18
馬車は慌ただしく出立した。
あれだけ世話になっておきながらエンリの顔も見ないで出立するのはいささか心苦しかったが、ターシャは気にしないでと笑顔で送り出してくれた。
「来たばかりで身体も疲れているでしょうに、ごめんなさいね」
向かいに腰掛けたシーラに言葉を掛ける。
「いいえ、わたくしのことはお気になさらないでください。それよりもエミリア様の方こそお痩せになって……御身体の方は大丈夫なのでしょうか?」
「ええ、大丈夫。そんなに痩せたかしら?」
確かにここ数日しっかり食事をした記憶はないがと思いながら視線を落とすと骨と血管が浮き出た手が視界に入り、われながら気持ちが悪くなった。そういえば鏡もろくに見ていなかったが、この分だと顔も老婆のようになってしまっているのではないかと思うと、ぞっとした。無理にでも何か食べておかなくては。
「はい。もともとお痩せになっておられるのに……そういえばわたくし持参した手土産をお渡しするのを忘れておりました」
シーラは持っていたカバンを探り、エミリアが気に入ってよく食べていたお菓子を取り出す。
「よろしかったら、召し上がってください」
「いただくわ。そういえば、わたくしが向こうに滞在中も荷物の中にこのお菓子を入れてくれて。とてもおいしく頂きました」
早速包みを開けて口の中に入れると優しい甘さがほろほろとほぐれて行く。
「荷物……ですか?」
少し戸惑ったようにシーラは首をかしげている。
「ええ。週末に必ずたくさんの贈り物を。生家の皆もとても喜んでくれて」
「そうなんですか。それはとても喜ばれたことでしょう。でもすみません、そういったことはわたくしどもはしておりませんが」
「…………」
ではやはりあの荷物はウリウスが用意したものだったのか。訳もなく落ち着かない気分になる。
「あ、あの、ウリウスは、どうなさっているかしら?」
さりげなく名を出したつもりが声が上ずってしまう。
「御館様ですか?」
シーラの顔が少し曇る。
「実は……。エミリア様が屋敷を出られてすぐに御館様も屋敷を出られて、以来御館様は一度も屋敷にお戻りになられておりません」
「え?でも、ウリウスに言われてこちらに来たのでは?」
「そうです。正確には手紙で指示されたので、お会いしたわけではないのです。その手紙で、御館様付きの使用人も解雇することも明記されて、ちょっとした騒ぎになりまして。正直なところどう対応していいのか分からなくなり、エミリア様にご指示をいただこうとこちらに伺った事情もありまして。ですから、エミリア様が屋敷にお戻りいただけるなら、そのほうがわたくしたちには有難いのです」
自分がソーフヒートを出てからひと月以上はたっている。その間ウリウスは一体どこへ?もちろん屋敷を長期空けることは今までだって何度もあった。しかし今回の不在は聞いていないし、使用人も解雇したとなるとこれまでとは事情が異なる。ウリウスは、ソーフヒートの屋敷はエミリアに譲ると言っていた。売るなり、住むなり好きにすればいい、と。あれはもうウリウスは屋敷には帰らないという意味だったのか。
「エミリア様、ご気分でも悪いのですか?」
「……大丈夫です」
「今夜は早めに宿をお取りしたほうがよろしいでしょうか」
「いえ、出来るだけ早く帰りたいの」
顔をこわばらせたままのエミリアに何か感じ取ったのか、シーラは、
「分かりました、できるだけ急いでもらえるようにお願いしてきます」
小窓を開けて御者に指示をするシーラ。心なしか、進みが速くなった気がするが、エミリアは重苦しい気分で視線を落とす。行きは4日かかった。身体に負担にならないようにとの配慮からか、行程はのんびりしたものだったけれど、それが急がせるとどれだけ短縮されるのか分からない。陽が傾き始めた窓の外に目を向けて、無為に過ごした三日を悔やんだ。
見覚えのある街並みに入ることが出来たのはそれから二日後のこと。
途中、馬に負担がかかりすぎるからと馬車ごと乗り換えた。身体は疲れていたが、ようやく到着できた思いでほっと気が緩む。
「屋敷に帰る前に寄りたいところがあるんです」
「エミリア様、今日はもう遅いですし一度お屋敷に戻られて明日、出直された方がよろしいのではないでしょうか」
言われてみればすでにとっくに日は落ちてしまっている。焦る気持ちはあるが、確かに日を改めたほうがよさそうだ。シーラにも無理をさせてしまって申し訳がなかったので、了承する。
屋敷は暗くひっそりとしていた。
エミリアの乗った馬車が到着しても誰も迎えに出てこない。
「申し訳ございません、エミリア様、今人を呼んできます」
シーラが屋敷に入ってしばらくすると慌てたように幾人かの見慣れた使用人が駆けてきた。
「お、お帰りなさいませ、エミリア様」
「荷物をお願いします」
さすがに身体のあちこちが痛くて一刻も早く休みたかった。一月以上も空けていたけれど、やはりここはエミリアの家だ。緊張が緩んで行くのが分かる。寝巻きに着替えてベッドに潜り込むが身体はひどく疲れているのに妙に目がさえてしまってなかなか眠りは訪れてはくれない。
しばらくたったころ、ドアが控えめにノックされ、シーラが入ってきた。温めたミルクを運んできてくれたので、上半身を起こし、有難く受け取る。
「シーラ、あなたもわたくしに付き合わされて疲れたでしょう。どうか休んでちょうだい」
「はい、カップを片付けたら休ませていただきます」
ミルクにははちみつが入っていて、温かさと甘さに身体がゆっくりとほぐれて行く。
「ウリウス付きの使用人たちはもうここにはいないのかしら?」
「いえ、突然のことで行き先の定まらないものたちもいますので、未だこちらにとどまっております。ただ、皆途方に暮れた状態ですので……」
「そう……皆には申し訳なく思っています。生活や仕事のことなど心配しないで。新しい仕事はこちらで責任を持って見つけますし、それまでは今まで通りここで働いてもらいます。皆にはそう伝えてもらえるかしら?」
「はい。エミリア様がそうおっしゃっていただけるなら皆、安心するでしょう」
ミルクを飲み干し、シーラが一礼して部屋を退出する。
一人になると部屋の中の温度が急に下がったような気がして、ベッドにもぐりこむ。
生活の心配はいらない?新しい仕事を見つける?
口ではああ言ったが、エミリアにはその手段すら分からない。この広大な屋敷を一人で切り盛りしていくなど、到底無理だ。今まですべてのことをウリウスがしてくれていたから。そもそも自分こそ、一体どうするのだろう。ウリウスから渡された書状はまだエミリアの手の中にある。覚悟して離縁を申し出たはずだったが、全く何の覚悟もできていなかったことに今更ながら気付かされた。あの時、ウリウスは何も心配しなくていいと言ってはくれたが、実際にどうなるのかなど全く分からない。
屋敷に努める使用人は二十人を超える。その人たちの人生も、エミリアの肩に重くのしかかる。
心細くてたまらない。
結婚以来、自分は孤独なのだと思い込んでいた。夫から顧みられずに、寂しくて辛かった。でもそれは違っていた。ウリウスは目に見えないところで、自分の生活を支えて守ってくれていたのだ。そんなことに十年以上気付こうとしなかった自分の愚かさを、今はただ、悔やむことしかできない。
いつも朝食は食べなかったのだが、今日からは簡単なものを出してもらうことにした。朝起きて身支度を整えようと鏡を覗きこんで、幽鬼のような女に、思わず息をのんだから。まずは無理にでも食事をとってこけた頬を戻さなくては。
「朝食を終えたら行きたい場所があるの」
「昨日おっしゃっておられたところですね。馬車を用意させますか?」
「いえ、街の中ですので歩いていきます」
「分かりました、わたくしもお供いたします」
「お願いしますね」
朝食を終え、身支度を整えシーラと共に屋敷を出ると、外に所在なさげに男が立っている。エミリアには馴染みのない使用人だったが、確か馬の管理を任されている、確かルカウドといったか。
「あ、エミリアさま、おはようございます。今日は、あの、よろしくお願いします」
ルカウドはエミリアを見ると何度も頭を下げる。
「?」
「わたくしとエミリアさまだけでは何かあった時に満足に対応出来るか分かりませんので一応ルカウドにもお願いしてついてきていただくことにしました。はっきり申して余り頼りになりそうもありませんがいないよりはましでしょうから」
「まあ、そうですの。では行きましょうか」
「は、はい!」
並んで歩くエミリアたちの二歩後ろをついてくるルカウド。
門を抜け通りを歩きだす。屋敷の周りは人通りが極端に少ない。思えばここを自分の足で歩くなど初めての体験だ。ヴィングラーの屋敷をぐるりと取り囲む高い塀に沿って歩みを進めるが、いつまでたっても風景が変わらない。
「エミリアさま、よろしければどちらへ向かわれるのかお伺いしても?」
しばらく無言で横に並んでいたシーラが口を開く。
「ああ、そうね、言ってなかったですわね。アギトの……、昔屋敷で働いてくれていた者が、街でお店を出したそうなの、そこへ行きたいの」
「え!アギトのところ、ですか!」
後ろのルカウドが頓狂な声を上げる。
「ご存知ですか?」
エミリアが振り返るとルカウドは力強く頷く。
「は、はい、存じております、結構仲良くしていたものですから。あの、ちょっと方向が違うので、自分についてきて下さい」
「良かったわ。助かります」
実は詳しい場所をエミリアも知らなかった。街に出れば分かるだろうと安直に考えていたのだが、いつまでたっても街にすらたどり着けないとは考えもしなかった。
ルカウドの後ろをついてしばらくするとぽつぽつと店らしきものが見えてくる。
「アギトは今、親父さんの店を継いで武器屋をやっているんです」
「まあ、お父様の」
「親父さんが早くに亡くなって一度は閉めてたみたいですが」
「屋敷をやめてから一度挨拶に来てもらったの。ルルと結婚することになったから、と」
シオンが屋敷を出てすぐ、アギトとルルの二人同時期に屋敷を辞めた。しかし結婚するような仲だとは思ってもいなかったのだが、挨拶に来てくれたときに何かあったら力になるので声を掛けてくれと言われ、その言葉を頼りに今日、訪ねて行くことにしたのだ。
「あ、ここです」
そう言ってルカウドが立ち止まったのは思ってたよりも小さな店構えの武器屋で、賑やかな通りの隅の方にひっそりと看板を出していた。まだ朝早い時間のせいか通りの店はどこも開いていないが、その武器屋だけは開いていて、店の前には立派な馬車が止まっている。
「どなたかいらしているのかしら?」
「ああ、多分お客さんが来てるんだと思います」
「こんな早くに、武器屋に、ですか?」
意外そうなシーラの言葉に、
「武器屋といっても、この店はもう美術商と言ってもいいんじゃないかな。なんでもその道ではとんでもなく有名な武器職人の物を扱う店だから。その武器職人の武器ってほとんど市場に出回らないんですけど、なんでかアギトの店にだけは入荷するんで、あちこちから金持ちが買いに来るんです」
「そうですか。お客様がいらしているのですか」
入るのを躊躇するエミリアを尻目にルカウドは気にする素振りもなくずかずかと店に入っていくので慌てて後を追う。
「アギト、久しぶりー」
中で立派な身なりをした紳士となにやら話し込んでいたアギトは、ルカウドにぞんざいな視線を投げた後、後ろにいるエミリアを目にとめて、驚いたように目を見開く。
紳士に断りを入れ、
「ご無沙汰しております、エミリアさま。どうかなさったのですか?」
「突然訪ねてごめんなさい。あの、……」
言いかけて、自分の用事を一言で表すのはとても難しいことに気付く。一体どこから話せばいいのかすら分からなくなる。
口ごもるエミリアを見て、何かを察したのか、良ければ奥でとアギト自宅に迎え入れてくれた。
ルカウドとシーラには、話がすんだら自分が屋敷まで送るから帰ってくれて構わないと話をしている。
「アギト一人で大丈夫か?」
「アギトさんならルカウドが付いてくるよりもよっぽど安心できます。エミリアさま、それでよろしいでしょうか?」
「ええ、大丈夫。二人は先に屋敷に戻っていてください」
あまり今現在働いている使用人たちには聞かれたくない相談ごとだったのでむしろほっとした。
傍で何やら武器を眺めている貴族らしき紳士に頭を下げ、エミリアは店舗奥にある自宅に通された。
「すみません接客の途中ですので座ってしばらくお待ちください」
「突然押し掛けたのはわたくしですから」
エミリアの言葉に笑みを浮かべアギトは店に戻る。小さく息をついてエミリアはそこにあった食卓の椅子に腰を下ろした。




