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チルチルチルリット  作者: けろぽん
<番外編>恋になるかもしれなかった
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 空がとても青くて気持ちがいい風が頬をなでていく。ついこの間までうだるような暑さが続いていたと思ったらいつの間にか季節が移り変わっていたらしい。


 お気に入りの場所でお気に入りのお茶を飲みぼんやりと空を見上げていたら不意にこれまでにない衝動がわきある。

 なんだろう?

 どこか、ここではない何処かへ行ってしまいたい。

 立ち上がり、部屋の中をぐるぐると回る。どうにもこうにもおさまりのつかないこの気持ちをどう消化すればいいのか分からない。

 そんなことはこれまでに一度もなかった。自分はこのまま死んだように生きて老いていくだけだと思っていたのに。

 シーラを呼び、旅支度をするように申し付けると有能な使用人は暫し虚空を見つめ、それからまじまじとエミリアの顔を凝視する。


「御旅行、ですか?」

「ええ、そう。ちょっと長くなるかもしれないからそのつもりで支度をお願いするわ」

「かしこまりました」


 無理もない。自分が屋敷を空けたことなど結婚以来ほとんどなく、旅行なんて夫の付属品として行ったことが数えるほどあるくらいだ。結婚して十七年目にして初めての自分一人での旅行。

 夫のウリウスは反対などしないだろうに、なぜ今までこの屋敷に縛られて過ごしてきたのか。思い付きもしなかったのが不思議だ。


 一人息子のシオンが家を出て広大な屋敷に夫と二人になり、いつ離縁されるのかと期待しているような不安なような毎日をぼんやりと過ごして二年。今だ自分はここにいる。そしてなぜか夫も。

 自他共に認める冷え切った夫婦。家族としての関係は構築する前に壊れていた。夫は外に女を作り、屋敷に帰るのは一年のうちほんの数えるくらい。それなのに、どうしてだろう。息子のシオンが家を出てから夫は屋敷に滞在することが多くなった。



「しばらく実家に行こうと思います」


 その日の夕食の席で、エミリアは目の前にいる夫に告げる。思い立ったのはいいが行きたい場所を思いつかずに結局実家にしばらく滞在することにした。実家とはいっても両親共にすでに亡くなってしまっていて実家とはもう言えないのかもしれないが、三年前、父の葬儀の時弟嫁に「いつでも遊びに来て下さい」と言われていたのを思い出し、それに甘えようと思う。


 ウリウスは少し驚いたかのように目を見張り、そして静かにうなずく。


「そうか」


 久しぶりに夫の目を見て会話をしたような気がした。老けたな、とぼんやりと思う。白髪が多くなり刻まれた皺も深くなった。夫はエミリアより7歳年上なのだが、少なくともシオンが家を出る前までは夫は老いなど欠片も見せず活力と自信に満ち溢れていた。むしろ毎日無気力に過ごす自分のほうがよほど老婆のように思えたものだ。


「……どのくらい行くんだ?」

「まだはっきりと決めてませんが」


 その言葉が意外だった。このまま自分が実家に帰り、この屋敷に戻ることがなくてもウリウスには何の不都合もないはずだ。この人は自分に帰ってきてほしいと思っているのだろうか。

 実際に予定など全くたてていなかったので、曖昧に答えると、ウリウスはその金茶色の瞳を私に向けて、そして静かにそらす。

 ふと既視感に襲われた。この人のこんな瞳をどこかで見たことがある。遠い記憶に埋もれた、すごく昔。歯がゆい気持ちになりながらも、どうしてもそれを思い出すことができなかった。




 三日後、早起きしたエミリアは自分でも驚くほど気持ちが晴れやかだった。空を見上げると思い立ったあの日と同じように抜けるような青空が広がっていて、自分の外出を世界中が祝福してくれているような気がした。シーラが用意してくれた荷物は大きなトランク5個にもなって、すでに馬車に積み込まれている。

 ドレスを自ら選び自ら化粧をする。こんなに能動的に活動したのはいつ以来のことか。考えてみれば自分はいつだって受動的に生きていた。与えられるものを受け取るだけの人生。



 生家は歴史だけは古い辺境の落ちぶれ貴族で、決して裕福ではない暮らしぶりだったがそれを不満に思うこともなく日々を過ごしていた。

 使用人は二人。執事と庭師やその他雑用を兼任していたシュトーと、料理人と乳母とその他雑用を兼任していたマリア。祖父の時代には数人いた使用人も、父の代にはその二人だけ。屋敷はあちこちガタがきていて、隙間風で冬は屋敷の中にいてさえ外套を手放せないくらいに寒かった。

 父も母ものんびりした気性のせいか、落ちぶれる一方の我が家に特に危機感を覚えている様子もなく、その暮らしを享受していた。

 持てないものは持てないなりの暮らし。

 貧しくとも平穏な日々。

 両親もわたしもその生活を受け入れていたのに唯一三つ違いの弟、エンリだけはそんな生活に不満を持っていたようだ。なかなか賢しく、幼いながらも家を何とか再興させたいと野心を持っていた。ぼんやりとした両親とエミリアに囲まれて育っていたのに何故あの弟だけがそうだったのか、未だに分からない。


「…………か?」


 昔のことを思い出していたエミリアは傍らに立ち給仕をしてくれているシーラの問いかけを聞きもらしてしまったので訊ね返す。


「え、ああ、ごめんなさい。何かしら?」

「屋敷を発たれる前に御館様にご挨拶をなさいますか?」

「そうねえ」


 正直ウリウスと対面するのは気が進まないのだがさすがに家をしばらく空けるのになにも言わずに出立するわけにもいかないだろう。

 それに……もしかしたらもうここに帰ってくることはないのかもしれないのだから。




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