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冷たい夜風が火照った頬に気持ちがいい。
バルコニーから見る夜会は窓一枚を隔てているだけなのに遠いどこかのようにまるで現実味がなく見える。つい先程までそこにいたのに。
喧騒に背を向けると途端に夜の静かな世界が広がっている。あと一回、夜会に出て、それでもうお終い。こういった会に出ることももうないだろう。自分にはこういった煌びやかな世界は合わない。ひっそりとつつましく生きれれば、それでいい。胸をときめかすことはないかもしれないけれど、多分、自分にはそれが合っている。
小さく一つ、息をつく。
「風邪をひきますよ」
声とともに肩にふわりとストールが掛けられる。
胸が、ざわめく。
どうしてこの人は。
怒りにも似た思いは、まだ形にもならない感情の渦になってエミリアを支配する。
肩に掛けられたのは藤色のストール。相変わらず気の付く男だ。一体何だってこのタイミングで自分のドレスにあつらえたようにぴったりのストールが登場したのだろうか。
「そのドレス、とてもよくお似合いです」
振り返らないエミリアの後ろから耳元でささやかれ、背筋を冷たい指先で撫であげられたかのような感覚に陥る。
「たくさんの商品を見立てていただいて、ありがとうございます。代金のほうは必ずお支払いいたしますので」
そんな自分の中の感情を振り払うかのようにウリウスに向かいあい、挑戦的に言い放つ。苦笑しながらエミリアの手を駄々っ子を宥めるような動作で取るが、それすら払い除ける。
少しだけ困った様子で肩をすくめるウリウス。
「代金?おかしなことを。あれらはわたしからの贈り物です。喜んでいただければ、それでいい」
無視していたくせに。
目も合わせようともしなかったくせに。自分のことなど眼中にないと言うそぶりで、楽しく談笑していたくせに。
自分が欲しいときにはくれなかったのに。どうして、今、なのか。
ウリウスの言葉がいちいち癪に障る。
そしてそういった感情もすべて彼の手のひらで転がされているような気がして、余計に。
ああ、いやだ。こんなことでいちいち腹立たしく思う必要などないのに。本当は、きちんと優雅にお礼が言いたかった。贈り物をありがとうございます、と笑みを浮かべて。
こんな風に刺々しい自分を見せたくはないのに、口が勝手に毒を含んだ言葉を紡ぎだす。
「でもあなたは商人でしょう?商人は商品を売るのがお仕事ですわ。わたくしは確かに裕福ではない貴族ですが、施しを受けるほど落ちぶれてはいないつもりです」
「成程。確かにわたしは商人です。君の言うことは一理ある。施しなどとんでもない。わたしは見返りなくものを施すことはしませんよ」
「わたくしに一体どういった見返りを求めていらっしゃるの?あなたの望む物をわたくしが用意できるとは思えません」
金茶色の瞳をねめつける。
「君はまるで野生の小さな獣のようだね。自分のテリトリーを侵されないように毛を逆立てて威嚇している」
野生の獣!?
そんなことを言われたのははじめてだったので、どう言い返してやろうかと息を吸い込む。と、次の瞬間なぜかエミリアはウリウスの胸の中にいた。
見かけよりもがっしりとした広い胸はエミリアの身体がすっぽりと収まってしまう。
状況を理解すると共に、顔に血が上る。背中の開いたドレスなので直にウリウスの手が触れていてそれだけで羞恥に身がよじれるようだ。
「は、はな、してください」
「では必要以上にわたしにつっかからずに話を聞いてもらえますか?」
声を出すと震えそうだったので、エミリアは胸の中で大きくうなずく。
ゆっくりと身体を解放してはくれたが、ウリウスはエミリアの手を握って、手すりに腰掛けた。ちょうど目線が同じ高さになるが、目を合わせることができない。
沈黙がふたりの間を支配する。
その空気の重さに今すぐ手を振りほどいて逃げ出したい。
陽気な旋律と人々が談笑する声がかすかに聞こえてくる。
「あの」
沈黙に耐えきれなくなり、エミリアが声をあげたのをさえぎって。
「わたしと結婚していただけませんか?」
思わずウリウスの顔を見てしまう。
笑いもせず、いたって真面目な表情で、こちらを見ている彼と目があった。
「何を、言っているんですの?」
「なにを、と言われるとわたしもすこし照れますが、求婚しているのですよ。エミリア、君に」
「わたくしたちまだ二回しか会ったことがないんですのよ?」
「これはまたおかしなことを。君はここにあと何回通うつもり?何回会えば結婚相手として見ていただけるのかな?」
確かに言われてみればウリウスのいった通り、こういった場所で相手を探す以上初見で結婚を決めるのも珍しくはない。
「今日君はたくさんの結婚相手候補になる男たちに声を掛けられていたはずだ。その中にいい人はいた?」
ウリウスの問いにしばらく考えたあとでゆっくり首を振る。
今日声をかけてきたのは結局流行りのドレスを身にまとい、美しく着飾ったエミリアしか見ていなかった。そしてエミリアも。彼らの中の誰かと夫婦になるなど、想像もつかない。
「どうしてわたくしと?」
「正直に言わせてもらうとわたしにも分からないです。何しろ二回しか会ったことがありませんからね」
本当に正直なその言いぐさに思わず小さく吹き出してしまう。
「初めてわたしの前で笑ってくれましたね」
「そんなこと」
否定しようとして、その通りなことに気づく。
なぜかウリウスの前では不機嫌な表情を作っていた。必要以上に突っかかって、野生の獣と言われても無理らしからぬ所はあったのかもしれない。
「わたくしの家がおちぶれているので、簡単にわたくしが頷くとお思いですの?」
「そういわれると困ってしまいます。君はわたしが貴族との縁を持つために結婚したがっていると思っている?」
「そうではないのですか?」
眉を寄せて少しだけ考え込むそぶりを見せた後で、
「分かりました。ではこうしましょう。わたしと契約をしてください。わたしは貴族である君と結婚する。君は、何不自由ない生活を手に入れる。どうですか?」
「契約……?そこに気持ちはないのですか?」
言ってから自分が愚かなことを口にしてしまったことに気付く。
何を期待しているのだろう。貴族同士の結婚にそんなものは何の意味もない。
「わたしが今エミリアにどれほどの愛の言葉を囁いたとしても君は到底信じてはくれなさそうだからね。なにしろまだたった二回しか会ったことがない。それならいっそのこと契約といった形にしてしまったほうが君が納得してくれると思ったのだけれど。結婚したら君にはこちらで生活してもらわなくてはいけないが、君の実家への資金援助も惜しまないつもりだ。なにも心配せずに、こちらにくるといい」
いつも自信に溢れ、どこか皮肉な光を帯びている金茶色の瞳が、初めて見る、窺うような、不安と期待が入り混じった複雑な感情を浮かべてエミリアの瞳を覗きこんでいる。
---あ。
この瞳。
この瞳をエミリアは十数年たってもう一度見ることになったのだ。
どうしても思い出せなかった、その答えが、思い出と共にエミリアの元に戻ってきた。




