File:008 シュウの過去
シュウがアダルトレジスタンスに加入したのは、3年前だった。
当時、彼はまだ中学1年生だった。
シングルマザーに育てられ、家は貧しかった。それでも、シュウは不幸だと思ったことはない。
――夢を掴む可能性が、まだ目の前にあったからだ。
彼の夢は野球選手だった。
甲子園に出て、プロになり、メジャーに行き、本塁打王と投手でMVPを獲る。そんな無茶な夢を、本気で信じていた。
憧れの選手は「60本塁打、60盗塁、60奪三振」を達成した伝説の二刀流プレイヤー。その人とキャッチボールをするのが、子どもの頃からの夢だった。
シュウは1年生にしてレギュラーを勝ち取り、誰よりも練習に明け暮れた。
だが――その努力は、生まれという、どうしようもない“壁”に潰された。
◆
ある日の試合前。
「お前は今日、ベンチだ」
「……えっ?」
突然告げられた“ベンチ行き”。理由は告げられない。
自分の出番を温存してくれているのかと思った。強豪校ならではの采配だろうと。
だが、次の日も、次の日も――自分に出番が回ってくることはなかった。
我慢できず、監督に詰め寄った。
「監督ッ! 俺は誰よりも練習してるし、打率も一番いい。守備も送球もトップクラス、足も速い。これはデータが示しています!
なんで俺を使ってくれないんですか!」
「……」
しばらく沈黙した監督は、絞り出すように言った。
「野球はな、個人でやるスポーツじゃない。周りを見ろ。それができたら使ってやる」
シュウは、その言葉を信じた。
周りを見て、掃除も片付けも率先してやり、声も出した。
そして、ようやく回ってきた出番――
9回裏、代打で逆転サヨナラの三塁打。
最高の瞬間だった。
ホームベースを踏みしめた時、歓声が上がると信じていた。
だが。
誰一人として、シュウと目を合わせなかった。
何より、母親がそれを“見てしまった”ことが、何よりも屈辱だった。
◆
「……何がダメだったんだろう」
水道で髪を濡らしながら考える。
(監督が言ってた“周りを見ろ”って、どういう意味だったんだ?)
その時だった。
「……おい、お前」
振り向くと、6人の先輩たちが取り囲むように座っていた。
「お前、空気読めよ?」
「……意味が分かんねぇっす。わざと負けろってことすか?」
「違ぇよ。未来のないやつが、いっちょ前に努力すんなって言ってんだよ」
頭がズキズキと痛む。
「……未来がない、ってどういう意味だよ?」
「知らねぇのかよ。甲子園に出るには、金がかかる。貧乏人が野球やっても意味ねぇんだよ」
「バカかお前。奨学金とか、人に借りるとか、方法はいくらでもあるだろ」
その言葉に、先輩たちは腹を抱えて笑った。
「笑わせんなよ。学費すらカツカツの家庭が、何言ってんだか」
その時、シュウは近くのバットを手に取り、怒りのままに振り抜いた。
……が、空を切った。
「お、お前、何してんだよ!」
「未来がねぇなら、テメェらの未来潰してやんよ!」
先輩たちは慌てて逃げて行った。
だが、心の奥は、ズタズタだった。
「……結果がすべてじゃねぇのかよ」
◆
帰宅すると、母親が心配そうに顔を上げた。
「……部活、うまくいってないの?」
シュウは靴を脱ぐ手を止め、わざと軽い口調で返す。
「まぁな。浮いてるっつーか、俺だけズレてんのかも」
「何かあったの?」
「……目立ちすぎたんだよ。母さんのせいじゃないから、気にすんな」
母親は静かにシュウを見つめた。責めるわけでも、慰めるわけでもなく、ただ心配そうに。
その視線が、シュウにはこたえた。
「……監督に言われたんだ。“周りを見ろ”って。でも、正直、何が言いたいのか分かんねぇ」
ポツリとこぼす。
「俺なりに考えて、掃除も道具の片付けもしたし、声だって誰より出した。それでも、なんか違うらしい」
母親は少し考えた後、言葉を選ぶように口を開いた。
「……あんた、一人で頑張りすぎてるのかもね。周りと比べてじゃなく、“一緒に”って意味かもしれない」
「そっか…もうちょっとだけ考えてみる」
俺にも何か至らない所があったかもしれない。
明日先輩たちに謝ろう。
そう思っていた。
だが翌日。
先輩の母親が学校に怒鳴り込んできた。
呼び出されたのは、シュウ一人。
監督室の扉を開けると、先輩の母親が椅子にふんぞり返っていた。隣に、当の先輩本人が座っている。
「私の息子を、バットで殴ろうとしたのは、あなた?」
睨みつけるその目は、勝者の余裕に満ちている。
シュウは黙って立っていた。
「答えなさいッ!」
机をバンッと叩く。音が室内に鋭く響いた。
「……そうですけど。先に喧嘩ふっかけたのは、そいつですよ?」
先輩は俯いたまま、何も言わない。
「口の利き方がなってないわね。貧しいと、そうなるのかしら」
胸の奥が煮えたぎる。拳が震えた。
監督が、わずかに目配せする。「抑えろ」と。
「監督、私がいくら寄付してるか、忘れてないわよね?」
シュウは耳を疑った。
「金積んでるんだから、スタメンの座ぐらい譲りなさいよ」
「……何言ってんだよ。金でレギュラー買ってんのかよ。監督、それ、マジか?」
監督は顔を伏せたままだった。
「何が悪いの?受け取ったのは、彼よ?」
胸糞悪い笑みだった。
シュウは鼻で笑った。
「下手くそなくせに。ピンチ作るわ、打てねぇわ、それでもレギュラー。恥ずかしいっすね」
先輩の母親が、カッと目を見開く。
「うちの子が活躍できれば、それでいいのよ。だいたい野球なんて“お遊び”でしょ? 本気になってムキになる方が、どうかしてるわ」
先輩の母親は、さも当然と言わんばかりに胸を張った。
「部活はね、“教育の一環”なの。子どもに成功体験を与えて、自己肯定感を育む場所よ? 負け癖がついたら困るでしょう?」
「うちの子はね、小さい頃から“ちやほや”されて育ったの。みんな、そうしてあげるものじゃないの? わかる?」
まくし立てながら、鼻で笑い、シュウを蔑む視線で見下ろす。
「それに比べて、あなたは何? 親の顔が見てみたいわ。……あ、理恵子さんだったわね。私の夫の会社で、庶務か何かやってるのよね?」
ニヤリ、と笑うその顔は、獲物をいたぶる肉食獣のようだった。
隣の先輩は、ただ俯いて小さくなっている。母親の暴走を止めることもできず、情けなく目を泳がせるばかりだ。
「私の夫の会社で、庶務か何かやってるのよね? 理恵子さんって。……ああ、可哀想に。息子が問題児だと、お母さんも大変ね」
先輩の母親は、心底哀れむような顔を作っていた。
だが、その奥にあるのは優越感と嘲笑だけだった。
「だから、分かるわよね? スタメンの座ぐらい、譲って当然でしょう? あなたみたいな子が、頑張ってどうするの?」
監督は俯いたまま、何も言わない。
隣の先輩は視線を泳がせ、ただ小さくなっている。
シュウは一度、目を閉じ、息を吐いた。
「……野球って、そういうもんでしたっけ?」
静かに呟く。
「実力があっても、金がなきゃ試合に出れない。
下手でも、金さえ積めばレギュラーになれる。
……それ、本当に“スポーツ”なんすか?」
一拍置いて、目を細める。
「……遊びなら、遊びでいいんですよ。
でも、それに“本気で向き合ってる人間”の場所を、金で奪うのは違うでしょ」
抑えた声だが、その芯は揺るがない。
「俺は、ただ野球がやりたかっただけです。
勝ちたかった。
それだけなのに、なんで金の話になるんすか」
静かな言葉に、誰も返せなかった。
「……わかんねぇかなぁ」
そう呟いて、シュウはゆっくりと立ち上がった。
「ま、いいっすけど。
これ以上、話しても平行線っすね」
先輩の母親が何か言いかけたが、シュウはそれを遮るように監督にだけ一言。
「監督。俺、間違ってますか?」
監督は、俯いたまま答えなかった。
「……ですよね」
シュウはそれ以上言わず、ドアに向かう。
「このチームにいて恥ずかしいっす」
最後にそう吐き捨てた。もはやどうでもいい。
「帰ります」
淡々と、でも確かな言葉でそう告げた。
◆
「俺、野球やめるわ」
家に帰り、母親に告げた。
「なんで?あんなに頑張ってたじゃない」
「金でスタメン買えるらしい。頑張る意味がねぇ」
「そんなこと……」
「母さんのことも脅された。会社で母さんがどうなっても知らねぇぞって」
母は、何も言えなかった。
そこからあまり覚えていない。
怒っていたのか泣いていたのか。
ただ最後に聞いた一言は覚えている。
「どんなことがあっても、一度決めたことは、やり遂げなさい」
その言葉に背中を押され、シュウは意地でも野球を続けた。
そしてどんどん上手くなって行き、なぜ俺を使わないのかと
メンバー内で疑問視されるようになっていった。
それと反比例して先輩はなんであんなやつがレギュラーなの?疎ましく思われるようになっていった。
チームと穴となる先輩を見て自分が誇らしくなった。
そうだ。努力は裏切らない。
神様は見ていてくれる。
努力は神様に捧げる舞のようなものなんだって。
だからどんな逆境だって俺は乗り越えて見せる。
そんなことを思っていた。
夏を過ぎたころ。
母が死んだ。
酔った客先と上司に飲まされ、弄ばれた挙句、路上に放置されたらしい。
性行為の痕跡はあったが、「合意の上でホテルに入っていた」と証言され、
母親の死は薬物による“事故”として処理された。
使われた薬物は、当時はまだ違法指定されておらず、
相手を罪に問うことはできなかった。
訴えたくても、裁判を起こす金などない。
方法すら知らなかった。
奴らは今日もSNSで笑顔でいた。
その一件を境に、シュウは学校を去った。
グローブとバットを海に投げ捨てた。
人生なんて、クソだ。
神様がいるなら、なぜ俺ばかり不幸になる。
怒りに任せ、学校で暴れた。
窓ガラスを割り、車を叩き壊し、監督をバットで殴り、先輩の金玉を潰した。
「やることはやった。もう、死ぬだけだ」
そう思い、海に向かって歩いた。
◆
「……やめときな。ダサいぜ、自殺は」
声をかけたのは、ガタイのいい少年だった。
「話ぐらい、聞いてやるよ」
その言葉に、シュウはこらえきれず、膝をついて泣いた。
少年は「ジュウシロウ」と名乗った。
「俺は貧民街出身。国籍もなけりゃ、名前すらねぇ。親は強制送還されて殺された」
そう淡々と語るジュウシロウは、この国の腐った構造を教えてくれた。
「金が全てを支配する。貧乏人は、絶対に這い上がれない。だから、俺は3年後にこの国をぶっ潰す」
信じられないような話ばかりだったが、不思議と嘘だとは思えなかった。
(……この人には、一生敵わねぇ)
「俺にも、何かできることはないか?」
「判断が早ぇな。もっと悩んでもいいんだぞ?」
「……俺には、居場所がねぇから」
「そうか。なら仕方ねぇな」
ジュウシロウは、俺の手を握った。
「ようこそ、アダルトレジスタンスへ」
その日、俺は“名前”を捨てた。
“ジュウシロウに必要とされる人間になる”――
つまり右腕になる。そういう覚悟の元、ジュウシロウの文字の一部から名を貰い
“シュウ”になった。
そして、今。
彼は黒の隊の副リーダーにまで、上り詰めた。
かつて捨てた俺の名前は、いまも“行方不明”のままだ。




