episode2-閑 わがまま
「お兄ちゃん! 旅行に行くわよ!」
大して物も飾られていない淡白な部屋で小説を読んでいた青年は、ノックもせずに扉を開き唐突にそう言ってのけた少女の方を向いて面倒くさそうに表情を歪めた。
青年は特徴らしい特徴もない平凡な顔立ちの日本人で、白髪に赤い瞳の少女とは似ても似つかないが正真正銘血の繋がった兄妹だ。
少女がいきなりわがままを言い出すのも今に始まったことではなく、今更そんなことで怒りはしないが自分を巻き込まないで欲しいという思いはある。わがままを言うなら両親に言ってくれと。
「また急だな。いつ、どこで、何泊だ?」
「一週間後、千葉で3泊4日。初日はネズミの国に行って残りは咲良町の近くで観光するわ。ホテルもそっちに取ったから」
ホテルもそっちに取った。過去形だ。つまりこれは旅行に行こうというお誘いではなく、旅行に行くからついてこいという命令だった。
少女は兄としての贔屓目を抜きにしても非常に賢く、とても小学五年生とは思えないほど利発だ。さすがに大学生の青年を学力で上回るわけではないが、そうした学校で必要とされる知力ではない部分が恐ろしく優れている。もちろん学力も優れているのだが。
とはいえ、どれだけ賢いと言っても子供であるということに変わりはなく、行動には多くの制限がかかる。一人で外泊などもってのほかだろう。あまり出来の良い方ではない青年は両親からさほど期待されていないが、優秀な少女はこれでもかというほど溺愛されている。引率として青年がついて行かなければ少女の旅行は両親から認められないだろう。
そんな状況であるにも拘わらず、青年への態度がお願いではなく命令なのがその少女の性質を色濃く表していた。少女は媚びないのだ。そうすること、そうされることが当然であると信じ切っている。
「いや、いきなりすぎだろ。バイトだわ」
「休めばいいじゃない」
「小学校じゃねぇんだぞお前……」
そんな気軽に休めるかとぶつぶつ文句を言いながら、青年はバイト仲間に休みを代わってくれないかと連絡を取る。
ここで何もしないで断れば少女の機嫌が急転直下で悪化することは目に見えており、結果としてそれは両親からの叱責に繋がるのだ。バイトくらい休めるだろうと、代ってくれる友人もいないのかと。ヒートアップした場合にはバイトと全然関係のない説教をされる可能性もある。
バイトをしているとは言え学業の片手間であり、生活費を家に入れるようなことはしていない。家は青年の学費を払っても痛くも痒くもない程度には裕福であり青年としても非常に助かっているが、生活費や学費など諸々負担して貰っている立場としては両親に逆らうことなど出来ようはずもない。それはつまりこの小さな暴君に逆らうことが出来ないのと同義なのだ。
もっとも、青年としても少女の望みを叶えてやるのが嫌というわけではない。歳の離れた弟妹というのは可愛いもので、兄妹仲は悪いわけではないし、この優秀な妹でも自分の助けが必要なのだと思うと兄としてのちっぽけな自尊心も満たされる。
「そんで、咲良町だっけか? 観光地なのか?」
休日に一人読書をしていたことからもわかるように、青年はどちらかと言えばインドア派であり、観光やアクティビティについてはさほど詳しくない。ネズミの国が千葉にあるということは流石に知っているため、咲良町とやらもその辺何だろうということはわかるが具体的なことは何一つ知らなかった。
「知らないわよ。でも観光するところくらいあるでしょ」
「いや、知らないってお前なあ……」
だったら何のために旅行に行くというのか。ネズミの国は初日に行って残りは周辺の観光だと言うなら、日程の半分以上を観光に使うことになる。にも拘らずそもそもそこが観光地であるのかすら知らないなんて、青年にしてみれば意味が分からなかった。
二年ほど前から少女にはこういうよくわからない違和感が付きまとうようになった。いつも考えている間にどうでもよくなってしまうので深く思考したことはないが、青年の常識とは異なるルールの上で動いているような気がしていた。
「そういえばお前」
違和感は意識し始めると途端に目につくもので、見慣れたはずの少女の姿すら何かおかしく思えてくる。
元々平凡な兄と可愛らしい妹であまり似てないとは言われていたが、顔立ちや雰囲気などではない何かが妙だった。
(こいつの髪と瞳の色ってこんな……)
「何よ」
「……? いや、多分気のせいだ」
訝し気に青年を見つめる少女の姿は何度も見て来たもので、結局いつものように気のせいだったかと違和感は消え失せていく。
「ったく、もうボケてんの? しゃきっとしなさいよ」
「ああ、悪い悪い」
「とにかくそういうことだから。プランは任せたわよ」
「はあ!? それも俺が決めんのかよ!?」
驚きで裏返った青年の声に振り向くこともせず、少女は手をひらひらと振って精々あたしを楽しませなさいと言いたげに部屋を出て行った。
「ったく、お子様暴君め」
困ったものだという雰囲気を出そうとしている青年だが、バイト仲間からの了承の返事をみながら呟いたその一言はどこか楽しげだった。




