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お気に入りの部屋は一面が高価な硝子張りになっており、季節の花々が一望できるようにと部屋の中から見える風景のすべてが計算尽くされて作られていた。
いつも朝食を食べないエミリアはそこで蜜を入れた甘い香茶を飲む。
「少し窓を開けてくれるかしら?」
脇で静かに控えているシーラに声をかけるとシーラは小さく目礼し、硝子張りになっている部分を開く。途端に外の空気が流れ込み、この時期に咲く香りの強い大輪の白い花、クランのきつい位の甘い芳香が辺りに漂う。
この花の香りをかぐといつも同じ人を思い出す。ウリウスの愛人。といっても顔も知らないし名前も知らない、エミリアの想像の中だけの人物。
彼女はおおよそ女の魅力というものからかけ離れたような自分とは違い、豊満で匂い立つような女らしさを持っている。多分。住んでいるところはこじんまりとした清潔な家。父親は仕事が忙しいと滅多に家に帰ってこないが、帰ってきたときは優しい笑顔で迎え入れ、一家そろって食卓を囲む。笑い声が絶えない絵に描いたような幸せな家庭。
彼女たちの存在を知らされたのはシオンを出産し割とすぐだった。おそらく結婚当初から……もしかしたらそれ以前からそういった女がいたのだろうけれど、15でヴィングラー家に嫁いできたエミリアは全く気付かなかった。仕事で不在がちだというウリウスの言葉をそのまま信じていた。
たまに帰ってくる夫の身体にまとわりつく甘い残り香も、それは仕事上のものとばかり思い込んでいたエミリアが真実を知ったのは心優しき使用人たちの注進からだった。
なにも知らなずにのんびりと暮らしているエミリアを憐れんでくれたらしい使用人は真実を告げ、目の前で泣いて見せた。
シオンが生まれてからしばらくエミリアは体調が悪く伏せっていた。身ごもるまではそれなりにあった夜の相手もぱったりとなくなった。体調が悪いのを気遣ってくれているのだろうと解釈していたが、それすらも可哀想だと使用人は泣いた。
まるで、跡取りを産ませる道具にたいしての仕打ちではないですか、と。
その言葉がすとんと胸に落ちてきた。
エミリアはベッドに伏せた状態で、ウリウスの愛人の話とエミリアがいかに理不尽で可哀そうな立場であるかと滔々と使用人に語られた。
無表情に聞いていたエミリアはその使用人が退出して初めて涙を一滴流した。誰にも見られぬところで、だれにも悟られぬように。
自分では幸せなほうであると思っていた結婚生活ははたから見ると酷く痛々しく憐れみを誘う代物であったらしいということに可笑しくなった。
憐れんでくれるなら、何も知らせないでほしかった。そうしてくれたら……もしかしたらいまでもエミリアは周りから嘲笑されながらも自分は幸せな部類なのだと思い込んでいられたのかもしれないから。
ドアがノックされ、ウリウスが顔を出したのでひどく驚いた。表情には全く表れなかっただろうが。
「まあ、珍しい。どうかなさいましたか」
立ち上がろうとするエミリアを制し、向かいの椅子に腰掛ける。
飾りのように置かれていたその椅子は数年ぶりに椅子としての役割を果たした。ウリウスの前にその椅子に腰かけたのは息子と一緒に家を出て行ったチルリットだ。
初めてみたときはひどく痩せて性別すら不詳だったその少女は屋敷に滞在するようになると、年相応にふっくらとし、見違えるように可愛らしさを増していった。チルリットのことを思い出すと、エミリアは申し訳なくて身の置き所がなくなる。
屋敷の中で偶然出会ったときにシオンに守られるように寄り添う少女がひどく憎らしくなり、手ひどい言葉をたたきつけたから。まだ子供であったチルリットは意味が分からないというようにおどおどとしていたが、それすらも癪に障った。
血のつながった実の息子に冷たいまなざしを向けられ、ぐうの音も出ないくらいに言い返され、自分から守るように目の前から去っていく二人の後姿を眺めながら黒い感情に自分を見失いそうになるのを必死で堪えた。
自分はあんな風にされたことなど一度もなかった。
「今日出立する予定だと聞いてね」
シーラが入れてくれた香茶のカップに視線を落とすウリウス。
「後から私が伺おうと思っていたところでしたのよ?」
「うむ……」
特に話すこともないので、無言の時間が過ぎる。
「クランが見事だな」
お互いに視線を交わるのを避けていると自然に視線は庭に向けられることになる。
「……わたくし、あの花あまり好きではないんです」
「おや?そうだったかな?確か君の実家にもあったような気がしたが」
「よく覚えておいでですのね」
「そうか。ならば庭師にでも言ってすぐに別の花に植えかえさせよう」
ウリウスの言葉にため息のような笑みを漏らす。この花について別段の思いがあるわけではない。ただ、ふとウリウスの前で言ってみたかっただけなのだ。
「いえ、構わないですわ。どうせしばらくここには帰りませんし……もう見ごろも終わりでしょうし」
「いつ出立を?」
「香茶を飲み終えたら」
「そうか。皆によろしく伝えておいてくれ」
「お気遣い下さりありがとうございます」
「道中気をつけて」
香茶を飲み干し立ち上がるウリウスに合わせて私も立ち上がると、そっとウリウスは身体を寄せ、私の頬に触れるか触れないかの口づけをする。
ウリウスが家を出立する時と帰還するときに繰り返されてきたこの行動が、今の二人に唯一残っているふれあいともいえる。
ウリウスを見送った後、もう一度椅子に座り、クランの花を眺めながらゆっくりと冷めた香茶を飲み干した。
支度を終え、馬車に乗り込む。驚くほど大量の荷物が積まれていて、まるでこのまま家を出ていくかのような錯覚を覚える。
馬車に乗り込み座席に着き、帽子を脱いで一息つく。
「失礼します」
御者が恭しく頭を下げ、自己紹介をし、日程を説明しているがこれから始まる旅に気を取られていてそれらの全てが耳を素通りしていく。
「では出発させていただきます」
「よろしくお願いしますね」
最後にもう一度御者が頭を下げ、扉を閉める。
見送りに出てくれたシーラに小さく手を振る。子供に戻ったようでなんだかおかしい。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
深々と頭をさげたシーラがどんどん小さくなっていき、馬車は音を立てながらヴィングラー家の正門を抜ける。まさか自分がこんな風に屋敷を出立する時が来るとは思いもしなかった。
シオンとチルリットが家を出たあの日、馬上の息子を見て嬉しくもあり、悲しくもあり、羨ましくもあった。若さゆえか自分の選択に絶対の自信を持ち、強い決意に胸を張り去って行った息子。
彼らは今どうしているのだろう。いつか再び会える時が来るのだろうか。
実家のあるビュータまで馬車で4日はかかる。シーラが宿の手配もしてくれてはいるが、やはり遠い。実家にしばらく滞在することを書簡にし、送ったが、まだ実家には届いてないだろう。
母は父が亡くなる二年前にすでに亡くなっていて、父亡きあとは弟のエンリが家督を継いでいる。エミリアが嫁いで三年後、成人と同時に貴族の娘と結婚し子供も三人。仲が悪い姉弟ではなかったが、お互い家庭を持ち父の葬儀の時に久しぶりに会った弟はまるで他人のように見えた。
バタバタと忙しかったせいもあってその時もろくに話をしていない。ウリウスとは遅くまでいろいろと話をしていたが。
エンリは昔からウリウスに心酔していた。結婚話が持ち上がった時誰よりも喜んだのはエンリだったと断言できる。
両親はできるなら貴族の家に嫁いでほしかったらしく、ウリウスから求婚された時はあまりいい顔をしなかった。彼に対し、「ちょっと小金を持ってはいるが高々一介の商人風情」といった認識だった両親を驚くほど熱心に説得したのはエンリだ。
家のことを思い出していると昔の記憶がせきを切ったように流れ出す。結婚以来思い出しもしなかったのに、そのせいなのかエミリアの心は過去に捕らわれ十数年前のことが昨日のことのように思い出された。




