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私を殺した前世の夫が迫ってくる  作者: 三糸べこ


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03 軍医ジラウド・シャリエ

 招集された第三駐屯地の軍医は、エレインの前世の夫だった。


(違う)


 夢で見る夫はこんなに背が高くはなかった。

 髪の毛だって黒に近いような茶色で、輝くほどの銀髪ではなかった。落ち着いた琥珀色の瞳も、磨いた一級品の蒼玉とは似ても似つかなかったはず。

 顔立ちには面影のひとつもない。あの人がエレインを見る目は、もっと穏やかで優しかった。こんな、冬の湖のように冷ややかな人ではなかった。


 違う。夫ではない。夫はもう生きていない。

 きっとエレインを刺し殺したあの後、数日も待たずに死んでしまったはずだ。仮に毒に勝って生き延びたとしても、あれから二百年も経っている。


(でも……あの人だ……)


 前世の夫で間違いない。彼の名前も覚えていないのに、理屈ではない何かがそう訴えていた。

 エレインは服の上からロケットペンダントごと胸を押さえ、深呼吸を繰り返した。

 焼けた鉄を押しつけられたかのように熱い胸から、身体中の血が流れ出て行く。どんどん視界が暗くなっていく。耳鳴りがひどくて、側にいる人の言葉も聞こえなくて――。


「……殿。薬師殿? どうかされましたか?」

「……あ、いえ」


 気がつけば、突然立ち止まって呆然とするエレインをロザリーが心配そうにのぞき込んでいた。前世の夫――軍医も、訝しげな視線をエレインに寄越している。


(ま、まずい)


 妙に怪しい態度を取ってしまったことに思い至る。背中に冷たい汗が流れた気がして、エレインは慌てて言い訳をひねり出した。


「あの、あの……それが、まさか、こちらの軍医がこのようなお方だとは夢にも思わず……」

「薬師殿もご存じでしたか」


 何の言い訳にもなっていない言葉だったのに、ロザリーが至極真面目に頷いた。


「さすが、医療に携わるなら知っている方が多いようですね。お察しの通り、我らが軍医はジラウド・シャリエ様。ガルディ侯爵家の方です」

「え、あの!?」


 ロザリーの言葉に、エレインはまた驚いて声を上げた。


「実際に見ると驚きますよね。大きくて、目つきも悪くて」

「いや、まぁ……ええ……」


 ジラウド・シャリエ。その名だけなら、実はエレインも以前から知っていた。

 彼は王立病院に籍を置く若手の外科医だ。絶対に助からないと思われた怪我を後遺症もなしに治しただの、革新的な治療法を確立させただの、医療の世界に身を置く人間であれば一度は彼の名を耳にしている。

 エレインも定期購読している雑誌でその名を知った。


(雑誌に載ってた似顔絵では前世の夫だなんて分からなかった……!)


 そしてロザリーの言う通り、実際のジラウドは熊のように大きくて、狼のように目つきが悪い。これも似顔絵からでは分からなかった。


 彼はその生い立ちから、ただの優秀な外科医以上に知名度がある。

 生家は軍人家系として有名なガルディ侯爵家。過去にいくども軍人の頂点である元帥を輩出し、一族が要職を総なめしていると噂されるガルディ侯爵家の名は、平民のエレインでも知っているほど。


 もちろんジラウドも少年時代を士官学校で過ごした。在学中から特例で参加した実戦で結果を出し勲章まで得ており、まさに一族期待の星だった。

 きっと最年少で元帥の座に就くだろうと思われていたのだが――彼は士官学校を中退し、なぜか医術学校に入学し直した。軍関係者の間に激震が走ったらしい。


 その後医者となった彼が外科医としても優秀な結果を出したことで、医療と軍人界隈では大変な有名人となっている。今は軍医でありながら、駐屯地をまとめ上げる副司令の地位も兼任しているのだとか。

 要は、規格外に凄い人というわけだ。


(ジラウド・シャリエがあの人の生まれ変わりで、まさか医者になっているなんて)


 怪我や病気を治すのか。二百年前、エレインを刺し殺した人が。


(夫を毒殺した、ということになっている私が薬師をしているのも、笑えない話だろうけど)


 少し離れたところで足を止めたジラウドも、驚いたような表情でエレインを見ている。

 じわじわと成果を出しているエレインだが、薬師としてはまだまだ若手だ。熟練薬師の代理がこんな小娘であれば、それは驚きもするだろうか。


(もしくは……)


 相手にも前世の記憶があるのか。エレインが前世を覚えているのだから、ジラウドだって覚えているかもしれない。

 前世と見た目が違っていても理屈ではない何かで相手が誰なのか分かってしまった。きっとジラウドにもエレインの前世が分かってしまう。


 毒に侵された身体で殺しに来るほど憎まれていた。執拗に、二度も刺された。また刺されるかもしれない。そう思うと足が竦んで動けない。


「……っ」

「…………」


 立ち止まってこちらを見ていたジラウドがゆっくりと近づいてくる。脚が長いので一歩が大きい。

 あっという間に側に寄った元夫の上背に圧倒されたエレインは、再びロケットペンダントを強く握った。


「君が、ここに招集された薬師だと?」

「……はい。エレイン・ベルジュと申します」

「……聞いていた薬師とは別人のようだな」


 ジラウドの声は、見た目通り冷たいものだった。慌て始めるロザリーとは反対に、エレインはほっと胸をなで下ろす。


「マリネル少尉、ここは関係者以外は立ち入り禁止だ。速やかに出て行ってもらいなさい」

「え? あ、いえ、しかし軍医殿、彼女は」


 ジラウドはもうエレインから視線を外し、ロザリーと「出て行ってもらえ」「ですが彼女は」の押し問答を繰り返している。一瞬でも動揺し、不審な態度を取ってしまったエレインとは大違いだ。


 この様子なら、ジラウドはエレインが前世の妻だと気付いていないものと見てよさそうだ。覚えていたのなら少なくとも、エレインをもっと忌々しげに睨み付けて罵っていたに違いない。


(それはそうよね)


 二百年前に生きていた頃の記憶を持っているなど、普通のことではない。エレインと同じような人がいたとしても、それが前世の夫である確率はいかほどか。

 前世の記憶については、死んだ両親やオルガにも打ち明けたことはない。ジラウドに対しても同じように振る舞えばいいだけだ。


(でも、どうしよう)


 今エレインのことを覚えていなくても、何かの拍子に思い出してしまう可能性はないだろうか。

 エレインだって前世のことを全て覚えているわけではない。自分や夫の名前は今でもまったく思い出せないのだ。

 しかし、ちょっとしたきっかけがあれば思い出せることもある。

 そう考えると、同じ場所で一緒に働くことは避けた方がいい気がしてくる。


「軍医殿。確かに本来は別の方が来る予定でしたが、彼女は正式に代理手続きをされていますので、問題はありません」

「問題があるかないかは俺が決める。薬師であれば軍医である俺が直属の上司だ。現場どころか副司令にすら決定権がないのはどうなんだ。しかも彼女はまだ年若い女性で――」

「お言葉ですが!」


 エレインは男の声を遮って、続けた。


「私は師匠オルガ・ベルジュの正式な代理としてここに参りました。年齢も性別も関係ありません」


 はじめは毒に翻弄されないために薬学の道に進んだ。

 死なないため。殺されないため。打算と言われてしまえばそれまでだが、オルガに出会ってからの二十年近く、エレインは本気だった。

 薬学にのめり込み、研究を続け、成果だって出してきた。真摯に向き合ってきたのだ。薬学に対してだけは、一つも恥じるところがないと断言できるほどに。


 それなのに、ジラウドは年齢や性別でエレインを差別した。まったくもって言語道断である。


「私は帰りません。きちんと役目を全うしてみせます」

「俺は君のことなど呼んでいないと言っている」

「私の従軍を認めたのは軍です。特定の個人の感情は関係ないと思いますが」


 ジラウドは大きなため息を吐いた。


「いいか。今は平和そうに見えてもここは前線だ。常に緊張を強いられる上に、慣れない天幕暮らしに男ですら疲弊する」

「だから私が来たのです。薬師の仕事は薬を作るばかりではありません。生活の役に立つものも用意できます」

「甘い。ここは何か起こらない方がおかしい場所だ。そうなった時、君のような若い女性がどうなるか想像できないわけでもないだろう」

「……っ」


 エレインはロケットペンダントを握り、声に出そうな叫びを胸中にとどめた。

 けれど胸が、あの日刺されたところが、氷のように冷えていくようだった。


「ひとつお伺いします」

「なんだ」

「ヒースクランがウルキアを制圧した時、我がヒースクラン軍は何をするのですか? 私と同じ年頃の、あの国の若い女性をどうされるのでしょうか。私のような女にも分かるようにお聞かせくださいませんか」

「は?」

「あなた自身が同じことをすると言っているように聞こえましたので、具体的に教えていただけますよね?」

「……なんだと」


 ジラウドが青の瞳に明らかな怒気を浮かべた。


「く、薬師殿……軍医殿も、どうかこのくらいで……」


 間に立つロザリーが真っ青になっている。


 余計な刺激を与えてはいけない相手に、言ってはいけないことを言ったような気がするが、エレインはそれでも止まらなかった。

 誰に何を言われようと第三駐屯地の薬師としてやり遂げてみせる。エレインはこうと決めたら譲らない、頑固な人間なのだ。


「敵国の人間だからという理由だけで殺しますか? 奴隷として売り飛ばしますか? 男たちの慰み者にしますか? 家畜以下の扱いをして、散々暴力を振るったあと、ゴミのように捨てますか? 死んだ方がましだと思うような目に遭わせますか?」

「…………」

「確かに私は民間人でしたが、何も想像しないでここに来たわけではありません」

「……それなら、どうして」

「私にも譲れない理由があるというだけです」


 夫が守ったブロンデルを、エレインも守りたかった。


 言うつもりはない。かつての夫であれば万に一つもあるだろうが、ジラウド・シャリエに言ったところで理解などされないだろうから。


「こらぁ〜っ!」


 これ以上の問答は無駄だろう。そう思っていたエレインの耳に、なんとも気の抜ける声が聞こえてきた。

 声のした方を見ると、まるっとした背の低い男がこちらに向かって歩いている姿が目に入る。眉をつり上げて怒っているようだが、丸っこい姿形のせいか、あまり怖くはない。

 しかし、ロザリーだけでなくジラウドまで即座に姿勢を正して敬礼した。


「軍医が誰かと言い争っていると聞いて来てみれば。一体何をやっているのかね、チミたちは。規律を乱すつもりかね?」

「いえ、そのようなつもりは。申し訳ありません」


 軍医と副司令を兼務するジラウドが素直に頭を下げた。丸っこい男の軍服には大量の勲章が並び、ずいぶんと重そうである。

 もしかして、この人物が第三駐屯地の司令なのだろうか。

 男の肉に埋もれ気味ながらつぶらな瞳がエレインを捉えた。


「ところで、こちらの女性は? 見ない顔だね」

「はっ。彼女はエレイン・ベルジュ殿。オルガ・ベルジュ殿の代理で赴任された薬師です。薬師殿、こちらは第三駐屯地司令、エミリアーノ・バルゲリー様です」

「薬師エレイン・ベルジュでございます。どうぞよろしくお願いいたします」


 代わりに答えてくれたロザリーに続き、エレインも慣れない敬礼をした。


「やぁ、チミが! いかにも、私が第三駐屯地を預かるエミリアーノ・バルゲリーだ。うちの健康管理についてはもう心配いらなそうだね」

「ご期待に添えるよう、全力を尽くします」

「うん、うん。ジラウド君も薬師の到着を待ちわびていたはずなんだけどねぇ。まぁ、仲良くしろとは言わないけど、規律を乱すことはしないように頼んだよ」

「はい。申し訳ありませんでした」


 待ちわびていたらしい薬師に喧嘩を売ってきたのはジラウドなのだが、エレインは喧嘩を買ったこと素直に謝った。

 エミリアーノの言葉は、エレインを薬師として受け入れる、というものだ。司令がこう言えば、軍医兼副司令に拒否権などないだろう。


 案の定、ジラウドは眉間に深い皺を刻みながらも、エミリアーノに対して反論するようなことは言わなかった。


「……持ち場に戻ります」


 鋭い視線でエレインを一瞥し、ジラウドは背を向け立ち去った。長い脚で足早に歩いているので、あっという間にその姿が見えなくなる。

 エレインは改めて、エミリアーノに頭を下げた。


「お手を煩わせて申し訳ありませんでした。これより勤めに励みます」

「うん、頼んだよ」


 エミリアーノはヒラヒラと手を振り、司令室へと戻った。エレインも未だに真っ青な顔をしたロザリーと別れ、ひとりで薬剤室に帰る。

 よりにもよって隣が医務室。すぐ側にジラウド・シャリエがいるのだと思うと、まだ腹の奥がムカムカとしてしまう。けれどエレインは正式な第三駐屯地の薬師だ。もう文句は言わせない。


(にしても……)


 無造作に置いてある木箱に腰掛け、エレインは深く息を吐いた。

 ジラウドは前世を覚えてはいないようだ。覚えていたなら、もっと他に言うことがあったはず。


(ジラウド・シャリエは私を心配してくれただけ。分かってる)


 ここは前線だ。こちらから攻め込むこともあるだろうし、逆にいつ攻め込まれてもおかしくはない。

 捕虜などとして捕まった時にエレインのような女がどうなるか。ジラウドの懸念ももっともだ。


(でもそれはそれ、これはこれよ!)


 かつての夫であれば、同じことを思ったとしても別の言い方をしてくれただろう。

 それに比べてジラウドは出会って早々頭ごなしに拒否してきたし、終始エレインを憎々しげに睨みつけていた。


(また殺されなかったのは良かったけど……)


 どうやら今世ではあからさまに嫌われているらしい。

 また殺されては無念が過ぎる。なるべく関わらず、必要最低限、淡々と接するようにしようと固く誓うエレインだった。

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