フェイズ146−1「地域連合の形成」
世界規模での貿易の自由化は、第二次世界大戦後に実質的にアメリカの手によってもたらされた。
1990年までは東西冷戦構造があったが、西側や自由主義陣営と言われた国々は、その恩恵を受けることが出来た。
その最右翼が満州帝国であり、満州帝国は戦後から僅か20年で一気に先進国化した。
その次に恩恵を受けたのは、1970年代に大規模な改革を断行した日本だった。
しかし欧米とオージー諸国以外で先進国になれた国は、少なくとも冷戦構造崩壊までは満州だけだった。
日本ですら完全に先進国入りをしたのは、冷戦崩壊前後のことだ。
だからこそ満州の奇跡、日本の奇跡と言われたりもした。
そして日満に代表されるように、20世紀終盤はアジア地域が発展する時期でもあった。
日本の高度経済成長と同時期に、東アジアのシンガポール、香港が大きく経済発展を遂げたが、どちらも都市国家に過ぎないため、世界に対する経済的影響力は限られていた。
日本の次を追いかける国はなかなか現れなかった。
1980年代になると満州などが東南アジアへの企業進出を強めてタイ、ベトナムが注目を集めたが、相応の発展は21世紀を待たねばならなかった。
産油国のイランは、豊富なオイルマネーと日本などの指導もあり順調に経済発展していたが、長いイラン・イラク戦争で強制停止を余儀なくされた。
その後経済発展は再開したが、8年のつまづきは小さくなかった。
支那地域では、長い混乱の中から南部の支那連邦共和国が他国より一歩先んじることに成功したが、本格的な発展は21世紀に入ってからと言われていたし、先んじたと言ってもまだまだ貧しかった。
そして1997年7月、そのアジアを震源として「アジア通貨危機」が起きた。
7月にタイ王国、8月に支那連邦共和国、12月に韓王国で発生した。
さらに第二次支那戦争の影響で、東南アジア各国、支那地域各国に通貨危機が波及。
満州の高度経済成長が終演したのも、この時期とされている。
もっとも、日本の経済発展は勢いがあったこともあり停滞にまでは至らず、この時期の停滞を跳ね返して2008年まで継続しているので当てはまらない。
それよりも支那連邦共和国が受けた打撃は大きく、支那連邦共和国は一時的にIMF(国際通貨基金)の管理下となり、支那連邦共和国も加盟するEAFTA(東アジア自由貿易協定)が大きく組織改革せざるを得なくなったほどだった。
そして通貨危機は、1998年にロシア、1999年にブラジル、2001年にアルゼンチンを襲う。
たいていの国は、新興国もしくは経済発展の続いていた国だったが、それまで過大に評価されていた為替レートに圧力がかかり、トレーダーらの空売りを発端として大規模な通貨下落が起きていった。
そしてその波は、旧共産圏国家も襲った。
2002年のドイツだ。
ドイツは第二次世界大戦でライン川を境に事実上分断され、冷戦崩壊の1990年の春に「一国二制度」を採用しつつではあったが再統合を果たした。
冷戦崩壊後のドイツ共和国は、民主共和制国家として再建を目指した。
軍備を最低限とした上で、ラインラント地区を窓口として西ヨーロッパからの積極的な投資と資本進出、工場誘致を行った。
冷戦時、西側先進国に匹敵すると言われた一人当たり所得が虚構だった事を逆用し、労働力の質の高さ、労働コストの安さを武器にしようという算段だった。
そして当時、自国での労働コストの高さに苦しんでいた西欧各国は、ドイツ人と握手を交わすと我先にドイツ進出を果たした。
しかも民主化ドイツは、ソ連主導の「経済相互援助会議(COMECON)」を再編成したような「東欧貿易連合(EETU)」を率いる形で、実質的に自らの経済影響圏に飲み込んでいった。
影響範囲は、かつての盟主であるロシアの資源と市場にまで及んだ。
世界は、半世紀越しのドイツの反撃と言ったほどだ。
とはいえ1970年代から、ソ連国内で稼働している機械類のかなりがドイツ製となっていたので、ソ連崩壊後の状況は当然の結果でもあった。
また、西側諸国のドイツ進出に際しては、フランス中心の「欧州共同体(EC)」とイギリス中心の「欧州自由貿易連合(EFTA)」を競わせる形で自国優位に導いた。
一応は、ECは食糧を、EFTAは工業を、EETUは人的資源をそれぞれに融通しやすくする貿易システムが作られたが、最も恩恵を受けたのはドイツだった。
特に西側の進んだ技術を安価に取り込むことで、ドイツが苦労して基礎を再建したルール地域など工業地帯は、最新の設備を持つ工業地帯へと短期間で復活、変貌を遂げつつあった。
そして旧社会主義側で9000万人抱える総人口の一人当たり所得が急速に拡大することで、短期間のうちに経済力を拡大していった。
発展は急速で、20世紀中にラインラント地区との経済面での垣根は必要無くなるとまで言われた。
そして2010年までに、欧州一、世界第四位の経済力に発展するとまで予測された。
さらに5年から10年で満州を越えるという予測まであった。
1997年にアジアを震源とした通貨危機が起きても、支那地域が不安定となっても、ドイツの高度経済成長と言える好景気はむしろ加速された。
東アジアが一時的であれ不安定な事が分かったので、投資が東アジアから引き揚げられ、相対的にドイツへの投資が増えたからだ。
1998年に通貨危機がロシアに波及した時はドイツも冷や汗をかいたが、危機回避に成功すると旧社会主義陣営だった頃の人脈などを使いむしろロシアでの買い叩きに走った。
おかげでドイツの資産は、短期的に膨れあがった。
特にロシアの資源供給地を経済的に押さえた事で、安定して資源が獲得しやすくなると共に安価に手に入れることも可能となり、ドイツの好景気に拍車がかかった。
そして2001年のアルゼンチンでの通貨危機を最後に、世界の通貨情勢も安定するかに見えた。
しかし、短期間での「電撃的」とまで言われた経済的成功で慢心していたドイツは、内実は本当の資本主義国家に返り咲いてはいなかった。
世界中の投資家、トレーダーを甘く見ており、急速な発展によるしっぺ返しを受けることになる。
この反撃をした投資家達は、基本的にはナチスドイツをいまだ恨み抜いているユダヤ人だとされるが、国家として見るとアメリカ、満州、日本であり、「連合軍の反攻」と言われる事もあった。
2002年春にドイツのマルクの暴落が起きて、ドイツでの好景気が終演すると共に一気に経済が萎んだ。
経済成長も大きなマイナスを記録した。
これ以後ドイツは、苦労して建て直しを図ると同時に、本当の意味での資本主義国へ復帰するための地道な歩みを再開することになるが、非常に高い授業料を支払うことになったと言えるだろう。
そしてこのドイツでの通貨危機は、ドイツに多く投資していた西ヨーロッパ各国にも大なり小なり波及し、今までの状態では駄目だという事を思い知らされる形となった。
またグローバリゼーションの進む中にあって、冷戦崩壊以後もヨーロッパの沈下が激しいので、地域全体で団結しなければならないという考えも共有が深まっていた。
この結果、ヨーロッパの政治・経済を統合した、連邦国家的な組織となる「ヨーロッパ連合(EU)」という考えが急速に具体化。
2005年に「ヨーロッパ連合(EU)」は短期間のうちに誕生し、世界のスーパーパワーとして浮上する事になる。
急速に組織を作ることができたのは、早くはEC時代から議論され、冷戦崩壊以後も話しが進められていたからだった。
しかし、3つの大きな国際組織の全ての国が参集したわけではなく、政治の要素が加わった事などからスイスなど一部の国はEUには非加盟となった。
またフランス、ドイツが求めた通貨統合については、未熟なドイツ経済、東欧経済の体たらくに対する不信、通貨統合そのものに対する懸念が強い事から、以後議論と調整を重ねるという事で満足しなければならなかった。
また軍事同盟、安全保障組織としては、冷戦時代に作られた「NATO(北大西洋条約機構)」があるが、これにはアメリカ、日本、カナダなども加盟したままで、冷戦崩壊後は日本がほぼ形だけとなるも、アメリカの軍事力はヨーロッパに必要と考えられていたこともあってそのままで、政治組織としての「EU」はやや中途半端ではあった。
安全保障面での不安は、1998年のセルビアでのコソボ紛争(内戦)で表面化し、ヨーロッパ各国は減らしすぎた軍備の再建など、様々な問題に対処していかなくてはならなくなった。
ヨーロッパ以外でも、地域統合の動きが見られた。
北東アジア地域がそうだ。
北東アジアには、1977年設立の日本、満州を中心とする「EAFTA(東アジア自由貿易協定)」という自由貿易のための国際組織があった。
また、日本、満州中心とするもアジアの広い範囲が加盟する安全保障組織として1975年に成立した「アジア条約機構(シンガポール条約機構)」もある。
そしてそれだけなら問題も少ないのだが、北東アジアの地理的中心部と言える場所が「支那地域」だった。
そして漢族が中心となった支那中央の国々は、常に「中華の再統一」や「中華連合」を求めていた。
支那地域が連合化などを目指すのは、日本、満州が求める道とは違っていた。
しかもインドネシア戦争を除いて、東アジアでの混乱と言えば支那中央地域で発生しており、1997年秋には「第二次支那戦争」が起きている。
もっとも、その戦争の影響で支那共和国の軍事政権が国民の手で打倒され、その後は一定の安定を見るようになっていた。
そして「第二次支那戦争」の影響もあって、1997年7月1日に香港、1999年12月20日マカオが完全な独立を達成した。
国連委任統治領が続く海南島も、21世紀初頭の独立に向けて動いていた。
しかし支那地域の問題が無くなったわけではない。
第二次支那戦争で支那共和国の軍事力は半壊したが、西部の中華共和国の西安の東部地域は戦災で荒廃したため国連による援助が長期間必要だった。
軍事政権が打倒された北部の支那共和国は、新政府設立と民主化が完全に達成され政治面での軟化が確認されるまで、慎重な対応が必要だった。
中華共和国と支那共和国は、日本や満州、アメリカ、ロシアの影響が強くなり、次なる支那もしくは中華の盟主を自認するようになっていた南部の支那連邦共和国の、諸外国に対するマイナス感情を生んだ。
19世紀後半の列強による侵略とだぶって見えたからだ。
しかし政府間同士は、現状のままでは埒が明かないことは理解していた。
そして1990年代ぐらいから、支那連邦共和国を中心とした「中華連合構想」と、日本、満州を中心とした極東地域の連合化を目指す「拡大・東アジア自由貿易協定」は別の道を目指すようになる。
だが「中華連合」の道は、19世紀末からの歴史的経緯もあって前途多難だった。
経済面で見ても、東アジア自由貿易協定には支那連邦共和国も加盟して、支那連邦共和国には日満の企業も多数進出していた。
さらに言えば、支那連邦共和国は主にアメリカの市場で、アメリカ経済の影響も強かった。
通貨のドル・ペッグ制もアメリカの影響故だ。
南部の海南島や香港、マカオは、いまだアメリカの橋頭堡とすら言える状態だった。
そして旧清朝(大清国)地域の各地では、「中華連合構想」に対する大きな温度差があった。
また、冷戦構造崩壊後は、アメリカが限定的ではあるが「中華連合構想」に賛同を示している事も問題を政治的に複雑化させていた。
支那連邦共和国中心の「中華連合構想」に賛成しているのは、意外にも中華共和国(奥地の西支那)だった。
北の支那共和国も、軍事政権が消え去って以後は態度を軟化させてはいたが、自らが中心だという姿勢を強く維持していた。
もっとも、賛成しているのは中央の3つの国だけだった。
同じ漢族系の国家でも一度袂を分かった四川共和国は、EUのような実質面で完全な対等の条件でない限り賛同する積もりはなかった。
そして支那連邦共和国の経済的影響力が年々強まっていることに苛立ちを強めており、南のウンナンを経由して東南アジアとの繋がり、さらには日本などとの経済的結びつきを強めるようになっていた。
チベットとも連携していた。
四川が支那地域と統合して欲しくない南部、西部の国々も、四川の動きを支援した。
そして四川への動きでも分かるように、支那周辺地域の国々は「中華連合構想」に対して否定的な考えや感情を強く持っていた。
拒絶という場合も少なくなかった。
西部は軒並み反対していたし、それどころか関わる気すらなかった。
北部の万里の長城以北の地域も、民族的アイデンティティーからモンゴルという枠で結びつきを強めており、経済的にも満州との関わりを強めていた。
南部のかつての少数民族を中心とする国家は、すでに支那ではなく東南アジアの一角としか自らを考えていなかった。
言葉も文字も、もはや支那や中華ではなくなっていた。
言葉や文字については、西部もモンゴル地域も同じだった。
どの国も漢字を棄てていた。
独立したばかりの香港、マカオは、都市国家に過ぎない自分たちの生き残りの道を模索していたが、「中華連合構想」の中で支那連邦共和国に飲み込まれてしまうことだけは避けたいと考えていた。
そして支那連邦自体は、20世紀末の時点で強引に事を進める気は無かった。
反発が強いことも、自らの力が不足していることも十分に理解していたからだ。
このため、「中華連合構想」を進めたい支那連邦共和国は、当面ではあっても「EAFTA(東アジア自由貿易協定)」が必要だと考えていた。
また、支那連邦を含めて、旧社会主義国を含めた支那地域の殆どの国が「アジア条約機構(シンガポール条約機構)」に加盟するようになっていた。
つまり日本・満州を中核とするアジアもしくは東アジア、というより大きい範囲を覆う国際組織が支那地域を内包している事になる。
しかも、東アジア条約機構は、西からイラン、インド、東南アジア各国、さらにアメリカも加えた広域の安全保障条約なので、NATOとEUのように釣り合いがとれた組織同士とは言えなかった。
一方、EAFTAとアジア条約機構のある種不釣り合いな状態は、日本、満州も古くから懸念していた。
そして1990年代に巨大な経済力を有するにまで発展した日本、満州は、極論2国だけの連携の大幅な強化による、実質的なスーパーパワーを作り上げることで釣り合い取れないかと考えるようになっていた。
これが「極東連合(FEU)構想」の基本的な考えだ。
1980年代半ばぐらいから提唱された「極東連合構想」では、日本、満州を中心にEAFTA加盟国を中心としつつも、一定以上の一人当たり国民所得が必要などの前提条件を設け、EAFTAを地域国家連合に再編成しようとした。
これは極東を一塊りの地域として、アメリカに匹敵する政治体制、経済体制を作り上げようという考えでもあった。
そしてその巨大な国家連合によって、新たに再編成する北東アジア、東アジア地域、さらにはアジアでの圧倒的プレゼンスを発揮しようと言う野心的な考えでもあった。
1世紀近く続いていた日本とアメリカの関係を、日米蜜月、無二の同盟国などと日本は持ち上げられていたが、アメリカとの力関係から半ば従属状態なのは誰の目にも明らかであり、そうした状態からそろそろ次のステージに向かうべきだと考えるようになっていた、という事にもなるだろう。
しかも「極東連合構想」自体の発想は古く、多少形は違えど第二次世界大戦が終わるとすぐにも考えられるようになっていた。
EAFTA(東アジア自由貿易協定)も、もともとは第二次世界大戦以前の日満の協商関係を発端としている。
しかし、満州はアメリカ経済の影響も強いため、共産主義陣営に立ち向かうと言う建前を用いる事で何とかEAFTAを作り上げるのが限界だった。
そして時を経てアメリカの満州への影響力が低下するに従い、そして満州経済が躍進するに従って、日満対等の関係を作り上げるべきだという考えが徐々に具体化していく。
そして日本と満州の関係も、順調にと言ってよい速度で地域統合へと進んでいった。
最初に日満対等の関係を具体的に進めたのは、満州の田中角栄首相だった。
そして70年代は日本経済が弱体化していた事が、日本側も満州と対等の関係を感情面でも進める大きな切っ掛けとなった。
80年代になると、日満を合わせると西ヨーロッパの経済と人口規模に匹敵もしくは凌駕するようになり、アメリカとも十分渡り合える数字にまで成長すると、極東で政治的、経済的統合を進めることで、アメリカ、ヨーロッパに対して対等の勝負が挑めるのではないかという考えが進んだ。
また「プラザ合意」でのアメリカの態度が、心理面でも日本、満州の連合構想を進める大きな動機となった。
これを欧米メディアを中心に脅威に感じる者が、「日満枢軸(J-M axis)」というかつてのナチスドイツを思い出させる言葉を用いるようになる。
特に80年代は、大躍進していた満州の経済力がアメリカと大きな経済摩擦を起こしていた為、アメリカの民主党系メディアが中心となって極東の経済拡大と日満の連携を叩いた。
実際、国家連合成立まで、アメリカの「説得」と明に暗にの「妨害」は続き、日本とアメリカの友好関係を主に水面下で破壊し続けたと言われる。
特に、日満とアメリカの民主党との関係は、大きな亀裂が入ったことは間違いなかった。
この亀裂は、日満が冷戦時代の流れで左翼勢力に依然として厳しい政治制度や風土を維持していたのに対して、アメリカではリベラルという衣を被った左翼が広がっていた事が影響していたとも言われる。
そして1990年代、いよいよ日満を中心とする連合構想が具体的に動き始める。
発端は冷戦構造の崩壊と、それに伴う政治経済の再編成が理由で、一見ヨーロッパ世界と似ていた。
懸念は支那中央地域の混乱が続いていることだが、一部を自分たちに取り込む事で、逆に支那中央を分裂させたままに置けないかとも考えられた。





