50. 祈りとは
異様な静寂が訪れた。レティは殿下の瞼を手でそっと閉じさせて、顔を上げる。
「ねぇ、セリア。この子を連れて逃げて」
「え?」
金目のものを奪ってこいと、彼は指示されたのだ。子供なのに、子供だからと。それは飢えきった村にとって決死の決断でもあった。
「王族を殺した彼は、きっと処刑される。けれど、子供を殺すほど、この世に悪いことはないわ」
ただただ低い声で、若いメイドに指示を出す。オベール領のサラのところまで連れていくこと。彼に途中で食べ物を与えてあげること。大丈夫、全ては自分の指示で、何があっても守るからと。
「私は、ここから動けないから」
そうしてメイドが男の子を連れて走っていったのを確認した。
物言わぬ殿下を膝の上に乗せて、レティは祈った。きつく手を組み、ひたすらに祈る。
従者たちは、レティが壊れたのだと思った。
魔法学が普及し、生まれながらに得意属性は決められていることが通説となり、多くの人は忘れていた。
祈りこそが光属性の魔力源であるという、純粋な原理を。
レティの母は戦時中誰よりも無事を祈り、子爵令嬢が聖女と呼ばれるほどにまでなった。
レティは、今までどれだけの国民の幸せを祈ってきただろうか。
民が幸せであるように。友が幸せであるように。幸せにできますように。
英雄譲りの大きな器に、彼女の祈りは蓄積されていた。そして今、殿下への祈りで、全てが解放される。
「どうか、殿下を助けられますように」
魔法は自然の力を借りる行為。今までで一番強く、原初的で、また理を変える魔法だった。
「どうか……」
桁違いの魔力が発せられる。白くて眩いその光に、従者たちは目の前が見えなくなった。隣の者の顔も見えない、白い空間。今まで何度も助けてもらってきたその強大な力に怯え、腰が抜ける。場所も、時も、何もかもがわからなくなる。その姿は、神への畏敬に似ていた。
『人の身で来てしまったのかい、愛し子よ』
レティは気がつくと、真っ白い空間に一人立っていた。目の前には大きな何かがいる。人の形をしているのに色がなく、男か女かもわからず、長い髪を垂らして、ただそこに在る。
『愛し子?』
『ラエティティア、君のことさ』
『私?』
『そう。ワタシの作った特異点を、導く存在』
神は語った。人とは、ここで魂が生まれ、ここに帰ってくるのだと。人として生きると魂がすり減り、同じくすり減った魂と融合したり、はたまた分裂してしまったり。また新しい魂が生まれる。
『あの子はあまりにも大きくて、欠陥のあるままに送り出してしまった』
世界が続くように、神は時代を進ませる特異点を作らなければならない。
『他の子達もね、なぜかこの時代に集中してしまって、困っていたんだ』
オベール家の皆やルネでさえ、もう十分に特異点の基準だったというのに。
『そこで現れたのが君だ。君は凄く純度が高かった。数千年振りの、まっさらな魂だ』
大きな手で指を差される。白い空間には、よく見ると無数の光の粒があった。濁っていたり、色がついていたり、その中でもレティは一際真っ白く輝いていた。
『だからワタシは君を愛しみ、力を与えた。しかし……どうやら、ワタシは間違えたようだね』
神が虚空を見る。レティには何も見えないが、そこから現世が覗けるのだろう。苦しくて、レティは胸元を握りしめた。
『私、殿下を生き返らせてほしいの』
叫び出すように乞い願う。神はその長いまつ毛を伏せ、何もなかったはずの瞳に不思議な虹彩を宿す。
『すでに死んだ存在をかい? 傲慢だね』
『傲慢でも構わないの。生き返るなら、もうなんでもいい』
レティは必死だった。だが、神の余裕は崩せない。
『駄目だよ。君はたくさんの人を愛している。誰かが死ぬたびにそんなことをされては、困るんだよ』
生き物は皆いつか死ぬ。生死というのは神でさえ、あまり触れてはいけない理だ。神からすれば、戻ってくるのが早いか遅いかの違い。
殺しを別として、レティも寿命には逆らわないはずだった。
『……きっと、殿下でなければここまでおかしくならないわ』
『どうして?』
『だって、ずっと一緒にいたのよ。友達でも、家族でもなくて、でもこれからも、ずっと一緒にいるはずだったの』
涙がポロポロと溢れる。白い空間に、波紋が起こって、消えて。濁った光の粒が浄化されていく。
人の子レティシア。強い力を持ちすぎてしまったラエティティア。
『等価交換だよ』
神はそう伝えた。




