08 薬師の毒
軍医ジラウド・シャリエに言われるまでもなく分かっていた。今は戦時中で、ここは前線なのだから。
にらみ合いの続いていたブロンデル前線だが、今、戦いが始まろうとしている。
誰もが走り回り、天幕の外はひどく騒がしい。寒いはずの季節なのに、外は熱気を感じるほど。ストーブの火を付けている薬剤室の方が寒いくらいだ。
そんな薬剤室で、エレインとロザリーはひたすら銃に込める薬莢を作り続けていた。
銃とは、前世のエレインが死んでから百年ほど後に発明された魔法具だ。
筒状の器具の中に薬莢を装填し、引き金を引いて魔法回路を繋げると、銃に込められた魔力が弾けて薬莢が飛び出る仕組みになっている。
あらかじめ銃に魔力を込めてさえおけば、魔力のない人間でも簡単に扱える魔法具として、今や世界中に広まっていた。
扱える弾の種類が多いことも、銃が広まった要因の一つだった。純粋な殺生を目的とした鉛製のものもあれば、特殊な魔法紙に包むことで様々な効果を期待できるものまで。
例えば、魔法紙の中に猛毒を仕込むことで、たった一発で何人も殺せる――鉛玉よりよほど恐ろしい薬莢も作ることができる。
(私が死んでいる間に恐ろしい道具が発明されたものだわ)
エレインは今、命令により毒薬の薬莢を作っているのだった。
*
「毒薬がほしいんだ。作れるね?」
「はい。どのような毒をお望みでしょうか?」
あの日、唐突に薬剤室にやってきた司令エミリアーノはエレインに命じた。
「用意できる素材にもよるだろうから、細かいことは任せるよ。私の要望は一つ、敵の動きを止めるもの。鈍らせるだけでもいい。彼らがブロンデルの土を一歩でも踏まないように」
エミリアーノの傍らには、軍医ジラウドがいた。ジラウドはいつになく固い表情でエレインを睨み付けている。
(とうとう始まるのね)
そう思ったのと同時に、エレインは瞬時に薬草の在庫を思い返し、作れる毒を導き出していた。
「承知いたしました。魔法紙はありますか? 銃の口径を教えていただき、魔法紙をご用意くだされば、薬莢の形でお渡しできます」
「助かるよ。すぐに用意させる」
話が終わったのか、エミリアーノが椅子から立ち上がる。手が胃を押さえているのを見て、エレインは耳打ちした。
「胃薬は足りていますか? 追加でご用意いたしましょうか」
「いや、いいよ。ありがとう」
そう言って微笑むエミリアーノの顔色は悪い。
「毒を作れと命じたボクが、薬を飲むわけにはいかない」
エレインは返す言葉を見つけられないまま、エミリアーノの丸い背中を見送った。
ジラウドだけがなぜか薬剤室に残っている。まだ何か、の意味を込めた視線を向けると、軍医は尊大に腕を組み言った。
「もうすぐ戦いが始まる。敵国に進軍の動きがあったと斥候から報告があった。武装もしていると」
「はい」
「来るならば迎え撃つ。しかし、無事でいられる保証はない」
ジラウドの声は、エレインだけに聞こえるように小さく落とされたものになる。
無事でいられる保証はないなど、副司令を兼ねている人間が言っていいことではない。本人にもそれは分かっているのだろう。苦々しい顔をしている。
「だから、もうこれ以上は駄目だ。君はすぐにここから立ち去れ」
「お断りします」
想像していた通り、ジラウドの主張はいつもと変わらなかった。
薬を作り、人を癒やすだけが軍属薬師の仕事ではない。命じられれば人を殺す毒も作らなければいけないのだ。そして、相手に同じことをされる覚悟もしておかなければならない。
あらかじめオルガにも言われていた。それでも行くのかと。
悩まなかったわけではないが、エレインの決意が揺るぐことはない。
「さっそく調合を開始します。劇物を取り扱いますので、退出願います」
「……マニエル少尉はどうした」
ジラウドが天幕内を見回す。
「マニエル少尉は訓練に参加しています」
「……ならなおのこと、俺がここにいる。万が一にも君が毒に倒れないようにな」
「薬師がそんなことはにはなりません」
どうだか。小さく呟いて、ジラウドは患者用の椅子に腰を下ろした。
「…………」
ジラウドは大きい。背が高いし、軍医とはいえ経歴的によく鍛えていたからか、服の上からでも分かるほど筋肉質だ。ついでに言えば、繊細な外科手術などできるのかと首をかしげたくなるほど手も大きい。
そんな男が薬剤室に陣取っていると威圧感が凄まじいが、エレインは努めて無視して作業を始めた。
まずは乾燥させた薬草を数種類、薬研ですりつぶして粉にする。そよ風でも飛んでしまいそうなほど細かくなったら器に移して、しっかり封をしておく。
次に、エレインは厚手の革手袋を装着し、駐屯地の出入り口へと向かった。
ジラウドもいぶかしげにしながら黙って後をついてくる。
出入り口の守衛はジラウドの顔を見ただけで門を開けた。
軍医兼副司令ともなれば、敬礼に対し答礼を返すだけで出入り自由らしい。
(こればかりはついてきてくれて感謝ね)
エレインや一般兵が駐屯地を巡る柵の外に出る場合、出入り表の記入に始まり用件の口頭確認など、ちょっとした手続きが必要になるのだ。
身体検査や持ち物検査もある上に、女性兵士が守衛の任に就いていない場合は身体検査がはばかられるため出入りが許可されないこともある。
必要な手続きだと分かっていても、面倒くさいのである。
「どこまで行くつもりだ?」
「すぐそこです」
目的地は目と鼻の先にある浅い森だ。
適当に歩き、日陰のジメジメしたところで目をこらしていると、すぐに目的のものを見つけた。
革手袋を装着した手を素早く突き出し、逃げられる前に捕まえる。
「ふっふっふ。マダラメドクガエルちゃん、よろしくね」
革手袋に覆われたエレインの手の中で暴れるのは、茶色い身体に黒い模様が目のように見えなくもないカエルだ。
見た目が地味で、分布域も広いこのカエルだが、その名の通り毒蛙である。
マダラメドクガエルはゲコゲコともがきながら、したたるほどに半透明の分泌液を出し始めた。この分泌液こそ、このカエルがもつ毒だ。
「よしよし」
「…………」
大人の拳ほども大きく毒性のあるヌメヌメを出すマダラメドクガエルを、エレインは真顔で見つめている。
背後から何度か息を呑むような音が聞こえたのは、真顔で無視しておいた。
下に置いた器にある程度の分泌液が溜まればマダラメドクガエルを解放する。
数匹のマダラメドクガエルで同じことを繰り返し、十分な量を確保すると、エレインは器を持って薬剤室に戻った。
用意しておいた粉末の薬草と分泌液を混ぜ合わせる。
団子状にまとまるようになったら平べったく伸ばし、火を使って乾燥させていく。
これを再び粉末状にすりつぶしたら毒薬の完成だ。
魔法紙に包めば薬莢になるのだが、その前に効果の確認をしなければならない。
ほんのわずかな量の毒をとりわけ、残りはしっかり蓋をして、エレインはもう一度外に出た。天幕の裏に回り、人がいないことと風向きを確認する。
「それ以上は近づかないでください」
例によってついてきたジラウドを制すと、男は大人しく足を止めた。
持ってきた少量の毒をまき散らす。その瞬間、エレインの目にピリッとした刺激が走った。
「うあっ!」
「っ、どうした!」
「実験……成功……」
「じ、実験……?」
「かっ」
「自分で実験をしたのか? なんて馬鹿な真似を……君は……馬鹿なのか?」
「かっ、かゆいっ!」
「は?」
「かゆいかゆいかゆいっ! 目がっ!」
ほんの少し空中に撒いただけでこの威力。毒薬作りは大成功と言えよう。
いや、少しばかり、成功すぎる気もする。
「目も鼻も……か、かっ、顔っ、首までかゆいいぃ」
「なんて馬鹿なんだ……。ほら、井戸で顔を洗えば少しは」
「私に触らないで!」
「っ!」
かゆみにもだえるエレインは、上官に向かって強い言い方をしてしまった。
近寄ろうとするジラウドから決死の思いで背を向ける。その瞬間、ジラウドが身体を硬くしたように見えた。
「すみません、近づいたら、移るので……っ。毒薬作りは、これで、終わりです。しばらくしたら治まりますので……そろそろ医務室へお戻りください」
「……戻らない。言っただろう。万が一にも薬師が毒に倒れないように見ていると」
「お言葉ですが、これは計画的なものです。念のため、うぅ、解毒薬も用意してありますし……」
「解毒薬? どこにある。取ってくるから、君はここでじっとしていろ」
エレインは目を瞬かせた。そのたびに涙がボタボタと地面に落ちる。
別に悲しくて泣いているわけではないのだが、ジラウドの声は焦ったような、優しいものに変わっていく。
「ほら、言ってみろ。解毒薬はどこだ」
「先ほどの机の、一番上の引き出しです」
「分かった。他に必要なものは?」
「で、できれば、濡れた布も……」
「水でいいのか? お湯の方が?」
「水で。水でお願いします」
「すぐに戻る。大人しくしていろよ。分かっているとは思うが、目はこするな」
エレインが大人しく頷くと、ジラウドは背を向け医務室に走った。
(さすがは医療従事者)
いくらエレイン相手でも、身体の具合がおかしい者に対して不安にさせるような話し方はしない。
きっと元々が優しい人なのだ、と思う。前世の夫も、ジラウドも。そんな夫に報復させてしまうほどのことをエレインはした――したように、仕組まれたのだ。
(一体、誰が)
生まれ変わってから何度同じことを考えたか分からない。
毒の種類。夫だけに飲ませた方法。犯人と、その目的。
(どうしても分からない……)
服の上からロケットペンダントを握る。細い鎖が小さな音を立てるのと同時に、ジラウドが戻ってきた。
冷たい布で顔を拭い、軟膏状の解毒薬を顔や首に塗りたくる。それをまた濡れた布の綺麗な面で拭き取ると、エレインを襲っていたかゆみはほとんど落ち着いた。
「ふう。ありがとうございました」
「それで、あれが毒薬だって?」
「はい。着弾と同時に猛烈なかゆみに襲われるかゆみ弾です」
「かゆみ弾……」
ジラウドの声は呆れを含んでいる。それに気付いたエレインは、さらに続けた。
「殺傷能力のある毒をブロンデルのような開けた地形で使うのは危険だと判断しました。風向きによっては味方側にも飛んできます。それに」
「それに?」
「もし森や川が汚染されたらこちらもただでは済みませんから。せっかく作った畑もだめになります」
「しかしな……」
ジラウドの固い声音に、エレインは再びロケットペンダントを握りしめた。
(やっぱり、ちゃんと毒らしい毒を作らないとだめだった?)
エレイン薬師だ。薬は毒でもある。だから、命じられたら毒薬だって作れる。
けれど、作るならなるべく苦しまないものにしたかった。
(希望して軍に属している以上、こんな考えでは良くないって分かってる。でも)
エレインが毒を扱うのは自分が死なないため。そして誰も死なせないため。
かつての夫が苦しんだような毒は、絶対に使いたくないし、使わせたくもない。
これが、薬師になったエレインにできることだった。
「粉末状だと少し、危険すぎないか?」
「え……危険すぎ?」
しかしジラウドは、エレインが想像していたようなことは言わなかった。
「これだって風向きによってはこちらに飛んでくることもあるだろう」
「あ、そうですよね。じゃあ粉ではなく、液体にしましょう。少し粘度をつけて。そうしたら身体にべったりくっつきます」
「何かと思ってうっかり触ったら最後、というわけだな」
「想像するだけで恐ろしい……」
被験者エレインのまぶたの裏には、かゆみ弾の付着した手であちこちを触りもだえる敵兵の姿がありありと浮かんでいた。
思わず恐怖にぶるりと震えてしまう。
「冷えてきたな。薬剤室に戻ろう」
「あ、いえ、今のはあちら側がこれから見舞われるだろうかゆみの恐怖を想像してしまっただけで」
「……くっ、そうか」
ジラウドは大きな身体をわずかに揺らした。
(笑った?)
前世の夫の笑顔は今でも思い出せるが、今世のジラウドが笑ったところなど一度も見たことがない。むしろいつもエレインを憎々しげに睨み付けていた。
冷たい銀の髪に、凍てつくような青の瞳。まるで冬の湖のような男が、笑う?
それも、エレインに向かって。
(まさかね)
まだかゆみの残る目から涙がにじむ。そのせいで、視界が少しばかり歪んだだけだろう。
*
液体状に改良した痒み弾は殺傷能力のある毒ではない。しかしそこはジラウドの口添えもあり、無事に司令エミリアーノの認可を経て、来るべきこの日に実戦に用いられた。
第三駐屯地からは目視できないほど距離の離れたところで戦闘が行われているのだが、情報は次々と入ってくる。
またエレインの耳に、天幕越しの会話が届いた。
「いやぁ、悲惨なものだな」
「まったくだ。こんな戦は見たことがない」
どうやらかゆみ弾の効果は抜群だったようだ。突如猛烈なかゆみに襲われた敵軍は阿鼻叫喚の地獄絵図となったらしい。
もくろみ通り着弾した液体に触れた手で皮膚に触り、汗に混じったかゆみ液が首筋や背中を伝い落ちる。鎧のせいですぐにかくことはできず、かいたらかいたでかゆみは広がるばかり。
敵兵はみるみるうちに体力を奪われ、どんな猛者ですら最終的にはかゆみに膝をついたという。
かゆみというのは、訓練でどうこうできるものではないのだ。
「おかげで我が軍の負傷者はゼロ人ときた」
「うちの薬師殿はある意味恐ろしい方だな!」
「違いない!」
褒められているのか恐れられているのか分からない会話に、エレインの肩身も広いやら狭いやらだった。




