04 天幕の朝は寒い
前世のエレインは、結婚してからというもの暇を持て余していた。
条件のよい相手と結婚するためにと言って夜会に駆り出されることはなくなった代わりに、ブロンデル城の女主人としてやらなければいけない家政は山ほどある。
はずなのだが。
『滅相もない! 奥様はゆっくりなさっていてください。まだこちらに来たばかりだし、うちは傭兵上がりのむさ苦しい男所帯ですから申し訳なくって。あたしに任せといてくださいな!』
家政婦長に聞いてみても、いつだってこの調子なのである。
確かに嫁いで来たばかりとは言え、長旅や結婚式の疲れはとっくに取れた。夫の部下も血気盛んではあるが、仲間思いで気のいい人たちだと知っている。
だから少しずつでも家政に関われたらと思っていたのだが、忙しい家政婦長の手を止めるのも気が引けた。
夫も多忙なのでいつでも会えるわけではない。実家から持ってきた本も読み飽きてしまった。
何度も読んだ本のページをめくる。主人公の女の子が友達との友情を確認し合っているシーンが目にとまった。
『おじょ……いえ、奥様。近隣のご婦人をご招待なさってみてはいかがでしょう? ごく少数のお茶会でしたら、奥様だけで差配できます』
『そうねぇ……』
『こちらでご友人をお作りになれば、家政のこともお聞きになれるのではないでしょうか』
実家から連れてきた侍女の言葉に顔を上げたエレインだが、もう一度本に目を落とした。
主人公たちの言う「親友」という言葉は、物語の中でしか見たことがない。
エレインはパタンと本を閉じた。
『私、それよりもあなたとお友達になりたいわ』
冷静沈着が服を着ているような侍女が、目を丸くした。
『実家では口にできなかったけれど、私はずっと前からそう思って』
『申し訳ございません』
普段決してエレインの言葉を遮らない侍女が、初めて主人の言葉を遮った。
『私は一介の侍女に過ぎません。どうかご容赦を』
『……困らせたかったわけじゃないのよ。ごめんなさい。もう言わないわ』
エレインはまた本を開いて、主人公とその親友の挿絵を眺めた。
*
浅いところを行ったり来たりとしていた意識が浮上する。身体を丸め、たぐり寄せた毛布の手触りに違和感を覚えたエレインは、もそもそと起き上がった。
「お目覚めですか、薬師殿」
「マニエル少尉……おはようございます」
「おはようございます」
同室のロザリーがエレインを見て微笑んでいた。とっくに起床していたのか完璧に身支度を調え、すっきりとした顔である。
(そうだ、駐屯地に着いたんだった)
ぱしぱしと瞬きを繰り返し、昨日までのことを思い出す。
招集命令の出た師匠オルガの代わりに第三駐屯地にやってきて、前世の夫と出会ったかと思ったら、口論になった。後悔はしていない。帰れと言うジラウド・シャリエの主張など断固拒否である。
幸運なことに相手は前世を覚えていない様子。これ以降は下手に刺激して前世を思い出すことがないように気をつけつつ、薬師としての役目を果たしてみせるつもりだ。
(にしても……寒い!)
この第三駐屯地はブロンデルの広い草原地帯に設営された天幕の寄せ集めだ。まだ夏の名残があるはずなのに、天幕は底冷えがひどくてろくに眠れた気がしなかった。あくまで仮設の天幕である以上は仕方のないことなのだが、正直これでは数日以内に風邪を引く気がする。
しかし、エレインの脳裏に軍医ジラウド・シャリエの顔がよぎる。「それみたことか。これに懲りたならさっさと帰れ」と幻聴まであったので、エレインはぶんぶんと頭を振った。
「どうぞ、薬師殿」
「あ。ありがとうございます」
考え事をしているうちに、ロザリーが洗面器に水をついでくれる。エレインは洗面器に手を入れ、ばしゃりと顔に水をかけた。
「う〜っ! 冷たい」
「申し訳ありません、冷たいですよね。これでも昨日のうちに汲んでおいた水なので、多少ぬるくはなっているんですけど」
「びっくりしましたけど、しゃっきりと目が覚めてむしろありがたいです」
「そう言ってくださると助かります。冬になると井戸水はむしろ温かく感じるくらいなので、それまでの辛抱です」
井戸水は、夏は冷たく冬は温かい。今のような季節の変わり目の洗顔には少々辛いものなのだ。
それにしても、エレインの洗顔用の水をロザリーが昨日のうちに用意してくれていたのだろうか。到着したばかりで右も左も分からないとはいえ、面倒をかけてしまったようだ。
「今夜から私が洗顔用の水を用意しておきますね、マニエル少尉」
「いえ、私にお任せを! 薬師殿はまだ来たばかりで薬剤室も空っぽでしょう。こちらとしても、事前に準備できてなくて申し訳ない限りなのです。どうかこのくらいは私にお任せください」
「ですが……」
年の頃はエレインと同じか、少し上という程度だろうか。ロザリーの軍服や腕章から察するに下っ端というわけでもなさそうなので、雑用を任せっぱなしは気が引ける。
「それに私、薬師殿を心待ちにしていたんですよ。女性の少ない世界ですし、この駐屯地でも二人部屋になれずひとり寂しい思いをしていましたし」
「いま私は、マニエルさんが同室でよかったと、心の底から思っています」
「ほ、本当ですか! 嬉しいです!」
お世辞でもなんでもない、エレインの本音がこぼれた。
師匠の元を離れて前線に来るなんて、不安にならないわけがない。その上、前世の夫に会い邪険に扱われてしまったのだ。
一方のロザリーはハキハキとにこやかで、エレインを歓迎してくれている。知らないうちに折れかけていた心に、じんわりと暖かさが染み渡るようだった。
「よければ私のことは薬師殿ではなく、エレインとお呼びください」
「そんな、恐れ多い」
「私はただの平民です。恐れ多いなんてことはありません。それより、マニエルさんは貴族のご令嬢のようにお見受けしますが」
ロザリーの金髪碧眼はこの国の貴族によくある色だ。立ち居振る舞いも軍人としてのそれの中に、令嬢のような柔らかさも垣間見えている。恐れ多いのはむしろエレインの方なのだ。
「確かに私は、セルジュール伯爵家の娘です、が……」
何を気にしているのか、ロザリーはもじもじと指をこねている。少しして、ロザリーは捨てられた子犬のような目で言った。
「私のこともロザリーと呼んでいただけるなら」
なんだか「キュゥン」と子犬の鳴き声が聞こえてきそうな顔だ。断るという選択肢はないように見えた。
「分かりました。ありがとうございます、ロザリー」
「はいっ! 他の女性もみな気のいい者たちばかりです。後ほどエレインにも紹介しますね」
「よろしくお願いします」
ロザリーはどことなく、前世でエレインによくしてくれていた家政婦長に似ている気がした。
侍女一人だけを伴ってブロンデルの城に嫁いできたエレインのために家政を取り仕切りながら、女主人が早く馴染むよう心を砕いてくれた女性だ。
(彼女は長生きしてくれたわよね)
生家からついて来たエレインの侍女は、事件の後すぐに捕らえられ、牢に入れられたと聞いた。
家政婦長も比較的エレインに近しい立場ではあったが、生まれも育ちもブロンデルの人間だ。前世の夫が信頼する幼馴染みだと聞いていたし、きっと天寿を全うしてくれたことだろう。
支給された軍服と白衣で身支度を調え、食堂で朝食をとったエレインは、その足で薬剤室へと向かった。隣にはずっとロザリーがいる。
なんでも、昨日までは医務室付きの看護師だったのだが、今日から薬剤室付きとなったらしい。
「ひとりくらい助手が必要でしょう。それに、念のための護衛もかねています」
「ロザリーは少尉じゃないですか。それなのに私の助手なんて」
「ご迷惑でしょうか」
「すっごく助かります」
エレインとロザリーは顔を合わせて笑った。出会ってまだ一日も経っていないのに、エレインにとってロザリーは、この上なく心強い存在になっている。
「あ」
「…………」
隣の医務室からちょうど出てきたらしいジラウドと鉢合わせになる。思わず声を出して立ち止まると、ジラウドも足を止めエレインを睨んだ。
「おはようございます、軍医殿」
「おはようございます」
「あ、ああ……おはよう」
さすがに無視するわけにもいかないので、ロザリーに続き挨拶すると、ジラウドは驚いたような顔でエレインを見た。たかだか挨拶で驚かれてしまうほど昨日のやりとりはまずかったらしい。
しかしあれの影響で前世を思い出しているようにも見えないので、エレインとしては後悔はない。
ぺこりと頭を下げ、さっさと薬剤室に入ろうとしたところで、絞り出したような声が追いかけてきた。
「……天幕は」
エレインは再び足を止め、無言で続きを促す。
「天幕での夜は、寒かっただろう」
言外に「寒いと弱音を吐くなら帰れ」が含まれているらしいと感じ取る。直接的な言葉を使えばエミリアーノの命令違反になるから、わざわざ遠回しに言っているのだろう。
「寒さには強い方なので平気です」
エレインも「だから帰らない」の意思をにじませて言った。
不満そうなジラウドと半ば睨むように視線を合わせていると、軍医の大きな身体の影から一人の女性が出てきた。
年の頃はオルガより少し上だろうか。白髪が混じる壮年の女性だが、背筋がすっと伸びている。
「モントレー夫人もご一緒でしたか。おはようございます」
「ええ、おはようございますマリネル少尉。そちらは……」
「はじめまして。薬師エレイン・ベルジュと申します。昨日こちらに到着しました」
薬師を強調して名乗る。
モントレー夫人と呼ばれた女性は握手のためか手を出しかけたが、次の瞬間、サッと顔色を青くした。
「……失礼。ジラウド様、今日は休ませていただいても?」
「どうした? 具合が悪いのか」
「ええ、少し」
一瞬にして顔が真っ青になっていたし、しゃんと伸びていた背も丸まっている。確かに具合が悪そうである。
「戻る前に診ようか?」
「いいえ、結構です。実は私、医者も薬も苦手なのです」
「生まれてこの方、初耳なのだが」
「ずっと隠しておりましたから……では、失礼いたします」
そう言い残して、モントレー夫人と呼ばれた女性は宿舎の方へと足早に消えた。
医者も薬も嫌いと言われてしまえば、薬師であるエレインが追いかけることもできない。ジラウドもやや呆気にとられた様子でモントレー夫人の後ろ姿を見送っていた。
「では、私たちもこれで」
「ああ」
エレインとロザリーもジラウドと別れて薬剤室に入る。まずはほとんど空っぽ状態の室内を仕事ができる状態にしなければいけない。
軍から必要なものは支給されている。物資入りの木箱に打ち込まれた杭を抜いていると、ロザリーがどことなく不満そうな声を漏らした。
「一体何なんでしょうね、本当に」
軍医ジラウド・シャリエの態度について言及しているらしい。
薬剤室にはエレインとロザリーの二人だけなのだが、エレインも作業の手を止めないまま声を小さくして訪ねた。
「あのお方はいつもあんな感じですか?」
「そんなことはないはずなんですけど。昔から、身内以外には良くも悪くも興味を持たない方でしたよ」
「昔から?」
「ええ。実は、私とジラウド様は親戚筋でして。お互いが子供の頃から見知った仲なのです」
軍人家系として有名なガルディ侯爵家は男も女も傍系もみな必ず軍と関わっているらしい。「ガルディに剣を持たぬはなし」が格言で、幼い頃から同年代の子どもたちが集められ、木剣で素振りをするのだとか。
「いわゆる幼馴染みというか、同じ駐屯地に配属されて軍医殿の下で看護師をしているのは本当に偶然なので、むしろ腐れ縁というか。ちなみに先ほどの女性、紹介しそびれましたが、アレクサンドラ・モントレー夫人という方です。ジラウド様のばあやですね。私も子供の頃から何度かお会いしています」
モントレー夫人は独身の頃、軍人だったらしい。その時の縁で結婚後にジラウドの父の乳母としてガルディ侯爵家の使用人となった。
以来、ずっとガルディ侯爵家に仕え続けていたのだが、今はそれを辞して軍に戻ったのだとか。
「五十もとっくに過ぎているはずですが、昔から老いを感じさせない元気なお方でして。ジラウド様は五人兄弟なんですけど、モントレー夫人のいちばんのキャベツちゃんがジラウド様なのですよ。ガルディ家を辞めて軍に戻り、駐屯地までついて来てしまうくらいには」
キャベツとは、「かわいい」「お気に入り」の男の子に対して使う古い言葉だ。
あのジラウド・シャリエがキャベツちゃん? とエレインは首を傾げてしまう。とんでもなく似合わない。
「ともかく、幼馴染みでもある私が知る限り、あのように誰かを拒絶するような態度を取っている軍医殿を見たことが……あっ、申し訳ありません! エレインが悪いわけではないのです、むしろ失礼なのはあちらですから!」
「謝らないでください。私も悪かったのは確かです」
ロザリーの証言から察するに、ジラウドは前世の影響で無意識にエレインを嫌っている可能性がありそうだ。こうなってしまったからには仕方ないが、やはりなるべく相手を刺激しない方がいいだろう。
そんなことを考えていると、カランコロンとベルの音が聞こえてきた。
「えっ、何? 緊急事態ですか?」
「いえいえ、誰かが来たようですよ」
天幕は壁も出入り口も布でできているためにノックができない。よって、主要な天幕にはベルを取り付けているらしい。
紐が中に設置されたベルと連動しており、ベルは天幕の中で鳴る。
視線を上げると、確かに真鍮色のベルが天井近くでぶらんぶらんと揺れていた。この薬剤室に客が訪れているようだ。
まだ準備中ではあるが、患者がいるのなら診なければ。しかし、「はい、どうぞ」と出入り口の布をまくったエレインの視界に映ったのは、まん丸の身体。
司令エミリアーノ・バルゲリーだった。




