02 ブロンデル第三駐屯地
オルガは受け取った召集令状を素早く読んで、吐き捨てるように言った。
「この年寄りにまで従軍せよとは、ずいぶん人使いが荒い」
「……師匠は高名な薬師ですから……」
本当はこんな田舎町にいるような人ではないのだ。王都の病院や研究所にいてもおかしくないのに、都会より田舎のほうが生きた素材集めに向いているからと言って数々の誘いを蹴っている。
そんなオルガはフンと鼻を鳴らして、召集令状をテーブルに叩きつけた。
「そういうわけだから、留守は頼んだよ」
「師匠……」
留守くらいいくらでも守る。けれど、オルガが行こうとしているのは戦争だ。
新聞にはヒースクラン軍の活躍が報じられているが、目立たないところに小さく、戦死者の名前も載っている。
「大丈夫、心配はいらない」
「でも……」
そもそも、オルガはどこまで行かなければいけないのだろうか。
隣国と国境を接している面は広く、いくつかの領地がウルキア侵略の矢面に立っている。どこへ配属されるにしても相応の移動距離となるだろう。
見た目も気力も若いが、そこそこの年齢であるはずのオルガに負担はかけたくない。
エレインは叩きつけられてシワシワになった紙に視線を落とした。令状には隣の領地、ブロンデルの名が書かれている。
「――ブロンデル……?」
「ついにそこも狙われたみたいだね。まぁ確かにあそこは昔っから小競り合いの多い土地だから」
「師匠。代わりに私が行きます」
「いい土で作物がよく育つからとは言え、踏み荒らしては奪う意味も――は?」
だるそうに半分閉じていたオルガの目が、カッと見開いた。
「なんだって?」
「ブロンデルには私が行きます。隣町に行くのとは話が違うんです。ここより北だから寒いだろうし、師匠は着道楽だから荷物が多いし、その足腰では道中すらもう無理です!」
「人をババア扱いするんじゃないよ!」
「リンクコブラの毒の仕入れに対して販売数が少ないこと、知ってますからね!」
「くっ……」
リンクコブラは強力な毒を持つ蛇だ。噛まれると血の巡りが止まって、最悪の場合半日ほどで死ぬ。
しかし、毒を蒸留水で薄めて薬草と合わせた軟膏にすると、炎症に効くいい薬になるのだ。毒の薄め具合は薬師の腕の見せ所である。
これの仕入れに対して販売数が少ないということは、できあがった薬を無償で譲っているか、調剤に失敗したか、薬師自身が使っているということ。
オルガの性格上、無償で薬を譲ることはまずあり得ない。彼女が軟膏作りに失敗することも考えられない。
そして、椅子から立ち上がる時など、時々顔をしかめていることをエレインは知っている。
「私に行かせてください。師匠も昔、従軍していたんでしょう。良い経験になったと言っていたじゃないですか。私も薬師オルガ・ベルジュの弟子としてふさわしい働きをしてきます」
「……エレイン。こんなことのためにあんたを育てたわけじゃない」
「分かってます」
「あんたはまだ若いし、将来有望な薬師だ」
「それも分かってます」
「そこは少し謙虚になるところだよ。まったく、憎たらしい子だね」
時の流れをごまかせないオルガが心配であることはもちろん、他にもエレインが行きたがる理由があった。
ブロンデルは叙爵した夫が封ぜられた領地。つまり、前世のエレインが短い間、夫とともに暮らした土地だ。
生まれ変わって以来、一度もブロンデルに足を踏み入れたことはない。特に用事もないので、隣の領地とはいえこれからも行くことはないと思っていた。
封土として与えられる前から夫が守り続け、愛した、美しいブロンデル。自然豊かなあの地が踏み荒らされるのかと思うと居ても立ってもいられない。
領主の妻としてろくな働きもないまま死んだが、それ以外の思い出だって少なくはなのだ。
「お願いします、師匠」
エレインはこうと決めたことは譲らない節がある。その一番初めが、オルガに弟子入りをしつこく強請ったことだった。
オルガは五歳のエレインを思い出すように視線を落としてから、ため息のような声で言った。
「絶対に怪我をするんじゃないよ」
「はい」
「夜に腹を出して風邪を引かないように」
「は、はい」
「毎日風呂は無理かもしれないけど、きちんと身ぎれいにすること」
「分かりましたからっ!」
「あんたはオルガ・ベルジュの唯一の弟子、エレイン・ベルジュだ。あんたしかあたしの跡を継ぐ人間はいない。必ず帰っておいで」
そう言って、オルガが両手を広げる。促されるような視線を受けて、エレインも両手を広げてオルガに身体を寄せた。
思えば、五歳で引き取られて以来、オルガの元を長く離れるのはこれが初めてだ。
「必ず帰ります。約束します」
励まされるように叩かれた背中が痛くて、少しだけ涙が出た。
*
それから数日後、エレインは大きな荷物を持ってブロンデルへと向かった。
約二百年と二十四年ぶりに訪れたブロンデルは、夢の記憶とあまり変わらないように思えた。
広く肥沃な草原地帯には森や雑木林が点在し、その合間に広がる平原は広い。群青色の空の低い位置に薄く雲が広がり、風に乗ってゆったりと流れていた。吸い込む空気が冷たくて、懐かしさに胸が締め付けられる。
とはいえ、従軍のためにやってきたエレインには哀愁に浸る暇もない。
ブロンデル領のほぼ中央に位置する草原地帯にたくさんの天幕が張られ、いくつかの塊ごとに隊を組んで国境を警備している。そのうちの一つ、第三駐屯地がエレインの配属先である。
「薬師エレイン・ベルジュ殿ですね。お待ちしておりました」
丸三日に渡る旅を終えてようやくたどり着いたエレインを出迎えてくれたのは、同じ年頃の女性だった。
現れた薬師が想像と違ったのか一瞬呆けた表情を見せたが、気を取り直したように背筋を伸ばして、敬礼をする。
「私はロザリー・マリネル。軍医の元で看護師をしております。また、これからあなたと同じ天幕で寝泊まりするルームメイトでもあります。ご挨拶がてら案内役を仰せつかりました」
「ありがとうございます。薬師エレイン・ベルジュです。よろしくお願いします」
ロザリーはハキハキとした、爽やかな雰囲気の人だった。握手のために差し出された手は固く、腰には剣を佩いている。
(あれ? 看護師って言ってなかったっけ?)
疑問に思って見上げると、エレインの視線に気付いたロザリーは「本職は軍人なのです。ちょっと人手不足で」と付け加えた。
二百年前では考えられなかったことだが、今の時代、女性軍人は多くもないが珍しくない存在だ。
「そういういうことでしたか」
「ええ。では、さっそく薬剤室に向かいましょうか。軍医殿にお会いいただきたいのですが、今は会議中なので、薬剤室に荷物を置いた後は駐屯地の中をご案内します」
「はい」
薬剤室だと言って案内された天幕は、見かけによらず中が広かった。机や椅子の他、薬や素材を納めるための棚、作業机などが用意されているが、中身は空っぽだ。
このほとんどまっさらな天幕のどこに何を置こうかと、さっそく計画を立て始める。
(奥で調剤や研究をして、手前で診察をしたいから、導線を考えたら棚や机の位置を動かしたいな。私一人で動かせるかな。薬棚の引き出しの数は想像していたよりも多い。ブロンデルは森が多いし、自分で採取もできそう)
荷物を置いて調剤室を出た後は、ロザリーの案内を受けながら駐屯地内を歩き回った。
「隣の大きな天幕が医務室です。向こうに見える、赤い布の垂れた天幕が司令室。司令室を中心に、北に監視塔、西に訓練場、東南に居住区となっています。調剤室、医務室は居住区寄りの中央に位置していますね」
ブロンデルの駐屯地は天幕の寄せ集めだ。とは言っても司令室に監視塔、訓練場、事務室、居住区、倉庫、食堂、馬房などの他、男女別手洗いはもちろん、毎日入れる浴場もあるというから驚きだ。オルガの言いつけ通り、毎日身ぎれいにできそうである。
(ブロンデルは特に水が豊かだものね)
西にも東にも清涼な川が流れ、水の流れは肥沃な土を運び、実り豊かな森を育てる。農耕にも酪農にも適した土地だ。
そんな土地だからこそ、ブロンデルは昔から他者に狙われやすかった。前世の夫もブロンデルを侵略から守るために剣を振るい、やがて英雄と呼ばれるようになったのだ。
「さて、これで一通り駐屯地を回りました。そろそろ軍医殿も医務室にお戻りの頃かと思いますので、行ってみましょうか」
「はい。それにしても、ずいぶん広いんですね。第三駐屯地だけで天幕がいくつあるんでしょう」
「薬師殿には広くお見えですか。これでも仮設の駐屯地ですから、きちんとした建物のあるところに比べれば小さいですよ。でもそうですね、天幕の数は百近くでしょうか。所属する人間は百二十名程度です」
「うわぁ」
軍としての規模感はさっぱり分からないが、一人で百二十名の患者を受け持つと思うと気合いが入ってしまう。
「第七駐屯地なんかはここの倍ほどもあって……あ。軍医殿!」
話をしながら薬剤室へと戻る途中、ロザリーが足を止めた。ぴしっと敬礼する彼女の視線の少し先には、背の高い銀髪の男がいた。
軍服の上から白衣をまとっている。どうやら彼がこの第三駐屯地の軍医であるらしい。
「今からご挨拶に伺うところでした!」
男がこちらに視線を向けると、ロザリーは手を下ろし男の方へと足を進めた。
エレインもそれに続く。しかし、彼の顔がはっきり見えるところまで近づいた瞬間、エレインの足は止まってしまった。
「薬師殿? どうされましたか?」
ロザリーと一緒になってこちらを見る軍医。
(……この人、は)
彼は、前世の夫だ。




