雇用主と花瓶
午後の講義を終えて夕食の時間。フラウ先生の目が光る中、何とかつつがなく食事を終えるとフラウ先生が静かに頷く。
「いいでしょう。テーブルマナーはとりあえず合格とします」
「合格……」
耳にした言葉が信じられない。まさかこんな日が来るとは。思わず身を乗り出す。
「シオン様にも申し伝えておきますので」
「ではもう終わりなのでしょうか」
「いいえ。まだ教えることはありますので明日からはそちらをやります」
がく。
「それではまた明日。ごきげんよう」
「ありがとうございました」
フラウ先生を見送り、一人になってようやく一息つく。鼻歌混じりにワゴンに食器を片付けて廊下にワゴンをだしておく。ここのところ食事はいつもフラウに給仕をされ叱責されながら済ませ、後片付けは自分でしていた。ワゴンを廊下に出しておくとシオンの給仕を終えたルルが片付けておいてくれる。
長い一日が終わり寝間着に着替えてあとは寝るだけの状態で鏡台に座り髪を梳く。淑女は自分の外見にも気を使えとフラウ先生に言われたので寝る前にも鏡台に座り身だしなみを整えることにした。昔は自分の外見が嫌いだったので鏡を見るのは嫌だったけれど、最近はそうでもない。鏡の中の自分はシオンから見えている自分だと思うといろいろと確認作業が必要なことにようやく気付いたから。
と、廊下が騒がしくなったと思ったら、いきなり大きな音を立てながらシオンが部屋に飛び込んできた。
「わ!し、シオン、さま?」
びっくりして立ちあがったわたしのもとにシオンは大股で近付いてくると乱暴にわたしを抱きしめる。
「どうかなさったのですか?」
「フラウは?」
わたしの問いに答えずにシオンは呻くように囁く。
「フラウ先生なら先程帰られましたけど……、今日でテーブルマナーのほうは終了して明日からは別のことを」
「もういいから」
「?」
「明日からはもう何もしなくていい。フラウもセインも辞めてもらう」
「どうしたんですか?」
もう一度尋ねてシオンの顔を覗き込むと、顔をそむける。
「……何かあったんですか?」
その表情はひどくつらそうで、シオンのそんな表情を初めて見たわたしはうろたえる。
「なんでもない」
言いながらもシオンは表情を見られないようになのかわたしの身体を身動きが取れないほどにきつく抱きしめる。
そのとき扉がノックされ、ルルが入ってきた。
「シオン様、まだお食事の途中です。どうぞお戻りください」
そのままの体勢で顔を向けようともせずにシオンは感情を押し殺した低い声で言う。
「ルル。フラウとセインに明日からは来なくていいと伝えろ」
「出来ません」
す、とシオンかわたしの身体から離れる。
「僕がいらないと言っている」
「……御館様の命です」
いつものようにルルは無表情のまま。
「お前は誰の使用人だ」
「わたくしはシオン様付きの使用人です」
「ならば仕事をしろ。僕の命令だ」
「ですがわたくしの雇用主は御館様です」
「っ!」
シオンは近くにあった花瓶をルルに向かって投げつける。
当たらないように投げたのか、花瓶はルルから大きく外れた壁にぶつかり派手な音を立てて砕ける。
「片付けておけ。それからお前の顔はもう見たくない。明日から僕の前に顔を出すな」
「……かしこまりました」
聞いたこともない底冷えのするほどの冷たい声音で吐き捨てると言葉をなくして呆然としているわたしの手をとり割れた花瓶の片づけをしようと屈みこむルルの脇をすり抜けシオンの部屋に飛び込むといつになく乱暴な音を立てて扉を閉める。
「シオン様……ルルさんと何かあったのですか?」
シオンがルルに対してあそこまで感情をあらわにするところを見たことがなかったのでショックを受けているわたしに少しだけ悲しそうな視線を向ける。
「……気にするな」
気にするなと言われてもものすごく気になっているわたしの頭を撫でると、そのままソファに座らせる。クローゼットをあけて着替えを始めたので慌てて視線を逸らす。
そういえばシオンが着替えているところに立ち会うのは初めてなのだが、ルルが手伝いをしたりしているのだろうか。わたしの着替え時には背中の留め金に手が届かないデザインの服を着る時などルルに手伝ってもらったりするけれど。そうしたら今わたしは手伝いをしたほうがいいのだろうかと悩みながらちらりとシオンに視線を向けると着替えている最中のシオンと目が合う。
「や、あ、あの、べ、別に着替えを覗いたりしているわけじゃないですよ」
わたわたと視線を外して体の向きを変えると、シオンは小さく笑う。
「別に見たければ見てもかまわないが」
「いえ、見たいとか、そういうんじゃなくて、ですね」
でもちょっと見たいかもとちらりと脳裏を走った思いを慌てて打ち消す。ちらりとシャツの隙間から見えた胸板は結構引き締まっていて胸を高鳴らせてしまっていたことをシオンに気付かれたら恥ずかしくて死んでしまう。
平常心平常心へーじょーしん。
小さく深呼吸して顔を上げるといつの間にか着替えを終えていたシオンが書斎机に座ってわたしを眺めていた。
わたしもシオンを見つめるがシオンはわたしを見ているようでどこか別の何かを見ているようにぼんやりとしている。
ルルはシオンが食事の途中で席を立ったと言っていた。
その食事の席で何かあって、それはたぶんわたしに関することなのだろうなと想像する。
「シオン様お茶を飲まれますか」
「いや」
机に肘をつき顎をのせて答えるシオン。
そういえばばたばたしていて結局ルルに肝心なこと、愛を確かめ合う行為のことや女になるということの話を詳しく聞くのを失念していた。いや、失念していたわけではないのだが、そういうことを聞けるタイミングがつかめないまま今日にいたってしまった。
そんなことを思い出したのはシオンのことを眺めているうちにひんやりとした手の感触を思い出して、……まあ、なんていうかその手に触れられたくなったからだ。
髪を、頬を、唇をわたしの身体のあらゆるところをその手でゆっくりなぞってほしい。
抱きしめてほしい。
体温を、吐息を、匂いを感じれるくらい側にいさせて欲しい。
「…………」
もしかしたらわたしはとんでもなくいやらしい子なのではないだろうか。
「何を顔を赤くして身もだえている」
「シオン様」
「なんだ」
「わたしの名前を呼んでください」
「チルリット」
「はい」
呼ばれたわたしはソファから立ち上がりシオンの側まで歩み寄る。
至近距離で座ったままのシオンを見下ろす。そしてシオンはわたしを見上げる。
「…………」
「…………」
無言のまま見つめあった後どちらからともなく唇を寄せ合う。
「チルリット」
「はい」
「今日は寒い」
「はい」
「手が冷たくて眠れないから今日はここで寝ろ」
「わかりました」
季節は冬に向かっているとはいえまだまだ凍えるほどの寒さには程遠かったが、シオンの言葉に異があろうはずはなくわたしはすぐに頷いた。




