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数日間冷たい雨が降り続いた。
気温が一気に下がり、もうすぐ冬が来るのを肌で感じる。ソーフヒートでは積雪はめったにないが、この辺では冬の寒い時期何度か雪が降り町は白く彩られる。そうなるにはあとふた月以上後のことになるだろうが、それまでに何もかも終わっているのだろうか。
約束の日の前日までにエミリアは部屋の荷物をまとめていた。ひと月以上も間借りしていたのでかなりの荷物の量であったが、持ってきたドレスの内ターシャが気に入ったものがあれば譲ることにし、半分ほどに減らす。
ウリウスに手紙を出したその日の内にエンリとターシャに事情を話した。ターシャはひどく驚いていたがエンリはただ静かにうなずいた。エンリの仕事にも少なからず影響が出ることだけがエミリアの心配の種だったがエンリは気にするなとだけ言ってくれた。
ダガール家に行くために馬車を出してくれというエミリアの申し出にもエンリは何かを言いかけたが結局は何も言わずに馬車を用意してくれた。
とっくにウリウスの元に手紙は到着しているだろうが、ウリウスからは何の返事も来ていない。
戸口に立つエミリアを見て、ヴォイドは満面の笑みで出迎えてくれた。
その顔にふと違和感を覚える。エミリアの記憶にあるその人とは全然別人になってしまったかのような。
「来てくれてうれしいよ。さあ、上がって」
「今日もミーサはお休みを?」
「もちろん、君が来てくれるというから休みを取らせた。気兼ねなく寛いで欲しくてね」
なんとなく屋敷に入るのを躊躇してしまっていたエミリアの肩を半ば強引に抱き、ヴォイドは部屋に招き入れた。
「今日はゆっくりしていってくれる?なんなら泊って行っても構わないよ?」
冗談交じりに見せかけた言葉に小さく笑みを浮かべてかぶりを振る。
「いえ。今日はヴォイドにお別れを言いに来ただけですからすぐに御暇いたしますわ」
「お別れ?一体どういうこと?」
ヴォイドの顔から笑みが消える。
「生家がとても居心地がよくて思いの外長く滞在してしまいましたけれど、そろそろ戻ろうかと思いまして」
「戻るって?王都に?」
「ええ」
ウリウスからなんの反応もないからと様々な問題を放置しておくわけにもいかない。エミリアも今後のことを手紙で済ませるつもりはなかった。一度屋敷に戻ってこれからのことを話し合う必要がある。
「理解できないな。なんのために帰る必要があるんだい?僕をおいて?」
「あの、ごめんなさい。わたくしの思い違いでないのならあなたはわたくしと友達以上の関係を望んでいる、のかしら?」
「とっくに分かっていると思っていたけど。お互いに既婚者で子供もいる。昔のようにごっこ遊びで満足している年じゃないだろう?もっと直接的な言葉が聞きたい?僕は君に欲情している。肌を重ね合わせたい。一つになりたいと思っているよ」
熱のこもった視線を向けられ、思わずエミリアは目を逸らす。
「ヴォイドの気持ちは嬉しいですけど、その気持ちに答えることはできませんわ。わたくしがこちらに足しげく通うことであなたに誤解させてしまったとしたら申し訳ありません 」
「…………」
正直、ヴォイドの言葉は嬉しかった。長い間、誰からも気にも掛けてもらえなかった自分を賛辞する言葉はぼろぼろになっていた自尊心を慰め、癒してくれた。彼に抱かれたら、もしかしたら今以上に癒されることもあるかもしれない。
けれど、簡単に流されたくない。それがエミリアが一週間考えて出した答え。
「本当に君は、どこまでもお嬢様なんだね」
いきなりヴォイドが楽しそうに声をあげて笑いだし、その変化に驚いて顔をあげた。
「結局は金?田舎の貧乏貴族じゃ君のその美しいドレスのリボンすら買えないだろうね。愛はなくてもってやつかい?」
「ヴォイド、わたくしは」
エミリアの言葉を最後まで聞くこともなく、ヴォイドはいきなりその場にエミリアを組伏せた。
自分の上にまたがるヴォイドにエミリアは言い様のない恐怖を覚える。
「……何をなさるの!」
張り上げた声は驚くほど小さく震えていた。ヴォイドの手がエミリアのスカートをまくり上げ、太股を撫でる。その感触は想像していた甘やかなものではなく背筋におぞけが走る。
身体をよじり何とかヴォイドの下から抜け出そうとするが、細身のはずの身体はびくともしない。
馬鹿だ。
自分はなんと愚かで軽率な振る舞いをしたのか。
例え大声をあげたとしても屋敷には誰もいない。
ヴォイドの手が胸元のボタンに伸びて、激しくかぶりを振る。
こんなことは間違っている。こんなふうな結末は、嫌だ。歯を食いしばる。と、不意に胸元をまさぐっていた手が離れた。
「……なにもしないよ」
思いがけず穏やかな言葉に知らずに閉じていた目を開けると、ヴォイドはゆっくりとエミリアの身体から退くと、手を引いて立たせてくれる。
「ソファに座って。お茶でもいれよう」
「お茶は結構です。失礼しますわ」
状況がうまくのみ込めなかったが、身体の震えは収まらない。一刻も早く立ち去りたくてドアに向かったエミリアをヴォイドが身体で阻まれ、恐怖で身体がすくむ。
「まだ、いてもらうよ。これからお客さんがくるんだ」
「お客さま?」
一体そんなことが自分に関係あるのかと苛立ちを覚えたが、下手に逆らってまた組敷かれでもしたらたまらないので、大人しくヴォイドと距離をとり、ソファに移動する。
来客があるのなら隙を見て逃げ出すこともできるだろう。
ソファに座り、早鐘のように打つ鼓動をどうにか落ちつかせているとヴォイドがカップをもってやって来て、エミリアの向かいに腰かける。
長い沈黙。
いつものようにヴォイドは自分から何か話題を振ることもなく、もちろんエミリアも口を開く気にもなれずに黙って視線を落とす。
どれくらいそうしていたのか、ようやくヴォイドがポツリと呟く。
「まあ、賢明な判断だろうね」
「…………」
「お金はあるに越したことはないさ。なによりも、ね。僕だってこんな生活にはもううんざりだ。朝から晩まで畑を耕す生活にはね。チャンスがあれば、僕だって変われる。そう思わないかい?」
「…………」
離縁する予定だというのはヴォイドには話してもいないし、話すつもりもなかった。もともとヴォイドとは距離を置くつもりで今日ここには最後の訪問のつもりだったが、先程の出来事でさらにその決心は固くなった。
返答は期待していないのだろう、独り言のように呟く。
朝から晩まで畑を耕す生活だという割にはヴォイドの手は柔らかすぎた。とても毎日土をいじっている手とは思えないくらいに。ここに通うようになってから薄々感じていた。なぜ彼が周りから軽んじられているのか。その理由も。
そのとき、来客を告げる呼び鈴が鳴り、ヴォイドが立ち上り、エミリアにここで待つように言い残して出ていく。
一人になり、髪に手をやると丁寧に結いあげたはずの髪は乱れて酷いことになっている。髪留めをとり、背中の半ばまである髪を下ろし、手櫛で整えていると部屋にヴォイドが戻ってきた。
「むさくるしいところですがどうぞ。ここが一番まともな部屋なんです」
卑屈に笑うヴォイドのに続き、長身の男が入ってきた。
エミリアは茫然と息をのむ。
金茶色の瞳が冷たい光を宿し、エミリアに向けられていた。




