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第274話 『名を取るか、実を取るか。あるいはその両方か』

 文久二年二月十九日(3/19) 交渉2日目


「サハリン(樺太)……ですか? それが何か?」


 ゴシケーヴィチはそうとぼけたが、それが割譲を意味しているのは明らかである。現在樺太は日露の雑居地であり、国境線は定めていない。それがためにロシアによる日本側油田採掘施設の襲撃につながったのであった。


「領事、私はこの際、両国の領土問題も片付けておきたいと考えています」


 次郎は『割譲』という直接的な言葉を使わずに、それを匂わせる発言でゴシケーヴィチの反応を見たのである。厳密には樺太はロシア領ではないのだから、全ての権益の放棄と言った方が正しいだろう。


「サハリンの件とは……つまり、今後あのような事件が起きないように、明確に国境線を策定する、と? しかしそれは今回の対馬の賠償の件とは別問題かと思いますが」


 ゴシケーヴィチは言葉を濁したが、この会談から樺太の話題を除外したいのがわかる。


「確かに別問題です」


 次郎は静かに言った。録音機の回る音だけが、その言葉の後の沈黙を埋める。


「しかし、領事。この機会に明確な境界を定めなければ、また同様の事態が起こる可能性は否定できません」


 ゴシケーヴィチは軽くせき払いをした。次郎が言うことはもっともだが、話を大きくしたくはない。そのしぐさには、話題を変えたい焦りが見え隠れしていた。


「太田和殿、昨日の賠償金の件についてですが、30万ドルと言いましたが……実は私の裁量で増額が可能です」


「ほう? それはいくらですか」


 最初の30万ドルはギリギリのラインでのブラフだったのだろうか? いずれにしても金額を上げられるのであれば、次郎にとってデメリットはない。


 ゴシケーヴィチとしても樺太の話題は避けたいのだろう。より問題が複雑になる。


「40万ドルまでなら」

 

 ゴシケーヴィチは慎重に言葉を選びながら続けた。

 

「本国からの追加的な承認なしに、私の判断で」


「なるほど」

 

 次郎は腕を組んだまま、じっと相手の表情を観察した。

 

「領事、昨日は30万ドルが限度だと、かなり強い口調でおっしゃいましたが」


 ゴシケーヴィチの額に薄い汗が浮かぶ。実際には30万ドルという発言は強い口調などではなく、絞り出した答えであった。

 

「その……それはまさに、次郎殿のおっしゃる通り、私が全権を持っているからです。昨日の30万ドルという発言は、おわかりでしょう? サハリンが協議の場に出てくる前の金額です」


「……」


「……」


「なるほど」


「はい。この金額であれば、サハリンの件を含めないという条件付きでお支払いできます。いかがでしょうか。この金額がわが国としては精一杯の金額です」


 ゴシケーヴィチは深呼吸をし、居住まいを正して言った。


「領事」

 

 そう言って次郎は静かに続ける。

 

「つまり、樺太問題を置いておけば40万ドル。樺太問題を含めれば30万ドルということですか?」


「そうではありません。サハリンの問題は今回の対馬の件とは無関係です。含む含まない以前に、この協議には存在しませんでした。太田和殿の発言でサハリンが出てきましたが、だからと言ってサハリン問題を含めて30万ドルという条件は成立しません。そもそもなかったのですから。ですから原点に戻って、今回の対馬における賠償金として、40万ドルでご了承いただきたい」


 そもそも樺太問題と対馬問題は別で、ここで樺太を議題に出すこと自体がおかしいと言いたいのだ。


「領事、私が樺太の問題を出したのは、今回の事件の本質的な問題を解決するためです。賠償金の額を上げることで、この本質的な問題から目を逸らすことはできません」


 ロシアが日本を軽んじ、国同士で交わした条約を無視した行動をとったために、今回の事変が起きた。確かにどれだけ賠償金を払おうが、今後同じようなことが起きないとは言えない。


「太田和殿、賠償金の金額の増減と、本質を見る見ないことに因果関係も相関関係もありません。対馬での事件と樺太は、まったく性質の異なる問題です。一つの会談ですべてを解決しようとするのは現実的ではありません」


 樺太を問題に含めるか含めないかについては、ゴシケーヴィチも一歩も引かない。賠償金の金額決定交渉とは違うのだ。ロシアの極東における国家戦略に関わる問題である。


 ゴシケーヴィチは自暴自棄になっているのだろうか?


 いや、そうではない。


 元来樺太の領土問題と対馬占領による日本国民殺害事件は、別々の問題である。


 広義で考えれば同じとも考えられるが、直接的な要因ではない。


 イギリスの対馬租借を危惧したロシア政府が、領主との交渉でなら問題ないだろうと、既成事実を積み上げて租借にこぎ着けようとした経緯があったのだ。


 次郎は腕を組んだまま、思考を巡らせる。


 確かにゴシケーヴィチの主張は正論だと考えられなくもない。樺太と対馬は、表面的には別個の案件である。しかし、その根底には共通の問題がある。


「領事、対馬での事件は、貴国が我が国の主権を軽視した結果ではありませんか」


 ゴシケーヴィチは押し黙って何も答えない。


「対馬では、領主との直接交渉で問題を解決できると考えた。樺太では、日本の権益など無視して行動した。この二つの事件には、共通の認識が見えます」


 次郎は静かに、しかし芯の通った声で続ける。


「貴国は我が国を、一つの主権国家として見ていない。これこそが本質的な問題です。いくら賠償金を積み増しても、この認識が変わらなければ、また同じような事態が起こるでしょう」


 これに関してはゴシケーヴィチは即座に回答した。


「それは違います。どうやら見解の相違があるようですが、そもそも主権国家と認めていなければ、和親条約など結びません。70年前から今まで、それは変わりません。それよりも……」


 ゴシケーヴィチの表情が変わった。


「そこまで強硬にサハリンにこだわるならば、貴国はこの交渉をまとめる気がないように見受けられますが、いかがですか? こちらは正式に謝罪し、金銭で解決できるならばと、40万ドルまでは支払うと言っているのです。……これ以上は無理なのです。もしこれ以上を望むのならば、交渉決裂となります。決裂となったならば、その先は、もうおわかりでしょう?」


 次郎は表情を変えずにゴシケーヴィチを見つめる。


『その先』とは、列強を巻き込んだ国際問題に発展することを示唆しているのは明らかだった。


「領事」


 次郎は冷静に切り返す。


「私が樺太にこだわるのは、将来の紛争を防ぐためです。ところで、貴国はなぜ、樺太問題を議論することをそれほど避けようとするのでしょうか」


 ゴシケーヴィチは僅かに表情を強張らせた。


「対馬と樺太は別問題だからです。それに、これはあくまでも仮にの話ですが、サハリンで明確に国境を決めたとしましょう。それが事件の再発を防ぐ要因にはなり得ないと思います」


「どういう事でしょうか?」


 次郎はゴシケーヴィチの本心を探るために聞き返した。


「貴殿は我が国に対し、和親・通商条約ならびに露日領土主権条約を破ったとして非難されました。なるほど確かに、我が国は破ったかもしれません。その点については何度もお話しているように、謝罪と賠償しかありません。しかしそれならば、変な言い方ですが、サハリンにおける国境を策定し、なんらかの条約を結んだとして、お互いがそれを破らないと言えますか?」


 その言葉に、次郎は眉を寄せた。


「つまり領事は……条約など意味がない、と仰るのですか」

 

 次郎は冷静さを保ちながらも、声に力が籠もる。


「そうではありません」

 

 ゴシケーヴィチは首を振る。

 

「私が申し上げたいのは、結局は信頼に基づくものだと言う事です。今回の対馬の事件に関しては、何度も言いますが、我が国に非があります。それを認めた上で、今後あらためて信頼を築いていきたいという事です。それを行うにあたって、サハリンの領土問題は前提ではありません。今ここで決めなくても、何の問題もないのではありませんか?」


「領事、貴殿は全権として、この交渉を解決する権限をお持ちです。その範囲には、解決に必要な条件を定める権限も含まれているはずです」

 

「その通りです。しかし私には、貴殿がいたずらに問題を大きくし、この事件の解決を遅らせ、過大な要求を我が国に認めさせようとしているように感じるのですが」


 ゴシケーヴィチも引かない。


「もし……」


「もし?」


「もしそうならば、解決の意思なしとして、つまるところその解決手段として、貴国は我が国と戦争も辞さないという意向だと、受け取らざるを得ない事になります」





「……戦争、ですか。ロシアは我が国と戦争を望んでいるのですか?」


 川路と竹内が身を乗り出し、戦争という言葉が、部屋の空気を一変させた。





 次回 第275話 (仮)『戦争か? 賠償と領土』

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