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どうして、なぜ、という疑問ばかりがぐるぐるとエミリアの頭の中を埋め尽くす。
「どうぞお掛けになって下さい。お茶をお持ちしましょう」
「いいや、必要ない。茶を飲むつもりもない。妻が世話になっているらしいが?」
ウリウスの視線が一瞬エミリアに向けられるのを感じたが、うつむいたまま、顔を上げることもできない。
うつむいた視線の先にドレスの胸元が映る。お気に入りの萌黄色のドレス。胸元のボタンが外れていて、血の気が引く。乱れた髪と身形を、ウリウスは一体どういう目で見ているのだろうか。
ドア付近で立ったままソファに座ろうともしないウリウスに少しだけ戸惑いを見せていたが、
「ええ、仲良くさせてもらってますよ。ねえ、エミリア?」
薄く笑いを浮かべながら同意を求めてきたヴォイドを怒りを込めてエミリアはねめつけ、落ち着きを取り戻そうと小さく息をつく。あまり意味はなかったが。
「一体、どういうことなんでしょうか。何故あなたがここにいらっしゃるの?」
「なぜか?呼ばれたからだよ。君のお友達にね」
いつもと全く変わらない口調のウリウス。そこからは何の感情も読み取れない。
「まあ、お座りになられたらどうです?話は長くなるでしょうし」
「いいや、わたしは長話をする気もない」
きっぱりとした口調で懐から封書を取り出す。
「ダガール・ヴォイド。これは君の望んでいたものだ」
「は……」
ヴォイドはしばし呆けたように封書を凝視する。
「借金があるようだね。ダガール。もともと裕福ではない家ではあったが身の丈に合った生活と真面目に仕事をこなしていれば称号剥奪の瀬戸際になるほどではなかったろう。女に入れ込んで妻と子供に逃げられ女にも逃げられた。そこで自らを省みなかったのかね、ダガール。これを手にすればこの先働かなくても暮らしていけるだろう。もしかしたら逃げられた女も帰ってくるかもしれないね。それとも妻と子供に戻ってきてもらうつもりかな」
淡々と語られるその内容にヴォイドの顔が引きつり、赤くなる。
貧しい暮らしぶりであるのは見て分かったが、称号剥奪されるかどうかくらいに切羽つまっていたとは。
だから自分を利用した?一生遊んで暮らせるほどの大金をウリウスから引き出すために?
「あなたには言われたくないなあ、ウリウス=ヴィングラー。確かにあなたは成功者だ。けど、あなたと僕の違いは金があるかないかだけだ。あなたの回りから女が去らないのは金があるからだ。それだけさ。妻は家を出て幼馴染みと密会を繰り返す。そこまで僕のことを調べたなら自分の妻の噂も当然耳に入っているだろう?昼間から間男の家に入り浸っている自分の妻の噂も。しかも間男ときたら金も地位も何もない、そんなつまらない男だ。どんな気持ちだい?そんな男に寝とられるなんて」
「ヴォイド!」
聞いていられなくなり、エミリアは悲鳴のような声をあげ、なじる。
「何を言っているのですか?あなたとわたくしとの間にそのような関係など……」
赤を通り越してどす黒い顔色にまで変化しているヴォイドの口元に歪んだ笑みが浮かぶ。それは見ようによってはとても卑猥でいやらしいものに見えた。
「エミリア。いいんだよ、そんな乱れた髪で言い訳をしなくても、何がここで行われていたか誰でも想像できるさ」
「…………!」
怒りで頭に血がのぼる。この時のために、ヴォイドは先程のあの行為をやってのけたというのか。すべてウリウスに見せるためにやったことだったのか?どんな言葉で目の前のこの無礼な男を詰ってやれば打撃を与えることが出来るのだろうか。
「わたしの気持ちが聞きたいと?」
怒りで言葉が紡げなくなっているエミリアとうすら笑いを浮かべているヴォイドの間に一人いつもと変わらないウリウスの声が割って入る。
「それこそ、ダガール=ヴォイド、君には関係のない話ではないか」
手に持っていた封筒を爪ではじく。封筒はウリウスの足元の、何年も張り替えていない、色あせた絨毯の上に落ちる。
「君のすることは、それを這いつくばって拾い、わたしと妻の前に永久に姿を見せないことだ。言っている意味が分かるか?ダガール。その金で君は幼馴染を永久に失うことになる」
迷いもなくヴォイドは動いた。膝をつき絨毯の上の封筒を大事そうに拾う。その光景を視界に入れるのも嫌だったのか目を逸らし、ウリウスはエミリアに向かって、
「お別れを済ませるといい。ふたりで」
一言言い残しそのまま部屋を出て行く。
「…………」
「…………」
ヴォイドは封筒を大事に懐にしまうと、無言のままエミリアの向かいのソファに腰を下ろす。
エミリアはその一挙手一投足を凝視する。もしかしたら、目の前のこの人はいつの間にかすり変わった全然別の人間で、自分の知っているその人ではないのかもしれないとあり得ない想像をしてしまった。しかし、エミリアの視線に少しだけ気まずそうに若干の媚を含んだ笑みを浮かべるヴォイドを見て、そんなわけがないと納得し、怒りはいつの間にか霧散して、代わりに少しの喪失感と多大な疲労感だけが残った。
「エミリア、君には……本当に悪かった。僕たちの大切な思い出を利用するようなことをして、申しわけないと思っている。ただ、僕もそこまで追い詰められていたんだ」
神妙な表情で頭を下げるヴォイドを不思議な生き物でも見るかのような気持ちになる。追い詰められていたから、どうだというのか。自分には全く関係がないことなのに、追い詰められていたから他人の気持ちを踏みにじることも仕方がないとでも言うのか。
「……いいえ。そうですわね、わたくしも気付くべきでした。元幼馴染がそこまで追い詰められていることに。知っていたはずでしたのに。あなたがいい人で、臆病な、卑怯者だということを」
「…………」
無言のままうつむくヴォイド。
「ウリウスの気持ちが聞きたいようでしたから、わたくしが教えて差し上げますわ。わたくしが本当に他の男に抱かれていても、彼は何も感じることはないでしょう。ウリウスは、わたくしに関心などないのですから」
「それは……どうかな。本当に関心がなかったらこんなところまで来ないと思うけれど」
「ウリウスがここに来たのは別の件です。ヴォイドには関係のないことですが」
多分、離縁の話をしにきたに違いない。こちらから行くつもりであったので、向こうから来るとは思っていなかったが。
もうこれ以上話すことはない。
立ち上がったエミリアに、ヴォイドが懐から封筒を取り出す。
「僕にとってこの中身は何よりも代えがたい。初恋の大切な女の子とのつながりよりも。でもウリウス=ヴィングラーにとっては違う。関心のない妻をろくでなしから切り離すことが出来るのなら簡単に差し出せるものだ」
「……中身は一体なんですの?」
「権利だよ。ある商品の。ヴィングラー家がどうやって利益を得ているのか知っているかい?」
黙って首を振る。
「様々な商品の権利を有しているからさ。その商品が売買されるたびに決められた金が入ってくる。金は使ったらすぐになくなるだろうけど、権利を有していれば半永久的に金が入り続ける。そのうちの一つくらい恵まれない男に譲っても罰は当たらないだろうさ」
「…………さようなら、ダガール」
そのままエミリアは振り返ることはせずに屋敷を出た。
ダガール家の門の前には場違いなほど立派な馬車が停車していて、正装した御者がエミリアを見ると恭しく頭を下げる。
「どうぞ」
「いえ、わたくしは」
自分の乗ってきた馬車で帰ると断ろうとおもっっていたら、先に乗車していたウリウスから、
「君の馬車はもう帰した。これで送ろう」
「…………」
狭い箱の中でふたりになるのは気が進まなかったが断るのも変だったのでおとなしく乗り込み、ウリウスの向かいに腰掛けた。内装はあり得ないくらい快適な仕様になっていて、多少窮屈ではあろうが就寝もできるくらいの広さはある。
扉が閉められ、ウリウスが壁をこつこつと指で叩くとゆっくりと馬車は走り出す。
「…………」
「…………」
話合わなければいけないことはたくさんあった。言わなければいけないことも。ただ、口火を切ることが出来ずにエミリアは小さな窓から遠ざかるダガール家を静かに眺めていた。




