File:085 第三者
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「はぁっ……はぁっ……!」
前崎は、喉の奥で焼けつくような息を吐き出しながら、森の斜面を駆けた。
木々の間を縫うように走る身体に、神経外骨格の制御アシストが鋭く働く。
だが、補助の限界は近い。
着地のたびに骨伝導のように響く振動が、少しずつ膝や足首を蝕んでいた。
時間を見る暇はなかった。
だが体感ではとっくに一時間を経過していた。
それでも――背後のヤツが追いついてこないのは、僥倖だった。
それは簡単に言えば舐めていたからだ。
確実に追い詰めて殺す。
狩人が獲物を嬲る時の動きだ。
だがあまりに逃げていたせいか、徐々に攻め手を増やしてきた。
後方から、連続する銃声。
ケンが怒りを込めたまま、苛立ち紛れに引き金を引いているのが分かる。
そして見せつけるかのように刀で木を切り倒しながら進んでいた。
「絶対に……絶対に、いるはずだ……っ」
前崎の声が、森の奥で木霊する。
焦りと執着、そしてどこか壊れたような響き。
それは願望に近かったが確信があった。
自分の汗が目に入り、景色が滲むのを感じた。
季節は9月末。
いくら北海道とはいえまだ暑い。
神経外骨格を着ているのであればなおさらだ。
蒸し返すような熱気の中で、森の空気すら重く感じられる。
最後に水を飲んだのはいつだったか。
記憶が曖昧だ。
――頭が痛い。
胃が捩れる。
吐き気がこみ上げる。
坂上の言葉を信じるのであれば2日拘束されていたらしい。
いくら超人といわれる前崎にも人間としての限界はある。
今がその限界だ。
視界が上下に揺れ、地面がぐにゃりと歪む。
そして、前崎の身体は傾き、前のめりに崩れ落ちた。
岩か枝か――どこかで擦ったらしく、腕から血が滲んでいた。
皮膚が焼けるように熱い。
頭もどこかにぶつけてしまったようだ。
ガンガンする。
そのとき。
「……一時間か。ようやく、追い詰めました」
自分のすぐ近く。ケンが追いついた。
もうケンだったものといった方がいいかもしれないが。
相変わらず不安定な言葉遣いだ。
木々を押し分け、汗を滲ませはいるが、呼吸が期待するほど大して乱れていない。
だが、目はまだ鋭く、銃口は迷いなくこちらを捉えていた。
前崎は神経外骨格の表示を見る。
エネルギー残量は――あと1%。
“60秒”分の力。
それが生き延びるために残された、すべてだった。
ケンを睨み返す。
対するケンもまた、肩で息をしながらも、その表情には勝者としての余裕があった。
「何が目的の……時間稼ぎだ?無駄なあがきを。
我々解放軍を舐めるなよ」
ゆっくりと、だが確実に距離を詰めてくる。
「ここには誰も来ない。助けは来なかったな」
銃口が前崎の額を狙う。
眼下に伏した前崎の姿は、まさに“敗者”だった。
泥と血と樹液にまみれ、服は裂け、身体は地面に這いつくばっている。
もはや立つこともできず、膝は震え、腕は動かない。
無様。惨め。哀れ。
まるで芋虫だ。
ケンの胸に、ふと込み上げるものがあった。
それは侮蔑だった。
(……所詮、日本人はこういう扱いでいい。
南京事件を忘れた国民には丁度いい)
それが自分の思考だとは思いたくなかった。
だがどこか、意識の底に染みついた感情だった。
――かつての誰かの残滓かもしれない。
いや、殺してしまえ。
そうやって中国は広がってきた。
その考えが自分の考えを確かなものとする。
ここまで来れば油断はしない。
瀕死の敵を侮って死んだ者を、これまで幾人も見てきた。
この距離であれば奴に不意を打たれたとしても反応できる。
ゆえに、しっかりと銃を構え、しっかりと狙う。
それはアサルトライフル。
丁寧にスコープまで付いていた。
メリケンサックを振り回す普段のケンでは考えられない装備だ。
前崎はスコープ越しに、ケンの目を見ていた。
逸らさない。
微塵も怯えずに、真っ直ぐこちらを射抜いていた。
その視線に、ケンは一瞬だけ――わずかに敬意を覚えた。
「……兵士としては認める。だが、終わりだ」
指が、トリガーにかかる。
その刹那――。
木々の隙間から、何かが蠢いた。
気配。音。風の流れ。
「ゴガァァァァァ!!」
地の底から響くような咆哮が、森の静寂を切り裂いた。
背後から吹き付ける獣臭と、湿った気配。
ケンは条件反射で振り返る。
そこには、信じがたいものがいた。
熊――いや、まるで鎧を纏った怪物のように巨大なそれが、ケンの背後に迫っていた。
「なっ――!?」
反応する間もなく、巨大な前脚が神経外骨格の背面に叩きつけられる。
爆発的な衝撃。骨が軋み、視界が跳ね、意識が遠のく。
――ドォン!
ケンの体が地面を転がり、木の幹に叩きつけられる。
追撃。
熊の牙が鉄のように閉じ、神経外骨格の胸部をメキメキと音を立てて食い破っていく。
鋼鉄を噛み砕くような顎の力。
防御力など、まるで意味をなさなかった。
(……なぜ、俺にだけ……!?)
混乱と痛みの中、ケンは腰の銃を掴み、反射的に熊の頭部へと銃口を向けた。
至近距離。
躊躇はない。
「うぉおおおおおお!!」
引き金を引く。
閃光と共に、数発の弾丸が熊の頭部を貫いた。
低い唸り声を残し、熊はその巨体を支えきれず前のめりに倒れ込んでくる。
――ズシンッ!!
重さ、約300キロ。
その質量が、無防備なケンの身体を押し潰すようにのしかかる。
強化外骨格がなければ即死だった。
だが今も、動きは封じられた。
「くそっ!体が!!」
動き出そうとするも完全に顔以外が潰されている。
いや、幸いにも右手の銃を持っている手は無事だ。
しかし片腕だけではこの巨体はどうしようもない。
強化外骨格はある程度の加速がなければ力を発揮しない。
「……正直、ここまでうまくいくとは思ってなかった」
土と血の匂いに満ちた空間に、死力を尽くした男の声が聞こえた。
振り向くことすら叶わず、ケンの視界に映ったのは――イチジクを噛みしめながら現れた前崎の姿だった。
シャツは破れ、全身に泥と樹液、果汁を塗りたくったような異様な姿。
顔には余裕がなく、傍にあった枝を支えにしていた。
「環境利用と第三者介入。これしか勝ち筋がなかった」
淡々と、彼は言う。
片手にはまだ銃を持っていた。
だが、わざわざ構えることもなく、その銃はケンの視界外へと投げ捨てられた。
代わりに、足。
泥と血にまみれた靴が、右手に持ったケンの銃を払いのけるように蹴り飛ばした。
「……じゃあな」
その一言とともに、前崎が踵を上げる。
視界の隅――
彼の背後から、よちよちと歩み寄ってくる小さな影があった。
子熊。
母親を失い、まだ状況も分からず、必死に鼻先で彼女の身体を揺さぶっている。
ケンの脳内に電流のように走る思考。
(全部……こいつの掌の上……だったのか)
熊の嗅覚を逆用し、自分にだけ攻撃が向かうよう“誘導”していた――
前崎が塗りたくった果実と汗の匂い。
そして森のどこかで探し出したであろう、この母子熊。
計算か、狂気か。
どちらでも、勝利には変わりない。
ケンの顔に、笑みが浮かぶ。
(……さすが、前崎様ですね)
目を閉じる。
その直後。
「――さよならだ、ケン」
ゴキリ。
音がした。
前崎の足が、容赦なくケンの頭部を踏み砕いた。
沈黙。
森は、再び音を失った。




