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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ141「日本の行政改革と都市化の進展」

 1980年代後半から1990年代にかけて、日本では高度経済成長と呼ばれる経済発展の最中にあった。

 それと平行して、冷戦構造の崩壊を受けた形で日本の領域の変化も見られた。

 


 第二次世界大戦後の日本領は、4つの島を中心とする日本本土、沖縄、南樺太、千島列島、台湾が直接的な領土された。

 他に国連委任統治領という形で、南洋諸島、ビスマーク諸島、ブルネイ藩国、シンガポール、ディエゴガルシア島を統治した。

 あと、海南島の各国合同での委任統治も行っている。

 

 そして1965年にシンガポール、1984年にブルネイが独立した。

 本土から連続性のない領土としては、インド洋のディエゴガルシア島だけが残された。

 

 1972年には、国連の承認を得た上で、全ての日本領で一度国民投票もしくは全市民投票が実施され、帰属に関する投票が行われた。

 これは特に南洋諸島、ビスマーク諸島、ブルネイ藩国の独立の是非を問うものであり、この結果ブルネイは独立への道を進む事になる。

 一方、1920年から日本の委任統治領だった南洋諸島、ビスマーク諸島は、日本化が進んでいた事も影響して日本への残留を希望した。

 

 この結果、委任統治の継続をしつつも独立ではなく自治拡大による日本領化への道が開かれる。

 全市民の投票結果なので、当時の東側陣営以外は文句の付けようも無かった。

 そしてブルネイ独立と同じ1984年に、二つの地域を統治していた南洋自治区は日本の地方行政組織へと組織を変更。

 南洋諸島、ビスマーク諸島は正式に日本に編入される。

 国際的にも、国連委任統治領から正式に日本領となった。

 

 南洋諸島、ビスマーク諸島が日本への帰属が強かったのは、統治以後の日本が文明化の一環として日本化を進めた事が原因していたので、国際非難は皆無では無かった。

 だが、資源もなく他国の利権からも遠いので、反発する国もなく事態は進んだ。

 200海里水域が設定されると日本の海域が広すぎるという文句も出たが、ビスマーク諸島以外は漁場としても限られているので、やっかみ以上では無かった。

 


 歴史的連続性から本土ではない地域として、最も重要度が高いのは台湾島だった。

 1990年代で約1800万人の人口を抱える、経済的にも重要な地域だったからだ。

 また、台湾古来の先住民族(※日本名:高砂族)と大陸から移民してきた人々の子孫が多く暮らしているため、日本の多文化共生地域としても重要だった。

 

 また、南樺太、千島列島のあるオホーツク沿岸は、幕末以後日本の地域として認識されていたが、ロシア(ソ連)と国境を接するので国防という点で非常に重要だった。

 

 しかし、対岸がロシア領となる最北の占守島から、台湾島そして南洋諸島、ビスマーク諸島南端のブーゲンブル島に至るまで、全ての地域で日本語が公用語化されていた。

 言語だけでなく全ての面で日本化が進んでおり、各地の先住民族の文化は地方文化程度になりつつあった。

 それぞれの地域に、近代文明と近代的文物を持ち込んだのが日本だったからだ。

 現地の人々の名前も、台湾島以外ではかなり日本化が進んでいた。

 南洋諸島のサイパン島に宇宙基地が作られたのも、日本化が十分以上に進んでいたからだった。

 

 だが、台湾島以外の人口や産業は限られており、日本列島こそが日本の中核であり続けた。

 


 国内政治の面では、1920年代から続く二大政党制は、冷戦構造崩壊でも揺るがないほど安定していた。

 日本列島以外の日本各地域でも、自由党か民主党に分かれていた。

 自由党は経済保守、民主党は軍備保守になるため、日本は保守政治大国と言われた。

 しかもどちらの政党も、リベラル政党としての側面まで有していた。

 

 このため他の小さな政党が拡大するスキがなく、二つの政党が中央と地方双方の議席の90%以上を確保し続けていた。

 他は社会党、無産党、市民党など左寄り(社会主義寄り)とされる政党だが、戦後改訂されてもなお共産主義、社会主義、国家主義活動に厳しい法律と警察組織があり、国民の大多数も少数野党の支持に傾かなかった為、少数派であり続けた。

 特に共産党は非合法とされ続け、一般日本人からはテロリストとしか見られていなかった。

 一部のインテリは思想面で共産主義、社会主義に流れる傾向があったが、1920年代から続く弾圧とすら言われた徹底した対策が取られた為、社会に浸透する事は無かった。

 共産主義者に対しては、警察と憲兵が緊密に連携したほどだ。

 それでも教育、法律、報道分野には「隠れアカ」が存在し、社会に悪影響を与え続けたとされている。

 

 なお「共産党狩り」の副産物として、新興宗教の政治への浸透も阻止され続けた。

 新興宗教の中には、日本から逃げ出したものもあったほどだ。

 ただその一部は韓王国で拡大に成功し、強い悪影響を及ぼすなどしている。

 満州に逃げたものもあったが、満州では皇帝の権威を固める目的もあって宗教の政治活動が厳しく禁じられているため、カルト指定されて拡大は許されなかった。

 

 そうした中で、冷戦構造の崩壊は少数野党にとって千載一遇のチャンスだった。

 だが、共産党の合法化に向けた動きが1991年に否定されると、その後も合法化は行われなかった。

 そしてようやく1997年に非合法化だけは解除されたのだが、憲法などあらゆる法律上で政治への参加、公的活動の禁止など多くの事が強く否定されていた。

 個人の自由の権利の一部として、僅かに認められたに過ぎなかった。

 

 そして冷戦構造の崩壊と社会主義国の壊滅で、社会からは共産主義自体が「時代遅れ」とされてしまう。

 さらに日本が豊かになると、共産主義、社会主義が支持される土壌そのものがごく小さくなった。

 

 わざわざ共産主義を支持する者はごくごく限られており、日本国内では極めてマイナーなカルト宗教程度の存在でしかなかった。

 またソ連が崩壊して共産主義、社会主義の脅威が遠くと、日本国民の多くはその存在すら忘れてしまうようになる。

 この影響で、何とか存続した社会党など左派系政党は、ますます存在を小さくしていくしかなかった。

 21世紀に入る頃には、衆参で議席すら確保出来なくなるほどだった。

 


 一方で冷戦崩壊の頃から、日本中枢で再び中央省庁の再編が行われ、小渕政権時代に実施された。

 主な目的は、縦割り行政のさらなる排除、内閣機能の強化、各組織の効率化とされた。

 しかし一方では、東京と大阪に省庁を分けた弊害の解消が主な目的ではないかと言われた。

 

 

      → 内閣府

 内務省  → 内務省(警察庁)

 郵政省→→→→→→↑

 外務省  → 外務省

 大蔵省  → 財務省

      → 金融庁

 兵部省  → 国防省

 法務府  → 法務省

 文部省  → 文部省

        ↓→文化庁 ★(京都)

 農林水産省→ 農林水産省 ★

 通商産業省→ 経済産業省 ★

 運輸省  → 国土交通省 ★

 建設省→→→→→→↑

 科学技術庁→ 科学技術宇宙省 ★

 航空宇宙庁→→→↑

 労働省  → 厚生労働省

 厚生省  →→→↑

 環境省  → 環境省

 宮内省  → 宮内省   


※:★は副都(大阪)所在



 以上のように改変され、それなりに成果はあったと言われる。

 大きな変化は、内閣府が作られて内閣(と総理大臣)の機能が強化された事と、大蔵省が財務相と名を改めさせられ、金融部門が切り離された事になるだろう。

 また大蔵省改名の余波で、古い言葉を使わないようにすると言う方針が示された為、兵部省が国防省に改名されている。

 (文部省はそのままだったが。)

 他は効率化や合理化、時代にあった形への改変が主になる。

 政府の長期政策による宇宙開発の拡大で科学技術宇宙省の規模が大きくなっているが、それも他の省庁と比べると極端に大きいという程ではなかった。

 また経済発展に伴い、大阪にある省庁の影響力は拡大していたが、省庁の数が少ないので東京に完全に対抗できるほどでもなかった。

 

 そして同時期、日本国営鉄道(国鉄)の民営化、各種公団の民営化も順次実施されていった。

 特に最大級の組織だった国鉄民営化は大事業で、小渕政権の前の橋本政権が1期しかできなかったのも、国鉄労組の反発が強かったからだった。

 

 なお、冷戦構造の崩壊に伴い、もはや首都機能を分散する必要性はないという意見が強まったが、元に戻すには莫大な額の予算が必要だし、今更東京中心部に大阪の省庁を戻すだけの土地と建物が無かった。

 加えて言えば、大阪の省庁も東京に戻りたいとは考えていなかった。

 第三の都市への遷都論も出たが、手間、予算、場所などの問題からなかなか結論は出なかった。

 

 それに技術の発展に伴う「距離」と「時間」の短縮化により、離れていることの弊害も年を経るごとに減っているため、東京集中という声は年々下がっていた。

 1990年代ぐらいからは、東京=大阪間のテレビ会議すら省庁の間で日常化するようになっている。

 さらに90年代に入ると急速にデジタル通信化が進み、これは企業なども同様で、首都機能の分散が世界水準より高い日本でのデジタル化を進める大きな動機となった。

 


 だが、東京に省庁を再集中しない理由がもう一つあった。

 どれだけ都市改造、都市再整備、都市の拡大を行っても、東京への人口集中により首都圏の様々な機能が限界に達しており、戻したくても戻せなくなっていたからだ。

 

 特に交通網の混雑は顕著で、1980年代ぐらいからは政府主導による時間差操業、時間差通勤が積極的に行われていたほどだった。

 総人口1億7000万の重み、首都圏3500万の重みで、首都中心部は軋んできたのだ。

 政府は地方開発に躍起になり、さらに満州への移民を奨励すらしたが、それでも追いついていなかった。

 人が多すぎるため都市は雑多な印象が拭えず、「こんな有様では、いつまで経っても先進国になれない」と言われたほどだった。

 

 同じ状態は、日本のもう一つの中核地域である京阪神地区の中心となる大阪でも多少規模を小さくして発生していた。

 大阪の場合は、とにかく遅れていた鉄道網、道路網の普及と拡張が1970年代から大きく進んでいる。

 また1980年代になると、東京と大阪の特に都心部に残されていた運河、水路のかなりが埋められ(※洪水対策で、河川は可能な限り残された。)、一旦水をせき止めて干上がらせた状態で地下網(地下鉄や道路、社会インフラの設置、洪水対策用の地下水路など)を整備して埋めて、その上に道路、さらにその上に高速道路を作った。

 川底をそのまま地下街とした場所まであった。

 

 特に大阪では、そうした運河地域が旧都心部と埋め立てと開発の進む臨海部の間にあったため、景観があっと言う間に変化していった。

 江戸時代に「八百八橋」と言われた旧大坂の景観が完全に変わったのは1990年代だった。

 そしてかつての沿岸部は海岸線から少し離れた影響もあり、古くなった工場のかなりが別の場所へ移転し、さらに区画を整備していく事で、多くの超高層マンションが建設され、都心部と臨海部に対する都市部にあるニュータウンのような住宅地域を形成する事にもなる。

 

 そして大阪は、経済系の省庁が存在している事もあって、日本の都市建設の一つのモデルケースとして扱われた。

 神戸沖の関西国際空港がメガフロートになったのも、その一環だった。

 

 副都心と呼ばれる、新たなビジネス街の形成でも東京より大阪の方が先だった。

 


 副都心と言えば東京の新宿副都心が有名で、同地域は1960年代後半ぐらいから旧浄水場跡地に作られた。

 これに対して日本最初の副都心は、大阪特別市の北部地域にある新大阪に形成された。

 

 これは1950年代に開通した新幹線(弾丸特急)が影響している。

 

 なるべく直線の方がよい新幹線だが、大阪駅の位置は少し南にずれていた。

 また、大きな河川を渡ることになるので、大規模な橋梁工事が必要で建設費と建設期間の問題があった。

 

 このため新大阪駅を新たに建設したのだが、当時の新大阪駅周辺は都市中心部から離れた場所にある、半ば農地が広がるような場所だった。

 このため広大な地域が買収、整地され、新たなビジネス街が建設される。

 これが新大阪副都心の始まりとなった。

 

 新大阪の立地は、南には明治時代から河川のすげ替えが行われた淀川を挟んで大阪市の商業面の中心部があり、北西には小型機用の飛行場(伊丹空港)も比較的近く、そして新幹線の基幹駅の一つであり、当時は安価な土地を十分以上に確保できた。

 

 副都心としての開発は1950年代後半に用地整備が行われたが、首都東京を先に開発するべきだという政府の方針の為、10年ほどは用地の整備がゆっくり進められるに止まった。

 

 このため霞ヶ関ビルや新宿副都心の方が先に完成する事になる。

 だが、大阪圏内のビル不足は明らかなので、とりあえず大阪市内でのビルの増加が進めれた。

 

 そして新大阪が起点となる山陽新幹線が開通し、ようやく新大阪副都心の工事を本格化しようとした所にダブル・ショックが襲いかかり、インフラの整備も遅れてビル街の本格的形成は1980年代にずれ込んでしまう。

 

 だが、形成が大きく遅れた事が幸いして、向上した技術を用いる事が可能となった。

 おかげで初期計画よりもはるかに大規模で先進的なビル街の形成が、日本の高度経済成長に後押しされる形で行われる。

 1990年頃には、300メートルクラスの超高層ビルが複数林立する新宿に匹敵する日本最大級の超高層ビル街が形成される。

 

 その後も、十分に用意された土地を使い、ビル街の拡大は続いた。

 川を挟んだ大阪駅近辺の過密すぎるほどのビル街が、それまで日本最大規模のビル街だった事と合わせて、非常に大規模なビジネス街が形成されていた事になる。

 

(※東京は各所にビル街が分散している。)

 またこの頃には、臨海部の埋め立てと開発が第一段階を過ぎており、臨海副都心の形成までが始まっていた。

 さらに21世紀に入ると、大阪駅近辺や大阪城外縁の大規模再開発も実施され、どちらにも超高層ビルが林立した。

 

 大阪で大規模な副都心と大量の商業用ビルが必要だったのは、大阪を中心にして日本の企業の本拠地が集中していたからだ。

 これは経済系省庁が大阪に集中していることと、明治政府の方針、江戸時代から続く商都大阪の流れが続いているためだった。

 

 首都東京にも企業本社は集中しているが、京阪神で見ると大阪の方が大企業の本拠地集中率は高かった。

 京阪神への企業本社集中は、1990年代からより顕著になっている。

 

 また、東京は基本的には江戸時代から消費都市だが、大阪は本当の意味での商業都市という大きな違いもある。

 この方針については、証券取引所を戦後になって大阪に集中して中心に据えている点からも、日本政府の方針として明らかだった。

 


 さらに東京は日本の首都だが、大阪については最低でも東亜細亜経済の中心にしようと大阪の中央官僚達は強く考えていた。

 特に満州の経済的台頭が顕著になり始めた、1960年代以後に強くなった。

 

 また東京の省庁への対抗心や、大蔵省、内務省などによる嫌がらせへの意趣返しとして東京を過疎化してやろという意図すらあった。

 一方、国際都市整備という点で、外務省、歴代内閣は非常に協力的だった。

 

 そして世界的に見て国際都市として東京に不足しているものを、優先して大阪に建設、誘致が進められた。

 特にその建設や誘致が、1980年代に入ってから大きく進んだ。

 

 それぞれ複数の巨大な見本市会場と国際会議場、十分な数の宿泊施設、さらには様々な宗教施設の誘致建設までが行われた。

 宿泊施設に関しては、京都・奈良の観光都市としての開発とも平行して増やされた。

 そして特に臨海部には、当時アジア最大規模の見本市会場が建設されている。

 

 そして大阪の省庁の動きに、大阪に大きな分所を置いている外務省も荷担し、大阪をアジアの商都、アジアのニューヨークを目指す向きがさらに鮮明となっていった。

 

 東京に集中するべきだという意見も依然として強かったが、東京は既に都市機能が限界に達しているので十分な開発余地がなかった。

 

 また、埋め立てや臨海部開発は大阪湾岸の方が先に進んでいた事もあり、新たなまとまった用地取得も比較的容易だった。

 そして何より、過密すぎて開発が遅れていた東京の再開発を待っていては、近隣の満州に追随すらできなくなる可能性が高いという危機感があったため、大阪の商業面での開発が促進された。

 

 そして京阪神圏は、副首都機能が備えられ企業が集中した事で周辺を含めた人口は大きく拡大し、3000万人近い巨大都市圏に膨れあがっていた。

 このため大阪市と近辺にある中小の工場は次々に郊外に移転し、農地ともども宅地へと姿を変えていっている。

 


 1980年代からの発展に際して、東京(首都圏)と大阪(京阪神)の開発だけでは都市住民の増加に対して対応しきれなかった。

 

 このため、北から札幌、仙台、新潟、名古屋、広島、福岡を地方の中核都市として、日本中の都市部と周辺住宅地の開発が進んだ。

 そして特に海外とのつながりが深い都市の開発が重視され、日本海に面する新潟、対馬海峡を臨む博多の開発が重視された。

 

(※人口過密な台湾では、独自の開発が行われている。)

 新潟は、日本海を挟んでロシアのウラジオストクと面していたので、明治時代から国際貿易港として開かれていた。

 また江戸時代は、越後(新潟)地域は大きな人口を抱えていたので、発展させる価値のある地方都市でもあった。

 

 しかし太平洋方面の開発が重視され、また人口流出も続いたため、次第に寂れていった。

 転機は、満州帝国で田中角栄が首相になってからだった。

 

 田中首相は新潟出身だった事から、シベリア共和国を経由して満州と日本の経済的つながりを強めた。

 この際日本玄関口には新潟が指定され、首都圏と新潟を結ぶ交通網が太く整備された。

 新潟自体も港湾が強化され、空港も拡張された。

 しかし新潟と首都圏の間には、新たに関東の水瓶となった巨大な沼田ダムがあるため、高速道路、鉄道の工事はトンネルを中心とする難工事になったりもしている。

 

 しかし新潟は、国際都市としてはともかく日本の地方都市としては周辺部が農地だけなうえに他の都市からも遠い為、一定以上の発展は望めなかった。

 これは満州やシベリア共和国が期待した、日本の他の日本海沿岸の都市も似たり寄ったりで、太平洋ベルト地帯と言われる太平洋側と比べるべくもなかった。

 

 同じように、京阪神と中京の日本海側の玄関口として、福井県の敦賀もかなり開発が進められている。

 


 そして地方都市として大きく発展したのが福岡だった。

 

 福岡は古代の昔から大陸に向かう国際都市であり、明治以後も大陸への出発点の一つ(最大の出発点は大阪湾岸)として発展した。

 同じ北九州では、後背に炭田を抱える北九州が製鉄の街として先に発展したが、博多は九州全体の商業都市として徐々に発展していった。

 特に発展が決定的になったのは、鈴木財閥が本拠地を構えた昭和に入ってからだった。

 財閥の拠点として、国際都市として整備され、また満州帝国の発展に引っ張られる形でも発展した。

 

 そして第二次世界大戦後には、1978年に「東亜宇宙機構(EASA)」の本部が福岡に置かれると、同機構の多くの組織や研究所が集まり、宇宙開発の一大拠点としての発展していった。

 

 さらに1990年代になると、満州の大連、支那連邦の上海と一種の三角地帯の一角を形成し、北東アジア経済の拠点の一つとしてさらに発展していく事になる。

 加えて90年代以後は、佐賀県の福岡寄りの地域と福岡内陸部のニュータウン化に加えて、衰退し始めていた隣接する北九州市の再開発、衰退しきっていた筑豊炭田地域の再開発を飲み込むことで、より大規模な都市圏の形成が進められるようになっている。

 特に再開発地域では、電子産業の誘致を積極的に行う事で大きな成果を収めていく事になる。

 


 日本列島の4つの島以外だと、南樺太は寒い土地のため人口密度が低く、北海道の周辺部という位置以上にはなれず、大きな都市も育たなかった。

 

 南洋諸島は、どこも小さな島ばかりで論外だった。

 総面積が4万8000平方メートルあるビスマーク諸島は、ジャングルばかりで農地を開くにも苦労があるし、その他様々な要因があるためこちらも人口拡大や発展が望めるような場所ではない。

 それでも日本政府は農業、漁業中心の開発を進めたが、投資に対する十分な見返りが得られる事は無かった。

 産業開発も、漁業と観光業が限界だった。

 

 同じ南の島では、沖縄も発展が遅れ続けていた。

 

 黒潮の流れの上にあるので緯度の割に温かいのだが、観光地として栄えたのは期間も限られていた。

 経済発展して以後の日本の観光客の多くは、所得が向上したことで国内の南の島として沖縄を選択せず、観光化された南洋諸島やビスマーク諸島へと足を向けた。

 

 このため沖縄は1980年代以後は観光地としても寂れ、日本本土の高度成長からも取り残された。

 必然的に島を出ていく者が後を絶たず、政府としても戦略的に重視すべき場所ではないので、特に大きな支援はしなかった。

 人口もかなり減少した。

 


 台湾は、1895年以後日本の植民地となり、その後日本政府による手厚い開発が行われた。

 そして第二次世界大戦での台湾住民の活躍への報償として、自治権を有しながらも日本と同格の行政単位とされた。

 第二次世界大戦終了時で700万程度の人口だったが、その後支那本土から多数の移民が逃れるように大挙押しよせた。

 移民は客家が多かったと言われるが、支那戦争中までは難民救済という面もあるため受け入れられた。

 この結果1954年までに300万人以上増加。

 このうち100万以上は、その後さらに満州へと流れたが、多くがその後台湾中心に日本へと定住した。

 

 戦後は日本の一地域として過ごすが、少し離れている事と第二公用語として支那語(上海語)が認められ独自の文化があるので、日本国内の別文化の地域という位置付けだった。

 

 そうした中で開発の中心は自治政府(旧総督府)のある台北と、日本の南の玄関口ともなる高雄だった。

 

 しかし一部の社会資本を除いて、日本各地の都市より発展は遅れており、1990年代に入ってようやく大きな成長が認められるようになっている。

 

 しかし、日本国内で見ると少し所得が低いことは人口増加にも結びつき、1990年の時点で1800万人の人口を抱えている。

 これは、ほぼ同じ面積の九州より40%近く多い。

 このため台北、高雄など都市の人口も多くなり、日本国内より過密となっていた。

 

 また、1980年代ぐらいになると全ての住民が日本語を話せるようになっていたので、台湾から日本各地へ転居する事も増えており、台湾島自体が人口供給地ともなっている。

 また同時期からは、同じ日本国内でも異国情緒が味わえるとして、観光地として発展するようになった。

 


 なお、日本での開発と都市化は、夏季オリンピックやエキスポが契機になる事が多い。

 1956年の東京オリンピック(東京五輪)、1964年のエキスポ大阪(大阪万博)、そして1988年の名古屋オリンピックが当たる。

 他に1972年には札幌冬季オリンピックが開催されているが、当時の冬季オリンピックは大きな経済効果は無かった。

 

(※1972年の夏季オリンピックは満州の新京で開催されているため、アジアのダブル五輪と言われた。)

 そして昭和末期に始まった高度経済成長期に開催されたのが、1988年の名古屋オリンピックになる。

 

 名古屋は大都市ながら、首都東京と商都大阪に挟まれていた。

 周辺部の人口規模も限られている為、日本第三位の都市圏とされながらも二つの大都市圏と比べると規模は小さかった。

 

 産業としては機械工業が盛んで、特に日本の航空産業のメッカと言われるほど盛んだった。

 もっとも航空産業の中心はあくまで軍用機で、1980年代以後西崎飛行機が大きく拡大すると、航空産業のメッカは京阪神地区に奪われている。

 入れ替わるように大きく隆盛したのが、自動車産業だった。

 それまでも自動二輪産業は盛んだったが、日本経済の発展に伴う国内での自動車需要の大きな拡大、輸出の拡大により大きく発展する事になる。

 これで、今まで航空産業一つに頼りがちだった状態からの脱却が図れるようになった。

 しかし名古屋もしくは中京圏(東海圏)の経済上の弱点として、特定の産業に依存する傾向が強いという方向性は変わらなかった。

 

 だからこそ、名古屋オリンピック開催に伴う名古屋の大規模な開発と再開発は、同都市圏を大きく変える大きな切っ掛けになると期待された。

 豊田市が中心とはいえ、自動車産業の隆盛も重なったので、尚更その期待は大きかった。

 

 名古屋オリンピック自体は日本全体の発展と重なった事もあり大成功し、名古屋市街と開催場所近辺は大きく開発され、新空港も整備された。

 しかし名古屋自体の都市圏としての限界から経済的に大きく変革できたとは言い切れなかった。

 東京や大阪に比べて高速道路網は非常に貧弱で、商業ビルの数も少なかった。

 都市中核地域の発展度合いは、博多にすら劣るほどだった。

 それでも1988年という、日本経済が躍進し始めた頃の開催の効果は大きく、日本人全体に大きな上昇機運をもたらし、さらなる経済成長の一因となったのは間違いない。

 

 そして名古屋オリンピック前後から、少なくとも1997年までは非常に高い数字の経済成長が続く事になる。

 この成長は2008年まで継続し、日本の経済力と景観を根本から変えるほどだった。

 


 しかし、日本の大きな経済的成功と、満州と連携する形での経済圏の形成は、世界経済で圧倒的地位にあったアメリカを脅かすものであり、日米の蜜月関係も遂に終わる時が来るのではないかと言われるようになっていく。

 


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