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第288話 『生麦事件交渉-3-真実は上海に』

 文久二年八月十二日(1862年9月5日) 夜 神奈川奉行所


「安藤様、あまりに差し出がましい物言い、真に申し訳ございませぬ」


 次郎は前面にでてニールと交渉した事を謝るが、信正はからからと笑って答える。


「なに、蔵人がそうだと言う事は丹後守殿から聞いておったし、今さらであろう」


「誠にその通りでございます」


 傍らの純顕もそう言って笑った。


「それよりも次郎、これから如何(いかが)いたすのだ」


 純顕が聞いてきた。


「まずは本日の合議の内容をまとめますと……」


 次郎はニールとの会談の内容を書き記した。





 ※交渉の争点:


 ・生麦事件に対する日本の対応(謝罪、犯人引き渡し、賠償金)

 ・事件の真相究明(特に次郎が主張)


 ※イギリス側の主張:


 ・生麦事件は薩摩藩の行列によるイギリス人への攻撃

 ・日本側の謝罪、犯人引き渡し、賠償金の支払いを要求

 ・事件の真相究明よりも、被害者への対応を優先すべきと主張

 ・行列の事前通達なしに抗議


 ※日本側の主張:


 ・事件は偶発的なものではなく、背後に陰謀があると推測

 ・発砲した二人は上海へ逃亡した可能性を指摘

 ・事件の真相究明のために、イギリスの協力を要請(特に上海租界における捜査)

 ・行列の事前通達なしについては謝罪と今後の改善を約束


 ※交渉の現状:


 ・双方一歩も譲らず

 ・イギリス側は、日本の『陰謀』説を突飛な憶測とみなし、証拠の提示を求める

 ・治外法権を理由に、租界内捜査への協力を拒否

 ・日本側は、真相究明なくして謝罪と賠償には応じられない姿勢





「イギリスは完全に否と申しておりますが、それがしはやはり、逃げおおせた二人の外国人が、この交渉において重きをなすかと考えますが、それによっては賠償そのものがなくなります」


「! 賠償がなくなると?」


 信正と純顕は仰天した。加害者側から一転、賠償しなくてもよくなるからだ。考えもつかなかった事である。


「は。然れど証拠がまったくございませぬ。ただ……もしイギリスが謀をもって二人を雇い、密かに船に乗せて上海に逃したとすれば、発砲のあと一目散に逃げた事も合点がいきまする」


「何のために?」


「賠償金と条約の話にござりましょう。加えて列強の中にて己が主導を握り、取り計らいたい所存ではないかと存じます」


 植民地で、そして隣国である清に対してイギリスがやってきた事を知っている。あってはならない事ではあるが、十分あり得る事として、二人は次郎の言葉に納得したのである。


「然れど確たる証拠がないゆえ、イギリス側にも強く申せませぬ。ここは一つ、お願いがございます。これで万事抜かりなく、とは申せませぬが、少なくとも揺さぶりはかける事ができましょう」


「なんだ?」


「は、わが家中の商船川棚丸を、御公儀の船として上海に遣わしたく存じます」


「上海に?」


「然に候。そこで先に上海を見聞中の勘定方のお役人や長州の高杉晋作、佐賀の中牟田倉之助、薩摩の五代友厚らと落ち合い、二人の外国人の行方を捜すのです」


 歴史とは違うが、大村藩の商船玖島(くしま)丸と幕府の商船千歳丸の二隻は、今年の4月に川棚から長崎をへて上海に向かっていたのだ。


「証拠が見つかるであろうか?」


「見つかれば重畳、見つからなくとも失う物はありませぬ。通達していなかったとはいえ、日本における大名の行列での慣習は、公使ならば知っているでしょう。それに此度(こたび)は幸いにして死者はおりませぬ。正しき対応をなされば、御公儀の権も失する事はありませぬ」





「あい分かった。此度の交渉はお主に任せておる。事前と事後にこうやって話をしてくれればよい。頼むぞ」


「ははっ」





 ■薩摩藩邸


「四郎よ、会談の進み具合はいかがか」


 島津久光は藩邸の居室に腹心の市来四郎を呼んで聞いた。


「は、双方譲らず、イギリスは公儀とわが家中に謝罪を求め、賠償金の支払いを要望し、家中の者を差し出せとわめいているようにございます」


「馬鹿な! なにゆえ郎党を差しだし、謝罪をした上で賠償金なぞ払わねばならぬのだ。いかに外国人とはいえ、この日本の慣習は知っておろう。日本において起きた事は、日本の法で裁けば良いではないか」


 久光の考えは現代の考えから言うと飛躍しているが、このような場合にどう裁くかなどは、条約では決まっていない。一方的に日本の法で裁くこともできないし、外国の法も同様である。


 法整備の甘さがこの事件を長引かせる事になるのだが、当事者の久光は謝罪も引き渡しも、もちろん賠償金ものむつもりはなかった。





 ■イギリス公使館


「いかがでしたか?」


「いかがも何も、まったく話が通じない。謝罪と賠償金は認めるものの、真相の解明がどうのと、事件と関係のない事ばかりを言って引き延ばそうとするのだ」


「真相の解明?」


 ニールは横浜領事の問いに答え、会談の内容を話していた。


「そうだ。君は事件当時、身元不明の二人の……ヨーロッパかアメリカかはわからないが、その二人が発砲して逃げたのは聞いたか?」


「はい。風の便りで聞きました」


「それが単なる旅行者ではなく、何者かが問題を起こすために雇った工作員ではないか、と日本は言うんだよ」


「なんと……」


 横浜領事は突飛な発言に戸惑うも、真剣に聞いている。


「いやいや、そんな事はどうでもいい。とにかく早急に決着をつけようと考えている。だが、念のため……明日出港の外国籍の上海行きの船はあるかね?」


「え? そうですね。確認しなければなりませんが、おそらくあるかと」


「では急ぎ上海へ使者をやろう。もし逃亡した二人らしき人物が見つかったら、こちらで早く確保して足がつかないように口止めをしておかなければ」


「わかりました!」


 領事は急いで人選にあたり、港へ人をやったのであった。



 


 ■上海


 高杉晋作は埠頭(ふとう)に立ち、目の前に広がる異国の街並みを見つめている。租界地には西洋風の豪華な建物が建ち並び、イギリスやフランスの商人たちが闊歩(かっぽ)していた。


「晋作殿、あれをご覧ください」


 中牟田倉之助が指さす先には、ボロをまとった中国人の労働者たちが重い荷物を運んでいる。


「ふむ……」


 晋作は眉をひそめた。


「列強に支配された港町の実態がこれか。繁栄の陰で民は困窮しているというわけだ」


「太平天国の乱の影響で、街の外はさらに混乱していると聞きました。清朝の統治も及んでおりませぬ」


 傍らの五代友厚が小声で応える。


「我々の持ち込んだ商品も、この状況では……」


 根立助七郎が心配そうに(つぶや)いた。


「日本が、このような(てつ)を踏むような事があってはならん。列強と条約を結んでいるとはいえ、海防を強化し、速やかに近代化を進めねば……」


 晋作はわかっていた。


 大村藩への遊学中に西洋の技術力と日本との大きな差を知り、攘夷(じょうい)の愚かさを見聞して自らも体験して知っていたが、実際に上海の街を見渡してみると、その悲惨さは想像以上であった。





 いま日本でどんな事が起きているのか、彼等には想像もできない。





 次回予告 第289話 『交渉の糸口』

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