01 薬師エレイン・ベルジュ
――バスッ!
「へぁっ」
後頭部に衝撃を受けて、エレインは目を覚ました。夢の余韻を感じる間もなく、背後から不機嫌そうな声が飛んでくる。
「あんたはまーたこんなところで寝て」
机に伏せていた上半身を起こし、口元を手の甲で拭う。ぼやけてはっきりしない視界に師匠オルガの姿を映すと、エレインは呂律の回らない口で「おかえりやさい」と言った。
「おかえりじゃないよ、まったく。いい歳した女がよだれ垂らして寝落ちだなんて。そんなんだから男の一人や二人、捕まえられないんだよ」
「いやー、私、恋愛とか結婚は別に」
「つべこべ言わない!」
オルガはガミガミと言いながら、丸めた新聞と大きな荷物を下ろした。往診や仕入れなどに出かけて何日か不在にしていたのだが、どうやらたった今戻ってきたところのようだ。
「頬に跡が付いてるし、髪の毛はボサボサ、服はヨレヨレ。最後に風呂に入ったのはいつだい」
「えーと……えへへ」
「えへへじゃないっ。さっさと風呂にお入り!」
「はいっ」
オルガに叩き出されるようにしてエレインは風呂場に向かった。さっと洗った浴槽にお湯を張る。
ちょうど良い量が溜まるまでの間、薬草を麻袋に詰めて小鍋で煮出しておく。この煮汁をお湯に入れると殺菌と保湿の効果がある。そして、湯上がりでもほんのりいい匂いのする入浴剤となるのだ。
薬草を煮出している間、エレインの後頭部を叩いた新聞に目を通す。今日も戦争に関する情報が一面を飾っていた。
(まだまだ終わりそうにないかぁ)
エレインの生まれた国ヒースクランは隣国ウルキアの侵略を受けている。
ウルキアは険しい山ばかりの国で、耕作も放牧もままならない土地だそうだ。十年ほど前の水害でウルキアが大きな被害を受けてから少しずつ関係が悪化していたが、とうとう広くなだらかな大地と豊かな水源を持つヒースクランを欲して強硬手段に出始めたのだ。
小競り合いとにらみ合いを繰り返しながら、もう何年経っただろうか。追い返しても追い返してもウルキアが攻めてくるので、いつまでも戦争が終わらない。
エレインは戦況を伝える一面を剥ぎ取り、丸めて火にくべた。
そうこうしているうちにできあがった薬草汁を麻袋ごと湯船に入れる。手でかき混ぜながらお湯が適温になったことを確認すると、エレインは居間に向かって声を上げた。
「ししょー。お風呂の準備ができましたけど、先に入りますか?」
「荷解をするから、あたしは後でいいよ」
オルガに「はーい」と返事をしながら、エレノアは手早く服を脱いで浴室に入った。
手作りの洗髪剤と髪の栄養剤、同じく手作りのせっけんで全身を洗い流し、薬草湯の湯船に身体を沈める。
「ふー」
ここしばらく風呂をサボっていたが、入浴が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。
前世のエレインが生きたのは、今から二百年も前のこと。当時はここまで入浴文化が発展していなかった。洗面器に張ったお湯と、布とせっけんを駆使して身体を拭くのが主流だったあの頃を思い出す度に、たっぷりのお湯に浸かれる幸せを噛みしめている。
少し熱めのお湯にとろけていると、脱衣所からオルガの声が聞こえてきた。出かけていた間の洗濯物を籠に入れに来たらしい。
「肩までよく浸かるんだよ」
「はぁい」
もう子供ではないのに、時々こうして子供扱いされる。それもまた、嫌いではない。
師匠――薬師オルガ・ベルジュは、エレインの育ての親でもある。五歳の頃、病気になった両親を看病していたことがきっかけで、エレインはオルガに引き取られることになった。
前世の記憶のおかげで二百年前の治療法を知っていたエレインは、しかし死後百年経って新薬が発明されていたことを知らなかった。
エレインの両親はその薬を手に入れる前に倒れてしまった。人里離れて暮らしていたことも災いして、誰かが気付いて助けてくれるということもなかったのだ。
すっかり荒れた部屋でまだ息のあるエレインを見つけたオルガは、感心したように言った。
「ロッサン根の煮汁を飲ませていたのか。ずいぶん古い民間療法を知っている。見な、あんたの両親の顔が穏やかだろう。苦しまずに逝けたのはあんたの看病のおかげだ。あれは病を治すことはないが、痛みを取ってやることができるから」
オルガは痩せ細ったエレインに滋養のある食事を作り、回復を待つと、一緒に両親を埋葬してくれた。街の孤児院に送ってもらう途中で、エレインはオルガに弟子入りを志願した。
二百年前、エレインは夫に毒を飲ませたとして殺されたが、夫に毒を飲ませたのはエレインではない。そんなことはエレイン本人が一番よく分かっている。誰かにはめられたのだ。
(毒の知識があれば、あんなことにはならなかったかもしれない)
すぐに処置して夫を助けられたかもしれない。毒を特定して、犯人を見つけられたかもしれない。そもそも毒を使ってエレインを貶めようとも思われなかったかもしれない。
生まれ変わってから出会ったオルガは毒を薬に、薬を毒にできる「薬師」だ。エレインは必死で懇願し、根負けしたオルガの下働きとして側に置いてもらえることになった。
助手と名乗ることが許されたのは七年が経った頃。一人前の薬師として太鼓判を押してもらえたのはさらに七年が経ってから。
どうやら薬学は性に合っていたらしい。前世の記憶のせいで結婚にも恋愛にも興味のないエレインは二十四歳になった今も仕事一筋。風呂だけでなく、寝食を忘れて机にかじりつくこともしばしばだ。
人に有用な効能より、有毒な成分に大きな興味を示すエレインに、オルガは「だめじゃないけど危険人物にしか見えないから外でその顔はするな」と忠告する。
(どんな顔なんだろう。研究中の自分の顔なんて見たことないからなぁ)
風呂上がり、化粧水を叩き込みながら眺める鏡に映るのは、栗色の髪に緑目の女だ。容姿はきっと普通だと思う。
ただ、面倒臭がって化粧を滅多にしないので、悪い意味で年不相応な気はしている。
髪を乾かし後ろで一つにまとめて、肌触りのいいお気に入りのワンピースを着る。最後に母の形見であるロケットペンダントを首から下げれば身支度は完了だ。
貴族だった前世は、長い髪に重いドレスで毎日の身支度が大変だった。今は一人でさっと済ませられるのがとてもいい。
(ま、それすらめんどくさがって師匠に怒られてるんだけど)
最後に、寝落ち前にしていた研究を再開するため白衣を羽織ったところで、玄関のノッカーが叩かれた。
「郵便です」
いつもの郵便屋の声がする。
風呂をサボってボサボサヨレヨレのエレインと、身支度を整えたばかりでピカピカのエレインとではあからさまに態度を変える男だ。
初めは腹を立てていたエレインだが、いっそ清々しいほどの豹変ぶりなので、今では「今日はどっちでしょうかゲーム」をする仲となっている。なお、勝っても負けても何もない。
「今日はどっちでしょーか」
「…………」
「どしたの?」
扉の前で推理という名の御託を並べてから「汚いエレイン」か「綺麗なエレイン」と回答する失礼千万な郵便屋が無言のままだ。具合でも悪いのかと扉を開けると、郵便屋は固い表情で立っていた。
「オルガ・ベルジュ殿はご在宅でしょうか」
「いますよ。ししょー!」
「はいはい、何だいでかい声で」
エレインの横からオルガが顔を出す。ずい、と一通の封筒が差し出された。そして、郵便屋は淡々と言った。
「おめでとうございます」
オルガが受けとった封筒。それは、戦争への召集令状だった。




