episode3-3 妹⑤
一日の授業を終えて帰宅するため、教科書やノートなどの勉強道具一式を鞄に詰め込んでいたちさきが、ふと大きなため息を吐いた。
シャドウから投げかけられた言葉に対する明確な答えが出せないまま、時間だけがあっという間に過ぎていき、気が付けば九月も残りあとわずかという時期になっていた。みんな大事だという気持ちと、シルフを強く思う気持ち、その二つに一体何の違いがあるのかちさきにはわからなかった。シャドウの戦いを見守ることは続けているが、その答えを出せない限りはきっとシャドウは一人で戦うことを止めないだろう。それがわかっているから何かを言うことも出来ず、状況は停滞してしまっている。
定期的に連絡を取り合っているブレイドとプレスの方もあまり進展はないようで、最近はウィッチカップという魔女だけが出場する対抗戦の本戦が近づいて来たことを理由に、うまいことシルフに逃げられてしまっているとちさきは聞いている。
ちさきたちの目的はシャドウを一人にしないことと、シルフにちさき以外の友達を作ることにある。だからちさきがうまくシャドウを説得出来ても、ブレイドたちの方に進展がなければ戻ることは出来ない。
どちらもうまくいっていない現状に気分が重たくなるちさきだったが、同時にブレイドたちとシルフが一足飛びに仲良くなれたわけではないことに何故かホッとしたような気持ちになり、それを自覚して更に自己嫌悪に陥ってしまっていた。
「ちさきちゃん、大丈夫? 最近元気ないみたいだけど」
暗い顔のちさきを案じるように、ちさきの前の席に座って同じく帰り支度をしていた少女、白雪美保が椅子に座ったまま振り向いてちさきに声を掛ける。彼女はちさきのクラスの委員長で、ちさきにとって非常に親しい友人でもある。
いつもは元気一杯という感じで傍目からは悩みなんてなさそうに見えるちさきが、ここ最近はどこか上の空であることが多く、体育で失敗したり先生にあてられても気が付かなかったり、今みたいにため息をついていたりと、明らかに様子がおかしいので何かあったのではないかと心配しているのだ。
「あ、ううん、ごめんね。何でもないよ」
「そっか。そういえば、テスト週間で部活はお休みだよね? これから私の家で勉強会しない?」
「良いの?」
何でもないということはないはずだが、美保はあえてそのことには触れず話題を変えた。
ちさきの通う中学校は3学期制で、9月の末に2学期の中間テストがあるため美保の言う通り部活動は休みになっている。そのため勉強会自体には参加できるが、ちさきはそれほど勉強が得意な方ではない。勉強会とは言ってもちさきが一方的にわからない部分を教えて貰うだけになることは明白で、ちさきはどこか申し訳なさそうな表情で聞き返した。
「全然良いよ! 誰かに教えるのって自分にとっても復習になるから、1人で勉強するより捗るんだよね。じゃあ善は急げ!」
ほとんど帰り支度を終わらせていた美保がちさきを早く早くと急かし、二人並んで帰路につく。
二人は中学一年生からの仲だがお互いの家に何度も遊びに行っているくらいには親しくしており、お泊りをすることもあれば食事をご馳走になることもあり、お互いの両親とも良好な関係を築いている。
この日も事前の連絡や約束もなしにちさきを連れて来た美保に何か言うでもなく、美保の母親は朗らかな笑顔でちさきを歓迎した。
「あぁ~、1週間分くらいは勉強したような気がするよ~」
「まだ一時間くらいしか経ってないよ。でもお疲れみたいだしそろそろ休憩にしよっか」
美保の自室で勉強を始めて早一時間。出来る限り自力で問題を解きながらどうしてもわからない部分は美保に教えて貰っていたちさきは、一つの教科の出題範囲が終わるともう無理だと言いたげに机の上にぐでっと身体を投げ出した。
そんなちさきを見て美保は可笑しそうに笑いながら机の上を片付け、大袋のお菓子を開封して机の上に並べていく。
「わ、ありがとう美保ちゃん」
「この前のお返しだから気にしないで」
それから二人は甘いお菓子をつまみに他愛もない話に花を咲かせるが、時折ふとちさきの表情が暗く沈むことがある。すぐに何でもないように取り繕ってしまうが、それに気が付かない親友ではなかった。
「ねえ、ちさきちゃん。やっぱり何か悩みがあるんだよね? 言いづらいことなら無理には聞かないけど、私たち友達でしょ? 私に出来ることがあるなら力になりたい」
いつもの魔法少女トークをしている時とはまた別種の真剣さでちさきのことを案じる美保。学校で一度その話題から話を逸らしたのは、まだ人が残っていた教室では話しづらいかもしれないと気を利かせたからだった。
「美保ちゃん……」
美保がそうやって気にかけてくれることはちさきも嬉しくて、出来ることなら全てを打ち明けて相談に乗ってもらいたいという気持ちもあるが、魔法少女ではない美保にはちさきの話のほとんどが認識できない。ブレイドやプレスなら当然認識阻害は受けないが、二人とシルフが中々仲良くなれないことにホッとしているなんてことをまさか本人たちに言えるわけもない。
「私に出来ることなんてなくても、誰かに話すだけで軽くなることもあるんじゃないかな?」
ちさきの肩の荷を下ろす様に優しく語り掛ける美保。
立派な志を持ち、命を懸けて戦っているとは言ってもちさきはまだ中学生だ。美保の言葉に背中を押され、自分で処理しきれない重圧に耐えかねるようにちさきはポツリポツリと言葉を選んで話しだした。
「私……、みんなのことが大好き。お父さんお母さんも、美保ちゃんもゆりちゃんも、先生やクラスのみんなだって、もしも私の手が届くなら、もっともっと、全部私が守ってあげたいって思うの」
「う、うん、ちさきちゃんは優しいもんね」
ちさきが切り出した話が、想定していたものとは大きく乖離した何やら壮大なものであることを感じ取り、美保は一瞬狼狽えたように言葉を詰まらせたが、すぐに真剣な目で真っ直ぐにちさきを見つめ返した。親友だから、ちさきがこんな時にふざける女の子ではないと理解しているのだ。
「だけどね、ちょっと前からね、もっともっと、もーっと、私の全部をかけてでも、この子だけは守りたいって思う子が出来たの。みんなのことが大切な筈なのにね、誰が一番大切なんだって聞かれた時、その子のことを思い浮かべちゃったの……。ひどいよね……」
「ひどくなんてないよ。そんなの当たり前だと思う。誰だって、特別に大切な人はいるよ」
とても真剣で深刻なちさきの様子に、自分が話を聞いて何か力になれるようなことなのかと少しだけ不安を感じていた美保は、続くちさきの言葉に安堵して力強くちさきを肯定した。なるほどこれは、ちさきちゃん特有の表現だけど好きな子が出来たってことだな、と理解したのだ。
いつの時代も花盛りの乙女は恋バナが好きなものだ。今までそういう話とは無縁だったちさきちゃんにも遂にそういう人ができたかと美保は感慨深く思いつつ話の続きを促した。
「でも、でもね、その子が幸せなら私も幸せな筈なのに、その子が喜んでたら私だって嬉しい筈なのに、私以外の人と仲良くなるかもって考えると、嫌だなって思うの。私の友達とその子があんまり仲良くなれてないって聞いて、良かったって思ってるの。こんなの私、最低だよ……」
「ちさきちゃん……」
それが嫉妬だということは美保にはすぐにわかった。
自分の好きな人が他の人と仲良くしているのがモヤモヤするなんて、そんなことはうらわかき乙女であれば誰しもが経験していることで、何もおかしなことなんかじゃない。
ただ、純粋なちさきはその気持ちが何なのかをわかっていない。いや、知識としては勿論知っているのだろうが、今ちさきの胸にあるその感情が何なのか、ちさきにはそれがわかっていないのだ。
一瞬でもちさきちゃんと恋バナが出来るだなんて浮かれた気持ちを抱いたことを美保は恥じた。ちさきにとってそれは本当に深刻で、傍から見ても何か悩みがあるとわかるほどに追い詰められているのだから。
「ひどい時なんて私、その子のことを物みたいに……! 誰にもあげたくないなんてっ……、思って……」
ちさきちゃんみたいな子でも嫉妬したり、そういう独占欲があるんだなと意外に思い、美保は無言で話を聞きながらどうやってちさきのことを元気づけるか考えていた。
美保にとってちさきはかけがえのない親友だ。誰にでも分け隔てなく優しくて、人の正しさを心から信じられる純粋な女の子。そんなちさきの暖かな温もりに、眩しいほどの輝きに助けられたことは一度や二度じゃない。
そんなちさきが目の前で困っているのだ。未知の感情を持て余して、責める必要なんてないのに、悪いことなんて一つもないのに、自分を最低だなんて貶めてしまっている。今のちさきを助けられなくて何が親友か。
美保は、どんなに恥ずかしい言葉を口にしようとも、必ずちさきの認識を正してみせるという覚悟を決めた。
「ちさきちゃんはさ、その子と一緒にいるとどんな気持ちになるの?」
「すっごく楽しいよ。最近はあんまり会えてないけど、もっと一緒に遊びたいなって思ってる。でも、よくわかんないけど、ちょっと前から胸の奥の方が締め付けられたり、一緒にいると胸がドキドキしたりするんだ。たまに、モヤモヤしたりする時もあるけど……」
「そっか、そうなんだね」
「私、おかしくなっちゃったのかな……?」
不安で泣き出しそうな表情で問いかけるちさきの姿に、美保は胸が締め付けられるほど悲しくなった。おかしくなんてなってない。ちさきちゃんはおかしくなんてないと今すぐにでも叫びたかった。
ただ、ここで自分が間違った対応をすれば、ちさきの淡い想いが悲惨な形で終わるかもしれない。そのことを理解し、美保は小さく深呼吸して気持ちを落ち着かせながら真剣な表情でちさきに言葉を返し始めた。
「ちさきちゃんはおかしくなっちゃったんじゃないよ。その気持ちはね、とっても尊くて、大切なものなんだよ」
「尊くて……、大切……?」
「ちさきちゃん、それは恋だよ」
「こ、恋……!?」
まるで雷にでも打たれたかのように背筋をピンと伸ばし、目を見開いてちさきは驚きを露わにした。
「そうだよ。ちさきちゃんはその子のことが好きなんだよ」
「それは、その子のことは好きだけど、でも恋なんてそんな……」
美保が予想していた通り、ちさきだって恋だの愛だのというものは知っている。けれど、自分が実際にそういう感情を抱く日が来るのなんて、もっとずっと先の話だと思っていた。今の自分には関係ない、もっと大人になってからの話だと。
ましてや相手は肉体的には10歳程度の少女なのだ。いくら元は大人の男性であると知っていても、ちさきの認識的にはやはり小さな女の子というイメージが先行する。そんな女の子に恋をしてしまうなんて、そんなの変だと、無意識の内にブレーキをかけてしまっていたのだ。
「その子と一緒にいるとドキドキする、その子を見てると胸が締め付けられるみたいに痛くなる、他のこと仲良くしてると嫉妬する、その子を独占したいって思ってる。ここまで揃ってそれが恋じゃないんだったら、この世に恋なんて存在しないよ」
普段の自分であれば、普通の状況なら、こんな言葉を真面目に言い切ることなんて出来なかっただろう。こんな物語の一節にあるような恥ずかしい言葉を、凡人の自分が口にすることなんて本当なら出来なかった。美保はそれを自覚していながら、羞恥で顔を赤くするようなことはなく、至って真剣な目でちさきの目を見つめ続ける。
ちさきに不安を与えないように。それが悪いことや、恥ずかしいことだなんてほんの少しも思わせないように。
「最初は戸惑うかもしれないけど、でも受け入れてあげようよ。それだってちさきちゃんの心なんだから。ちさきちゃんはその子に、恋してるんだよ。恋しちゃったなら、その子が一番特別でいいんだよ。ううん、むしろ一番特別じゃなきゃ駄目なんだ。他の誰よりも大切にしなきゃ駄目なんだよ」
ちさきはそんな美保の勢いに圧倒されながらもその力強い言葉を受け取るたびに、ずっと悩んでいた自分でも制御できない熱が、よくわからないモヤモヤが、特別だという気持ちが、自分の手の平の上に集まって、一つの形へ収束していくように感じられた。
それは親友によって名付けられ、肯定され、一つの指向性を得たことで、最初からそうなることが決まっていたように、それが本来の姿であると示す様に、小さい女の子だから変だとかそんなことではもう止められないほどの勢いで、急速に形を成していく。
「美保ちゃん……。そっか、私、そうだったんだ……」
きっかけは何だったのか、いつのまにこんなに大きくなっていたのか、それはちさき自身にもわからない。けれど、わからなくても良い。ちさきは、今この瞬間ようやく自覚した掌の上のそれを受け入れるように胸に抱いた。それはもう制御できない何かなんかじゃ、よくわからない何かなんかじゃない。
「私は良ちゃんに恋してる」
それは恋だ。
ちさきは自分の恋心を自覚し肯定した。
そこにはもう今までの迷いはない。苦悩はない。
特別なその人のために、魔法少女は立ち上がった。




