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食卓の脇にすぐに水場が作られているそこは、古くてこじんまりとしていたが、隅々まで掃除がされていて、気持ちの良い空間だった。
足音に顔を上げると、数年前とちっとも変わっていないルルが深々と頭を下げる。立ち上がろうとするエミリアを制して、傍らにある台所でお茶を入れてくれた。
「わざわざご足労いただかなくても声を掛けて下さればこちらからお伺いいたしましたのに。このような見苦しい場所での応対となることをお許しください」
「いいえ、そんなこと気になさらないで。わたくしの個人的な用事で来たのですから」
出されたお茶が美味しくて、どこか緊張していたここが解きほぐされるのを感じる。傍らに立ったままのルルに、
「どうぞ座って頂戴?もうあなたは使用人ではないのですから」
「申し訳ありません、つい癖で。では失礼いたします」
はにかみながらエミリアの向かいの椅子に腰かけたルルは、ちっとも変っていないようで、全然別人のようにも思える。こんなふうに笑うような子だったかしら?
ピンと伸びた背筋も昔のままなのに、柔和な印象を受ける。
「突然伺ってしまって。ご迷惑ではなかったかしら?」
「迷惑などと。エミリア様はじめヴィングラー家の皆さまには夫婦ともに大変お世話になっていますので、いつでもいらして下さい」
ヴィングラー家の皆。そのヴィングラー家は一人ずついなくなり、今ではたった一人になってしまったのに。
「そう言っていただけると幾分心苦しさも薄れます。確かお子さんが生まれたのではなかったですか?男の子の」
「はい。先月一歳になって、今は義母が見てくれています」
「義母さまと一緒に暮されてるの?」
「いえ、流石にここでは手狭になりましたので結婚した時にこの家の隣を買い取ってそちらに住まわれています。義妹さんと一緒に」
「……というのはほとんど建前で。口うるさい母と妹なんで、とても一緒には暮らせないというのが本当のところです。お待たせして申し訳ありません」
接客を終えたのか、店からアギトが戻ってきた。ルルはアギトにもお茶を淹れるために立ち上がる。
「いいえ、お客様は帰られましたの?」
「はい、無事お買い上げいただきました」
アギトはルルと並んで座り、差し出されたお茶を美味しそうに口に含む。
そういえばエミリアは義母との縁が薄い。5年前に亡くなったが、片手で足りるほどしか会ったことはなく、ほとんど記憶にない。ウリウスと結婚した時、義父はとっくに他界していたし、義母は存命だったが、一緒に暮らしていないどころか、屋敷のあるソーフヒートとは別の街に暮らしていた。義父が亡くなると同時に実家のある街で隠居生活を始めたとウリウスから聞いたことがある。
「商売も順調なようでなによりですね」
エミリアの言葉に、アギトはかすかに笑みを浮かべた。
「はい、武器屋など、この平和な時代にそぐわないのでしょうが、発想の転換だと知人に後押しされ再開することを決めました。おかげさまで父の代よりも繁盛しております」
「何でも名工の品を扱っているとかおききしたのですが、わたくしも後で見せてもらおうかしら?」
「よろしければ後日お屋敷にお持ちいたしますよ」
遠くからふたりの子供のものだろうか、楽しそうな子供の嬌声か聞こえてくる。
「あの……実は今日お伺いしましたのは、調べたいことがありまして。人に頼むにしても信頼のおける人にお願いしたいことですので、よろしければそういった方を紹介していただけないかと。厚かましいとは思いましたが……。わたくしにはそういったコネや伝手が一切ございませんので」
屋敷のものに仲介を頼むという手もあったが、どういう形で話が広まる可能性があるかも分からない。出来るだけ口が堅く、今現在屋敷で働いていないものを、と考えると、目の前の二人が最も適任なように思えた。
いつも柔和な笑みを浮かべたようなアギトの表情が引き締まる。
「調べたいこと、ですか。何人かそういうことをしてくれる人物に心当たりはあるのですが……。その調べたいこと、という内容はどういったことなのかお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「わたくしは席をはずします」
「いえ、構いませんわ」
そっと席を立とうとしたルルを押しとどめ、エミリアは口を開く。
「ウリウスが、あの人が今どこにいるのか居場所を知りたいのです」
表向きはいつも通り何もない平穏な日々が続く。
寒さが厳しくなるにつれすっきりしない天気が続き、気分もふさぎ込みがちになる。
出来るだけ早くしてほしいとアギトにお願いをしたが、五日たっても六日たっても返答はなく、じりじりとした焦燥感に駆られる。のんびりする気にもなれずに、屋敷の中を当てもなく歩く。東西南北の棟に分かれた屋敷はエミリアが足を踏み入れたことのない場所も多数存在する。誰もいないのに使用人はみな文句も言わずに汚れてもいない場所を毎日掃除している。汚れたら掃除をすればいいのだというエミリアに、使用人たちは身体を動かした方が気が紛れますからと、笑顔で返す。
やはり皆、不安なのだろう。
それはもちろんエミリアも。
あまりいつもと違う行動をとっていては皆の不安をあおるだけだと気付いたので部屋に戻る。クランの花はとっくに見ごろを終えて庭師に刈り取られていた。
「お茶でもいかがですか?」
「そうね……お茶ってどうやって淹れるの?教えてもらえるかしら?」
「は……あ」
その時のシーラの表情は、何と表現したらいいのか分からないが、またもやいたずらに不安を抱かせてしまったことだけは確かなようだった。
翌日の昼下がりに、ようやくアギトがエミリアの前に顔を見せた。
部屋に通すなり、アギトは深々と頭を下げる。
「報告が遅れてしまい大変申し訳ありません」
シーラを下がらせて二人になると改めてエミリアは身を乗り出す。
「いいの、あの、それで?」
「先に申しあげておきたいことが。実は御館様の居場所は数日前、エミリアさまが家に来ていただいた時すでにわたくしは知っていました」
「え?」
「数年前、まだわたくしがシオン様の使用人だったころ、シオン様に頼まれて、御館様のことを少し調べたことがあったのです」
「……シオンがですか?」
「はい。その、御館様の、愛人……と称される人のことを調べて、実際にその場所にシオン様をお連れしました」
そんなことを、あの子がしていたのか。噂を聞いているとは思ってはいたが、まさか会いにまで行っているとは思わなかった。大人びた子どもだったとは言えどんな思いでそこまでの行動を起こしたのかと思うと心が痛む。
「それで、あの子は会ったのですか?どういった様子でしたか?」
「いえ、結局は直接お会いせずに遠くから様子をうかがっていただけに留まるのですが。このことをあの日お話ししなかったのは、シオン様に他言無用といわれていたからなのですが、実際今もその愛人……宅にいらっしゃるか分からなかったので……」
エミリアの前で愛人と呼ぶのは流石に憚られるのか、言いにくそうにその単語を口にする。
「でもいたんですね?こうやってお話ししたということは。その人のところに」
「はい。その方はミレア・マーダーという女性で隣町で小さな酒場を開いてます」
やはり、いたのだ。
クランの花の女が現実のものとなりエミリアの前に立ちふさがる。
酒場をやっている女主人というのはエミリアの予想とは違っていたが。
いつの間にかエミリアの掌はじっとりと汗をかいていた。




