episode3-2 依存⑤
人通りの少ない通りにあるがらんとしたカフェの一角で、二人の女性が軽食を取りながら何やら話し合っている。二人の他に客はいなく、店内には小さな話し声とゆったりとしたクラシック、それから店主が読んでいる文庫本のページが時折めくれる音だけが聞こえる。
二人はいかにも暇を持て余した夏休み中の大学生といった風貌で、九月の平日真昼間であるにもかかわらず時間に追われた様子もなく、片や深刻な表情で、片や呆れたような表情をしていた。
「うぅ……、聞いてよ八重ぇ……」
セミロングの髪を明るく染めた女性、先日タイラントシルフの家を訪ねていた水上双葉が、目元に手を当ててシクシクと嘘泣きしながら、対面でケーキを食べつつ優雅に紅茶を啜る女性に話しかける。
双葉から八重と呼ばれた、茜色の長い髪の毛を肩のあたりで一つにまとめ右肩から前に垂らしている女性は、慣れた様子で音もたてずにティーカップをソーサーへと降ろし、やれやれと言いたげにため息を吐いた。
「また訪ねられなかったの? これで何回目よ? 夏休みだって無限じゃないんだから、いい加減腹を括りなさい。双葉らしくもない」
十年来の親友である八重が双葉から相談を受けることはこれが初めてではなく、お互いにお互いを支え合ってこれまで辛いことも楽しいことも共有してきたが、今回受けている相談はもう一か月近くも前からほとんど何の進展も見せておらず、それというのも双葉のヘタレが原因であるため八重はすっかり呆れかえってしまっていた。
双葉の相談というのは、これまで従事していた一つの活動から正式に身を引いたため、これを機に幼いころに疎遠になってしまった兄との関係を修復したいというものだったが、公的機関に請求をかけて住所を割り出し、後は訪ねるだけという段階になって双葉が及び腰になってしまったのだ。
両親との関係修復については、実際に腹を割って話し合ってみればお互いの気持ちがすれ違っているだけだと判明し思いのほかスムーズに進んだのだが、兄に対しては何らかの負い目があるようでつい数か月前まで見せていた頼もしさが嘘のようにヘタレてしまっている。
「訪ねることは出来たんだけど、お兄ちゃんとは会えなかったんだ」
「どうして? 住所が間違ってたの?」
「ううん、お兄ちゃんが留守だった」
「だったら日を改めてまた行けばいいじゃない」
まさか、一度訪ねるのに気力を使い果たしたからしばらくは無理などとは言わないだろう。双葉という女性がやる時はやる人間だということは付き合いの長い八重はよく理解している。一度覚悟を決めたのであれば、探し人が帰ってくるまで玄関の前で待つという手段を選んでもおかしくはないのだ。
「何かね……、小さい、小学生くらいの女の子がいたの……」
「……は?」
「その子がね、お兄ちゃんのことお父さんって呼ぶんだ……。お父さんは今居ませんって……」
「あなたのお兄さん、結婚してたの?」
「そんなの私の方が聞きたいよ。もう8年も音信不通だったんだよ? 見た目的に、多分8~10歳くらいかな。年齢的に、家を出てすぐか、家を出る前から子供がいたってことになるんだよ? そんな素振り少しも見せなかったのに……」
双葉と八重は小学一年生の頃からの付き合いであるため、双葉の家族関係を八重はある程度把握している。
双葉の兄である人物の名前は水上良一で、双葉と同じ誕生日でちょうど10歳離れた社会人だ。何の仕事をしているのかは双葉も知らないため当然八重も知らないが、双葉が二カ月ほど前に20歳を迎えたことを考えると、現在は30歳ということになる。
30歳の男性に10歳前後の娘がいるというのは、今のご時世で考えると少し早いかもしれないがありえない話ではなかった。
「でもその子供に会えたってことは土日に尋ねたんでしょう? 平日なら学校があるはずだし、まさか夜になって訪ねたりしたわけじゃないわよね。だったら母親とは会えなかったの?」
「会えなかった。っていうかたぶん、いないんだと思う」
「……どういうこと?」
「その子にね、お父さんがいつ帰ってくるかわかるかって聞いたら、今日は帰って来ないって、当たり前みたいに言ったの。お父さんが帰ってくるまで一緒に待たせてって言ったら、いつ帰ってくるかわからないって、怒らせちゃった」
黙って双葉の話を聞いている八重の思考に、ネグレクトという言葉が思い浮かぶ。
明確な定義とは少し異なるかもしれないが、双葉も両親から十分な愛を注がれず、ネグレクトを受けて育ってきた。金銭的な面だけは決して困窮するようなことはなかったが、両親は常に家におらず、雇われた家政婦が事務的に家事をこなすのみ。人によっては命の危険がない分それでも十分だと思うかもしれないが、少なくとも八重の基準ではそれは立派な虐待だった。
「それでね、お母さんはって聞いたら警察呼びますよなんて言われちゃってさ、きっとこの子は私やお兄ちゃんと同じなんだって思って、一人で寂しかったよねって言ったら、拒絶したくせにって言われちゃった……」
「ちょっと待って、それってどういうこと? その子は双葉のことを知ってたの?」
「最初は気づかなかったみたいだけど、お兄ちゃんに水上双葉っていう妹が居ることは知ってたみたい。拒絶したくせにっていうのは……、たぶんお兄ちゃんのことなのかな。だったら私、やっぱりお兄ちゃんに嫌われてるってことだよね……」
「……少なくとも、娘に対してそんなことを吹き込むくらいには良い印象ではないんでしょうね」
双葉自身も兄に対して関心を向けなかった、それどころか学校に魔法少女生活にと忙しくしている中でお節介を焼こうとする兄を鬱陶しく感じ冷たく接していたことを今となっては後悔しており、きっと嫌われているんだろうという予想はしていたようだが、実際にそうしてマイナスの感情をぶつけられると想像以上にこたえているようだった。物心ついたばかりの頃は兄に甘えてばかりのお兄ちゃん子だったらしく、思春期で多感な時期だったこともあり、本気で兄を嫌悪していたわけではないのだ。
ただ、八重としては10歳も年の離れた兄のくせに妹に冷たくされたくらいでへそを曲げて親も居ない家に中学生になったばかりの妹を置き去りにして出ていくなど、いくらなんでも幼稚ではないかと以前から疑問を感じてはいるし、今の話を聞いて娘に対してそんなことを吹き込むなんて禄でもない人間なんだなという印象が強まった。
「お兄さんと仲直りするのは難しいんじゃない? ご両親とは和解出来たんだし、とりあえずそれだけでも良いんじゃないかしら? それより私はその子のことの方が心配だわ。あなたの家には家政婦さんが居たけど、そういう人は居そうだったの?」
双葉が中学校を卒業するまでいつも双葉の家にいた、無愛想で事務的な家政婦の女性。印象の薄い人で、八重がどんな人だったか思い出そうとしても人相は黒く塗りつぶされたようにハッキリと思い出すことが出来ない。双葉の家に遊びに行った時くらいしか会う機会はなかったし、もう5年も経っているのだからそう不思議なことでもないだろう。
「……わかんない。でも、あれだけ大騒ぎしてたのに誰も出て来なかったってことは、いない可能性の方が高いと思う。たぶんだけど、お兄ちゃんあの子にお金だけ渡して勝手に生活させてるんじゃないかな」
「双葉のことを悪く言うつもりはないけど、蛙の子は蛙ってことなのかしら。その子、何とかしなくて大丈夫?」
「一応仲の良い友達は居るみたいだったから、多分大丈夫だと思う。私がこうやって普通に大学生やれてるのも、八重が居てくれたからだし」
たとえ親の愛を感じられなくても、家の中で一人ぼっちだったとしても、心を預けられる親友が一人でもいれば、人は支え合って生きていける。双葉はそのことを自分自身の経験で知っている。だからあの日も、執拗にあの少女を案じながらも、心の通じ合った友人がいることを知って引き下がったのだ。
「相変わらず、恥ずかしげもなくそういうこと言うわよね」
「恥ずかしいことなんかじゃないからね。それでさ、私が訪ねた日に一緒に遊ぶ約束してたみたいで早く帰れって怒られちゃったんだ。そのお友達にも鉢合わせたんだけど、随分警戒されちゃってほんとに警察呼ばれるんじゃないかと思って冷や冷やしたよ」
「どうせ何か強引なやり方で話しかけたんでしょう? あなたはそういうところがあるから勘違いされても仕方ないわ」
「むっ、失敬な。玄関閉められそうだったから足を入れて閉められないようにしただけだよ」
「充分事案だと思うんだけど……」
重くなりかけていた空気が双葉の何気ない言葉を切っ掛けに払拭されて、一切自覚のない失敗談に八重は思わず苦笑する。双葉には昔からこういう、無自覚に場の空気を良い方向へ変えてしまうようなムードメーカー的な才能があった。それは一種のカリスマ性でもあり、双葉のことを慕う友人や先輩後輩は少なくない。
「それにその子、男物のブカブカのTシャツを着てたんだ。たぶんあれお兄ちゃんのだよ。年頃の女の子がわざわざあんなもの着てるのは、たぶん少しでもお父さんのことを近くに感じたいからなんじゃないかな? お父さんのことを待ってるんだと思う」
「あなたもそうだったみたいに?」
「うん。私だってお父さんお母さんと遊びたかった。もっと一緒に居て欲しかった。きっとお兄ちゃんだってそうだったはずだよ。だから、私もなるべくあの子が寂しくないようにしばらくは通うつもりだけど、大事にするかはもう少し様子を見てから決めた方が良いと思うんだ。もしも私とお兄ちゃんが仲直り出来なかったとしても、あの子がもっとお兄ちゃんと一緒に居られるようにはしてあげたい」
「そう……。家族の問題だし、あなたがそう言うならこれ以上私から何か言うつもりはないけど、困ったことがあったらいつでも相談してちょうだい。今のあなたじゃ取れない手段も、私ならまだ使えるし」
「あはは、そうだね。その時はお願いするよ。でね、ここからが本題なんだけど……」
頼もしい八重の言葉に双葉は嬉しそうに頷いて、早速小さい女の子と仲良くなるための作戦を相談するのだった。




