episode4-5 幸せな夢②
ふと、ちさきが顔を上げると、地平線に沈んでいく太陽の光が目に入る。黄昏時の空は美しい茜色に染まり、一日の終わりが近いことを感じさせる。
家からそれほど離れた位置にあるわけではないが、用事もないためあまり訪れることのない神社。そういえば、七五三の時はここで着物を着て千歳飴を買って貰ったな、と昔のことを思いだす。ほんの数年も前のことのはずなのに、何だか遠い昔のことのようにも感じられ、地元を出たわけでもないのに郷愁にかられるような、不思議な感覚だった。
普段はそれほど人も多くなく、稀に訪れる観光客や、神心深い高齢者が参拝をしている程度の神社だが、今日に限っては随分と多くの人で賑わっていた。家族連れや若いカップル、あるいは学生たちなど、様々な人々がベンチに腰掛けて休憩したり空いたスペースで雑談をしている。
よく見れば彼らの中には浴衣を身に着けた男女もちらほらおり、その手にはたこ焼きや焼きそば、わたあめ等々、様々な食べ物を持っている。家族に連れられた子供の中には、お面や光るおもちゃ、水風船などを持っている者がいて、それらの光景とどこからか聞こえてくる囃子の音から、ちさきは今日が毎年開催されている秋祭りの日であることに思い至った。
実を言うと、ちさきはどうして自分がこの場所にいるのかをハッキリと覚えていなかった。今日がお祭りの日だと言うことも、思い出してみればそう言えばそうだったと納得できるが、つい先ほどまですっかり忘れていたくらいだ。さらに言うと、今日がお祭りの日だと認識するまで、自分が水色の地に白と赤の小さな金魚があしらわれた鮮やかな浴衣を身に着けていることにも意識が向いていなかった。
ただ何となく、この場で誰かを待っている気がしていた。誰かとこの場所で会う約束をしていた気がした。数日にわたって開催されるそのお祭りを、ちさきは毎年日によって家族と一緒に回ったり、友達と一緒に回ったりしているため、こうして神社で誰かを待っているのなら、きっと友達との待ち合わせなんだろうと、そう思ったのだ。
もっとも、友人や家族とお祭りを楽しむにあたって浴衣を着るほど気合を入れたことは今までなかったし、そもそもこんな浴衣を自分は持っていたかという疑問もあったが、しかし実際今こうして身に着けている以上は自分が覚えていなかっただけなのだろうと、そんな疑問はどうでも良いこととしてすぐに頭の隅に追いやられた。
そうしてところどころに違和感を覚えながらも、自己完結して決定的な異変に気付かないまま誰かを待っていたちさきへ、ちさきが想定していたよりも幾分か幼い声がかけられた。
「お待たせしましたちさきさん」
「……良ちゃん?」
「どうしたんですか? 私、何か変なところありますか?」
ちさきの待ち合わせ相手は、魔法少女エレファントとしてこの町を守るちさきの同僚であり友人でもある、タイラントシルフこと水上良一だった。彼女は本来とうに成人をむかえた男性だが、妖精の策略によって幼い少女の姿へと変えられており、対外的には水上良一の娘である水上良ということにして日々生活している。
何故だかはわからないが、ちさきの予想の中には良と待ち合わせをしているというものがなかった。こうして目の前に現れた良を見れば、その声を聞けば、自分が彼女と一緒にお祭りに行く予定だったのだと、そう感じるが、今の今までその選択肢を自然と排除していた。まるでその未来をあり得ないものだと切り捨てていたかのように。
ちさきが良の姿を見て、キョトンとした表情を浮かべてしまったのは、そうした予想外の状況も理由の一つだったが、実を言うと理由の大部分を占めているのはそれではない。
「全然、変じゃないよ。すっごく可愛いと思う」
「えへへ、ありがとうございます! ちさきさんがそう言ってくれるなら、わざわざこんな動きづらいのを着て来た甲斐がありました」
頬をピンク色に染めて嬉しそうにはにかむ良の姿に、ちさきは思わず言葉を失ってしまう。
普段、魔法少女の衣装か、部屋着のダボダボなTシャツか、あるいはちさきが選んであげた服くらいしか着ないはずの良が、今日に限っては自発的にオシャレをしていた。
白地に青緑色の葉っぱ模様の浴衣を着て、長いエメラルドグリーンの髪の毛は編み込んでアップにしており、水玉模様の華やかな鼻緒の下駄を履き、薄桃色の巾着を手にしている。それらはただでさえ可愛らしい良の魅力を存分に引き立てている。
端的に言って、ちさきは見惚れていた。
一番最初に声をかけられた時にも、そのあまりにも可愛らしい少女が本当に自分の待ち人であるのかという一種の期待と不安があった。
そして、自分に褒められただけで嬉しそうに笑顔でそんないじらしいことを言ってくれる良に、ちさきはすっかりやられてしまって声も出せなかった。
世界で一番可愛い女の子が、自分に笑顔を向けてくれている。
一切の誇張なく、ちさきはそう信じて疑わなかった。
「ちさきさんも、とっても浴衣似合ってます。すごく綺麗です」
「う、うん、ありがとう、良ちゃん」
そのいつにない良の積極さに気圧されて、ちさきは思わずたじろいだ。普段は良とより仲良くなるために自分が積極的に距離を詰めようとしているため、こうして逆に良の方から来られると嬉しさもあるが同時に困惑もしてしまう。それは喜ばしい変化のはずだが、何だかしっくりこないともちさきは思う。嬉しくないわけじゃないが、今日が祭りの日であることや、自分がいつの間にか神社にいて、持っていた覚えのない浴衣を着ているのと同様に、どこか違和感を覚えるのだ。
「私、お祭りなんて初めてなので、色々教えてください」
「そう、だね。うん、任せてよ。エスコートしてあげる」
目をキラキラさせながら声を弾ませる良を見て、今は違和感なんかよりも良ちゃんを楽しませてあげることに頭を使うべきだと切り替えて、ちさきは自分の胸を軽く叩きながら良に手を差し出した。
伝統ある地元のお祭りであり、ちさきは幼いころから何度も見て回っているのだ。どこにどんな屋台が出ているか、締めの花火を見るための穴場もしっかり押さえている。少なくとも良が一人でお祭りを見て回るよりは、楽しませてあげられる自信があった。
「ふふ、楽しみです。じゃあ早速行きましょう!」
「え、ちょ、ちょっと、良ちゃん? どうしたの?」
友達同士で手を繋いで歩くなんて今日日小学生でもあまり見かけない光景で、ちさきも本気で良がその手を取ってくれると思って差し出したわけではなく、エスコートするという言葉にかけた一種の冗談だった。子ども扱いしないでくださいなんてちょっと怒られることも想定していたのだが、しかし良の取った行動はちさきの予想を遥かに上回り、何と差し出されたちさきの手に自分の腕を絡ませて恋人がするように腕を組んだのだ。
「何ですか? こんなのいつもしてるじゃないですか」
「え、え? そうだっけ? いつも?」
「もう、どうしちゃったんですかちさきさん。今日なんか変ですよ? 折角のデートなのに……」
「デート!?」
「え……、違うんですか? 恋人同士でお祭りに行くなんて、誰がどう考えてもデートじゃないですか」
「恋人、同士……」
当たり前のようにそう話す良の言葉に、ちさきの理解は追いついていなかった。
いつも腕を組んで歩いている? デート? 恋人同士? 確かに自分は良に恋をしていたが、振られたのではなかったか? 諦めないつもりだったけれど、何か、どうしようもない理由があって、諦めざるを得ないのではなかったか? だが、何となくそうだった気がするだけで、本当にちさきの考えていることが正しいのかは確信が持てなかった。諦めたのだというのなら、その理由は何だったのか? それを思い出すことが出来ない。
「……私、良ちゃんに振られちゃったんじゃなかったけ?」
「あの、大丈夫ですか? 頭を強く打ったりしました? たしかに一度はお断りしましたけど、ちさきさんが諦めないで何度も何度も私に愛を伝えてくれたから、私のちさきさんへの気持ちを恋だと気づかせてくれたから、恋人になったんじゃないですか。もしかして忘れちゃったんですか……?」
「だよね! 冗談だよ! 忘れたわけないでしょそんな大切なこと」
先ほどまでの楽しそうな表情を曇らせて、泣き出しそうな顔で、不安げに声を震わせて尋ねる良に、ちさきの違和感は吹き飛んだ。
自分は何を言ってるのか。なぜ忘れていたのか。良ちゃんに二度と寂しい思いを、悲しい思いをさせないように、良ちゃんが私の気持ちに応えてくれた時、そう誓ったはずなのにと、自分の行いを恥じた。
そうだ、たしかに最初は友情だからと、いつかは元の姿に戻るからと、自分なんてあなたに相応しくないと、そうやっていくつも理由をつけて断られた。だけどそんなの関係ないと、自分の出来る限りの方法で、自分がどれほど良のことを好いているのかを伝えて、そうして良はちさきに恋をしてくれたのだ。自分たちは恋人になったのだ。今日のデートだって、良がどれほど楽しみにしていたか、今ならいくらでも思い出せるのに、どうしてついさっきまで、まるでなかったことのように忘れていたのか。
「そんな冗談、言わないでください……」
「ごめん、本当にごめんね良ちゃん。もう二度と言わないよ」
「もう、約束ですからね! ほら、行きますよ!」
「わ、そんなに急がなくてもお祭りは逃げないよ」
捨てられた子犬のように憐憫を誘う表情で呟く良に、ちさきは心の底から何度も謝って許しを請う。よほど腹に据えかねたのか、それでもぷくっと頬を膨らませて見るからに怒っていますとアピールする良だったが、目の前のお祭りの魅力には抗えなかったのか、ひとしきり文句を言い終わると待ちきれないと言わんばかりにちさきの手を引いて歩き出した。
最愛の恋人から許しを得てホッと一安心していたちさきは、屋台の並んだ人込みに踏み入っていく良に手を引かれながら、これじゃあどっちがエスコートしてるんだかわからないな、と内心で苦笑するのだった。




