ちのめし行動を起こすことをためらわせる。
深くため息をついた後でエミリアは両手で顔を覆った。




