シオンとチルリット
ひとしきり泣いて感情の高ぶりが落ち着いてくると今度は猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。皆がいる前であんなに大声で泣いてしまった。鼻をすすりながらシオンの胸の中で顔を上げたほうがいいのかどうか迷っていると、
「お別れの挨拶は済んだかね」
白けたようなウリウスの言葉にシオンがわたしの背中にまわしていた手を離す。離されてなるものかとシオンの背中にまわした手に力を込めるとそんなわたしを宥めるかのように頬を撫で、シオンは左手でわたしの右手を取り力強く握りしめる。
「シオン、何故ここにいる?エイシャー家の夜会に参加する予定だっただろう?」
「お別れの挨拶をしに」
シオンの言葉にわたしの身体が強張る。
そう、実際のところ状況には何も変化はなくてシオンが来たとしても貴族の養女になり側室にあがることは決定事項なのだ。
「ルカウド、あの馬はエイシャー家からお借りしてきたものだ。返しておいてくれ。丁重な礼も頼む」
「は、はい」
先程シオンが乗ってきた馬を指すと呆けた表情で状況を眺めていたルカウドは慌ててシオンが乗ってきた馬を引き取りに向かう。
「これは僕が」
代わりにルカウドが引いていたシオンの馬の手綱を引き取るシオン。
「別れの挨拶はもうすんだろう。チルリット、馬車に乗るんだ。シオンはわたしとともにエイシャー家に向かう」
「その必要はありません。エイシャー家には正式に僕がお断りのお話をさせていただきました」
「断り?一体何を断ったと?」
「チルリットの養女の話と僕の婚姻の話です」
一瞬ウリウスの表情が憤怒に染まる。
「何を勝手なことを…!お前は、自分がどれほど恵まれた生活をしているのか分かってない。そしてその生活が誰によってもたらされているのかも!この屋敷にいる以上わたしに逆らうなど!」
ウリウスの荒げた声を冷静な声がさえぎる。
「ですからお別れの挨拶を。僕は今日限りヴィングラーの名を捨てます」
ポカンと呆気にとられたかのようなウリウスの顔。一瞬何を言っているのか理解できなかったのであろう。
わたしも同様に呆気にとられ決意に唇を引き結ぶシオンの横顔を見上げる。
「な、にをいっている?シオン、ヴィングラーを捨てる?正気か?」
「至って正常です」
シオンはひらりと馬に跨るとわたしを見下ろし、
「というわけだ。僕は今日からただのシオンで、金も家柄も何もない。それでも僕とくるか?」
わたしは満面の笑みを浮かべ。
ただのシオン?
そうではない。いつだって。シオンはわたしの王子様なのだから。
一瞬の躊躇もなく手を伸ばしたわたしの手をとりシオンは引き上げてくれる。
相変わらずドレスで騎乗は難しい。膝小僧を露わにしスカートをたくしあげるのをフラウ先生が見たら悲鳴を上げるかもしれない。でももうわたしには綺麗なドレスや社交界に出るための礼儀も教養も必要ない。わたしを抱きかかえてくれているシオンの手にそっと自分の手を添える。
「それでは十四年間お世話になりました。母上もどうか息災で」
ふとエミリアに目を向けるとうっすらと涙を浮かべながらもシオンのことを見上げながら優しく慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
先程ネックレスをもらったときに囁かれた言葉の意味をようやく理解する。エミリアはこのことを事前に聞かされていたのか。シオンと何か話し合いの場がもたれたというのならそれは喜ばしいことだ。
「待て、シオン!お前がいなくなったらヴィングラーはどうするのだ?」
「さあ?心配せずとも……僕のほかに何人かいらっしゃるようですし。この馬は餞別にいただいていきます。では」
「どうしても行くというのならば!この件にかかわった使用人すべてを断罪する!お前は最も重い罪だ!」
外聞をかなぐり捨ててルルを指し喚いているウリウスにシオンは躊躇を見せる。ルルはいつもと変わらずに背筋を伸ばし無表情のまま立っていて、ルカウドは真っ青な顔でおろおろしている。
そのとき一歩前に出たのは。
「その必要はありません。わたくしエミリア・ルイ・ヴィングラーの名において今回の件による使用人の咎め立ては致しません」
「母上……」
「エミリア何を……?」
驚愕に目を見開いているウリウス。
「例え形だけであろうともわたくしはあなたの正式な妻。それくらいの権限はありますわ。シオン、あとのことは気にせず行きなさい」
毅然と言い放つエミリアの姿は威厳に満ちていてまぶしさを感じるほどに美しく見えた。
わたしとシオンはエミリアと、そこに居並ぶ者たちに深々と頭を下げてそしてーー。
馬を引き街でドレスを売り払い、動きやすい服に着替える。
ルークスとアリアの店がある通りでどちらからともなく足を止め、そして又歩き出す。
「会って行かれないのですか?」
「何か迷惑をかけるような事態になっては、な」
街道付近は人の往来が活発で賑わっている。街道沿いには旅人相手の露店も広げられていてカーニバルを思い出す。
シオンが辺りを見回しているとすっと近付く人影。
「シオン様、万事うまく運ばれましたか」
「アギトさん」
「ああ、お前にも世話になった」
「こちらお荷物です」
ひと抱えくらいはある荷物をアギトは馬にくくりつけ、シオンに頭を下げる。
「あとのことはよろしく頼む」
「まあ、シオン様がいなくなられては早々にわたくしもお役御免になるとは思いますが」
「……いろいろ迷惑をかけた」
「気になさらないでください。破格の退職金もいただきましたしわたしも滞っていた結婚話が進展しそうですし」
いやにアギトの表情が晴れやかだと思ったら、そういうことだったのか。相手は一体誰なのだろう。
「結婚されるのですか?」
「そうなれたらいいですってところですか」
好奇心が抑えられずに口を挟んだわたしにアギトが悪戯っぽく笑った。
小さくシオンも笑みを漏らす。
「ルルにもよろしく伝えてくれ」
「かしこまりました。ではシオン様、お気を付けて」
にこやかな笑みで手を振るアギトを何度も振り返りながらわたしとシオンをのせた馬は王都から遠ざかっていく。
街道からそれた水場で休憩をとる。
山のほうから流れてくる水は冷たくて凍えそうだ。これから冬が来る。すでに遠くに見える山のてっぺん辺りは白く雪が積もっている。
「なにか食べるか」
「ありがとうございます」
荷物の中からシオンはパンを取り出し半分にちぎってわたしにくれる。こういうことになるんだったら屋敷での食事をきちんと取っておくんだったとシオンの顔を見た途端お腹が空きだしたわたしは少し硬くなっているパンを口に含みながら思う。
先程からシオンの口数が少ないので落ち着かない。
もしかしたら後悔しているのかもしれない。わたしのせいで家を捨てることになったことを。屋敷でいただいていたような焼き立てのふわふわとしたパンではないものを食べるような生活がこれからずっと続くことを。
「シオン様」
「ん?」
「あの……なんでしたらわたしだけどこか別の街においてヴィングラーのお屋敷にお帰りになられたらどうでしょう?シオン様だけでしたらウリウス様も迎えてくださると、むぐ」
いきなりシオンは食べていたパンをわたしの口に押し付けて口を塞ぐ。
「何をくだらないことを。まさかお前僕が後悔してるとでも思っているのか?」
「……はい。後悔……しておられるのではないですか?」
パンを手にとり俯くわたし。
「後悔などしていない。が、後々後悔することは絶対にないと言えば嘘になる。今後このことについて二度とは言わないからよく聞いておけ。僕はしない後悔よりもする後悔を自分で選んだ。この先たぶん苦労することのほうが多いだろうが。……お前がいないことにたぶん僕は耐えられないから、むぐ」
今度はわたしがシオンの口を塞ぐ。
わたしの唇で。
少し驚いたように目を見張った後でシオンはわたしの身体をしっかりと抱きとめる。
「わたしも耐えられません。だから」
傍にいてください。
想いを口に出すことはせずわたしはシオンを見つめる。
この人がいとしい。
愛していると百回囁いてもその気持ちが伝えきれないくらいに、愛しい。
わたしの瞳にはシオンが映っていて。
シオンの瞳にはわたしが映っている。
ここは狭いクローゼットの中ではなく広大な世界の空の下。
何者でもなく何者にも縛られずにどこへでも行ける。
わたしたちは見つめあい、抱き合い、そして口付けを交わしあった。
完結です。
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おかげでここまでたどり着けました。




