File:098 World Schooler
2057年。
僕とアナは既存の「学校」という枠組みから解き放たれた世代だった。
僕らが所属していたのは World Schooler:ワールド・スクーラーと呼ばれるものだ。
それはただの「留学」や「フリースクール」とは違った。
国境や学校制度に縛られず、世界そのものを教室とする教育モデル。
2050年代に国連と複数の教育NPOが連携して始めた制度で、今や先進国の子どもたちの約3割が参加しているといわれていた。
授業の基盤はVRとAIによるオンライン学習で補完される。
だが本質は「体験」にある。
歴史を学ぶならアテネのパルテノン神殿に立ち、宗教を学ぶならエルサレムで祈りの場を見て、物理を学ぶならスイスのCERNで加速器を肌で感じる。
場所そのものが教科書となる時代。
僕らはまさにその真っ只中にいた。
この制度の最大の強みは二つあった。
ひとつは、多感な時期に多様な価値観に直接触れられること。
同世代でも、国籍も宗教も家庭環境も違う仲間と共に学び遊ぶことで、差別や偏見が育ちにくかった。
もうひとつは、「固定の集団」が存在しないためにいじめがほぼ起こらなかったこと。
移動しながら学ぶ仕組み上、加害も被害も長く固定化しない。
同じ人とずっと一緒に閉じ込められる従来型の学校とは、根本的に構造が異なっていたのだ。
もちろん全員が自由を謳歌できたわけではない。
多くの家庭では依然として「国立学校」や「受験」にこだわり、ワールド・スクーラーを選ぶのは、才能を武器にできる一部の子どもたちだった。
僕の場合はピアノ。
ジュニア・コンクールで結果を残し、韓国政府から兵役免除の特例を勝ち取ったことで、ようやく参加を認められた。
兵役を免れることは、音楽家にとって命を守ることと同義だった。
鍵盤を叩く指は銃を持つためにあるのではない。
だからこそ、この制度に入れた瞬間——僕は人生がようやく自分のものになったと感じた。
アナもまたそうだった。
彼女はロシアとウクライナの血を引き、祖国の戦争によって「スパイ」と疑われ続けた少女。
その差別から逃れるようにしてワールド・スクーラーに参加し、音楽を誇りとして生きていた。
やがて僕らは同じ学び舎の仲間となり、世界を旅しながら共に学び、音楽を重ねるようになった。
アナは歌に惹かれ、僕は彼女のためにオルガン、チェンバロ、シンセサイザーと「鍵盤」を広く学んだ。
どんな大陸にいようとも、彼女が声を放つとき、僕は必ずその音を支える伴奏者となった。
——二人は「黄金のコンビ」と呼ばれるようになった。
大会が終わってからの世界を巡る一年。
ウィーンでバッハを弾き、カイロでアラビア音楽を学び、ニューヨークでジャズを吸収した。
そのどれもが、彼女とだからこそ輝いた。
やがて拠点を「日本」に置くことになった。
当時の日本は、世界的に「最後の安全国家」と呼ばれていた。
人口は八千万を割り込み、少子高齢化は極限に達していた。
それでも街は驚くほど整然としていた。
AI監視カメラとロボット警備が隅々まで行き渡り、軽犯罪すらほとんど存在しない。
僕は衝撃を受けた。
幼い子どもが一人で電車に乗り、夜に女性が一人で出歩く。
道端で酔いつぶれた人間がいても、財布を盗まれることすらない。
他国から見れば、まるで夢物語のような光景だった。
両親も、アナの父も、口をそろえて言った。
「日本人になりたい」
理由は単純——「これほど安全な国はない」からだ。
しかしその一方で、日本の教育は時代遅れだった。
依然として「偏差値」「詰め込み」「一斉授業」という旧世紀のシステムが温存されており、
生徒は「画一化された競争」の中で消耗していた。
いじめや不登校は形を変えて続き、教師も疲弊し、社会全体も「教育改革」という言葉だけを空回りさせていた。
だが、僕とアナは違った。
僕らはすでに World Schooler の一員であり、その毒牙にかかることはなかった。
国境を越え、世界を旅し、知識を「体験」として吸収する。
その自由と多様性は、日本の教育に囚われた子どもたちには想像もできないものだった。
アナの母はすでに日本で働いており、僕らに拠点を与えてくれた。
それは古い教会を改築した小さな音楽堂。
会社が持て余していた建物だったらしいが、ステンドグラスの光が鍵盤を照らし、パイプオルガンが天井を飾るその空間は、どんなホールにも劣らぬ響きを持っていた。
僕らはそこで練習を重ね、時に社員を招いて小さな無料コンサートを開いた。
ソウのピアノと、アナの歌声。
それは日本の観客にとって新鮮で、自由で、枠を超えた「奇跡の調和」として受け止められた。
「また聴きたい」
「次はいつやるの?」
そう声をかけられるたびに、僕らは音楽の力を信じ直すことができた。
——2058年の日本。
その「安全神話」の裏にある教育の遅れに気づきながらも、
僕らはその外にいるからこそ、かけがえのない幸福を掴んでいた。
2058年の日本は「安全神話」の裏で変化していた。
学校制度は崩れつつあり、多くの子ども(少なくとも金持ちの子)はWorld Schoolerに流入していた。
AI教師と少人数のメンターが中心の学び。
だが「多様性」と「世界体験」において、日本はまだ遅れていた。
だからこそ僕らは歓迎された。
外から来たアジア人とヨーロッパ系の少女が、自由に音楽を奏でる姿。
それは日本の子どもたちにとって「こんな学び方があるんだ」と衝撃を与えた。
思い返せば、このときが僕らの「幸福の最大値」だった。
兵役の呪いから解かれ、祖国の疑いから解放され、ただ音楽をすることに没頭できる日々。
朝は音楽堂で練習し、昼は街で人々の暮らしを観察し、夜は小さな演奏会を開く。
拍手が鳴り響くたびに、僕らは「ここにいていい」と実感した。
アナは時に言った。
「ねえソウ、今なら信じられるわ。音楽って生きていく世界を変えられるって。」
僕は答えた。
「そうだね。僕にとっては、アナと出会えたことが音楽だよ。」
そんな甘酸っぱい青春の時代だった。
——その一年は、まさしく黄金の季節だった。
だが同時に、後に続く嵐の前の静けさでもあった。
僕らが「レジスタンス」に身を投じることになる、その前の。
ちなみにWorld SchoolerのモデルのWorldschoolingは現在でも本当にある教育方法です。
機関といった方がいいのでしょうか?
詳しくは『The Everywhere Classroom』『FIRE』という本をよろしければ読んでみてください。




