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ヴィングラーの屋敷を出て4日目の夕方、日がくれる前にようやく馬車は生家のあるビュータに到着した。
宿に宿泊したりと比較的揺ったりとした日程だったにも関わらず、腰が痛くなって、暫く馬車には乗りたくない。
実家は結婚後建て替えられて見違えるほど立派なお屋敷になっている。十数年たってそれなりの風格も出てきたようだ。
馬車を正門につけると屋敷から使用人らしき女が出てきて御者に尋ねている。
一刻も早く馬車から降りたくてエミリアは自分でドアを開けて降りた。
「あ、エミリアおばちゃん来たー?」
屋敷から小さな影が飛び出してくる。今年4才になる甥のイアンだろう。三年前に見たときはまだ赤子だったのにずいぶんと大きくなった。栗色の巻き毛の色白で可愛らしい子だ。エンリの小さい頃によく似ている。
「こんにちは」
エミリアは腰を屈めてイアンと目線の高さを会わせる。途端に恥ずかしくなったのか慌てて屋敷に戻っていく小さな影を苦笑しながら見送る。小さな子供を見るのは本当に久しぶりだ。
「エミリア様でいらっしゃいますか。遠いところをよくおいで下さいました。さあ、どうぞ。お疲れでしょう」
リリイと名乗った使用人が屋敷に招き入れてくれる。
「旦那さまと奥様がお待ちです」
屋敷に入るとちょうど弟一家と鉢合わせした。
「姉さん、一体どうしたの?書簡が届いたと思ったら姉さんまで」
記憶よりも輪郭が丸くなったエンリが挨拶もそこそこに言葉を発する。
エンリの隣に寄り添う義妹のターシャも、記憶にあるよりも随分とふっくらとし、3児の母の貫録を見せていた。彼女の腕にはイアンが抱かれている。
「ええ、まあ、ちょっと思い立って遊びに来させてもらったの。しばらくお世話になってもよろしいかしら?ターシャさん、ご面倒おかけしますけれど」
「い、いえ、そんな。ここはお義姉さまの実家でもあるわけですしゆっくりなさって行ってください」
対面したのは片手で足りるほどしかなく、ターシャのぎこちない笑顔を見て、少しだけ居心地の悪い思いになる。三年前の言葉を真に受けてきてしまったが、あまり歓迎はされていないのかもしれない。
なにしろ普段交流などなく、他人同然なのだから。
そうか、自分にはもう帰る家はないのか。改めて現実を突き付けられ、荒野の中に放り出されたような心細さを感じた。
「旦那さま、奥様、こんなところではなんですから」
「ん?ああ、そうだな」
リリイに促され、奥に通される。
「今、お茶をお持ちいたしますね」
「ありがとう」
8人は座れるゆったりとしたテーブルに着き、リリイの淹れてくれた香茶に口をつける。その温かさに改めてほっと息をつく。
「で?どういうことなの?なにかあったの?」
「なにも。なにもないわ。特に。ただ、急に思いついてあなたがどうしているのか気になってものだから」
二年前までの慌ただしさに比べたら今現在など、平穏そのものだ。
「……そう?なにもないならいいんだけどね」
エミリアを探るようにしばらく見ていたエンリはやがてあきらめたように息をつく。
「うちはこの通り皆、元気だよ」
「子供たちは?どうしてるの?」
イアンの上に10歳と8歳になる男の子もいたはずだが。
「イズールとブロムは学校に行ってるよ。寄宿舎にね。ここは学校に行くのも遠いから。週末には帰ってくる。その時改めて紹介するよ」
「あら、そうなの。寄宿舎のある学校なんて、この辺にあったかしら?」
「なに言ってるんだい。義兄さんが建ててくれたんじゃないか」
「え……、そう……なの」
「元気?義兄さんも。折角姉さんがこっちにきてるんだから一度顔を出してくれればいいのに」
「そう、ね……ウリウスも皆によろしくと言ってたわ。でもこっちに顔を出すのはどうかしら?彼は、忙しい人だから」
ぼんやりと答えるエミリアにエンリは本当に残念そうにため息をついた。
「そうか、残念だな。でも義兄さんはすごいよ。こんな辺境に住んでいてもいろいろ噂は耳に入ってくるよ」
嬉しそうなその顔は。昔エミリアに結婚を勧めたその顔のまま。
こんなところまでウリウスの噂が聞かれるのは確かにすごいな、とエミリアは思う。もちろんエンリがウリウスの義弟だからというせいもあるかもしれないが、一体どんな噂が耳に入っているのだろう。
愛人を作りめったに家に帰ってこないことも、実の息子が恋人と家を捨てて出て行ってしまったことも、あの広大な屋敷で冷え切った形だけの夫婦でいる虚しさも、知っているのだろうか。
「そう……あの、ごめんなさい。ちょっと長旅で疲れちゃったみたい。今日はもう休ませてもらっていいかしら」
「夕食は?リリイの作る料理はなかなかのものだよ?」
「明日いただくわ」
話を切り上げるように立ち上がると、リリイが用意してくれた部屋に案内してくれる。
部屋はベッドと簡単な家具がそろったこじんまりとした客室で、すでにエミリアのトランクも運び込まれていた。床を埋め尽くすトランクを苦労して一つ一つ開けて確かめる。ちょっとした外出用から普段着用、なぜか正装用のドレスまで入っていて、おかしくなった。
夜会に出るわけでもないのに、シーラは何を思ってこんなものを入れたのだろう。
とりあえず、部屋に作りつけられたクローゼットに持ってきたものを片付け、これも入っていた部屋着に着替えてエミリアはベッドに横になる。
自分で荷物を片付けるのも記憶にない位久しぶりのことだ。
でもここはヴィングラー家ではないし、エミリア専用の使用人もいるわけじゃあない。いわば単なる居候のようなものだから、面倒を掛けないようにしなくては。
自宅とは違う、匂いと空気に落ち着かないものを感じながらも、疲れていたエミリアはいつの間にか眠りに落ちていた。
バタバタと騒がしさにエミリアは目を覚ます。
パンの焼ける匂いがエミリアのお部屋まで漂ってきていた。
子供の嬌声とそれをたしなめる母親の声。
しばらく天井をぼんやりと眺めたあとで、ようやく体を起こす。そうだ、ここは自宅ではない。朝着替えを手伝ってくれる使用人も、暖かい香茶を部屋まで運んでくれる使用人もいない。急いで着替えていると扉がノックされる。
エミリアがドアを開けると笑みを浮かべたリリイが顔を洗う湯を持ってきてくれた。
「ありがとう」
「いいえ、こちらこそ」
愛想よく笑顔を浮かべているリリイ。なにがこちらこそなのか意味が分からなくて首をかしげていると、
「朝早くに荷物が届きました。ウリウス=ヴィングラー様から。まあそれはたくさんの。マイスキー家の皆さんそれぞれにとても趣味のいい贈り物とわたしたち使用人にまでおいしいお菓子をいただきました。この辺では食べたこともないようなとってもおいしいお菓子で、家の者も喜びます。とても気にきく方ですのね」
リリイは羨ましそうにエミリアに微笑む。
気のきく優しい旦那さま。
忙しい合間を縫って妻のために大量の贈り物を選び、絶妙のタイミングで届けさせる。
「いえ……、喜んでいただけたら嬉しいわ」
「食堂で皆さんお待ちですよ」
身支度を整えて部屋を出て、教えられた部屋に行くと、弟夫婦とイアンが満面の笑みで迎えてくれた。
「お義姉さま。よく眠れまして?」
「え、ええ、とても」
昨日とはうって変わって友好的になっているターシャの胸元にはきらきらと繊細なネックレスがかかっている。
「今朝届きましたの。玄関に入りきらないほどの贈り物が。こんな綺麗なネックレス、この辺じゃあお目にかかれないわ。これはウリウスさまのお見立てですの?」
「ええ、まあ。とてもよく似合ってますわ。気に入っていただけたらウリウスも喜ぶでしょう」
「とても気に入りました!あとでお礼状を書かなくては」
「そんな、お気遣いなく。わたしがこちらでしばらくお世話になるのですから」
「お義姉さまも久しぶりの故郷でしょうからのんびりと骨休めなさってください。こちらはいつまでいてもいいんですのよ?」
「ありがとう、お言葉に甘えて、しばらくのんびりさせていただくわ」
エミリアの言葉に大きくうなずくターシャを見て、エンリも苦笑している。
「イアン、エミリア叔母さまにお礼を言って」
テーブルの端で送られてきたであろう玩具で遊んでいたイアンはエンリの声に顔をあげてエミリアの元にかけてくると、その小さな頭をちょこんと下げた。
「エミリア叔母ちゃま、ありがとうございます」
「まあ、上手にお礼が言えるのね」
その仕草がかわいくて思わず顔をほころばせ、その柔らかな髪に手を伸ばす。頭をなでられくすぐったそうに笑い、エミリアの膝に顔をうずめる。
「駄目よ、イアン、お義姉さんのドレスが汚れるわ」
「構わないわ。おいで、イアン」
イアンを抱き上げ、膝に乗せる。子供特有の香りが鼻先をかすめ、つかの間幸せな気持ちになる。
たくさんの贈り物と笑顔。
こんな風景を、確かにどこかで見た覚えがある---。




