39.恋愛音痴ではない私の恋愛
リチャード殿下から返答の期日とされていたその日。城内はやけに静まり返っていた。
無理を言ってヘンリーの同席を許可してもらったのだけれど、隣にヘンリーがいてもなお、私の心臓は痛いくらいに脈打っている。
「レイ様、大丈夫ですか?」
「……あんまり大丈夫じゃない。ものすごく緊張してる」
もちろん、この世界を選んだことに、元いた世界に二度と戻らないと決めたことに、後悔はしていないつもりだ。
けれども、二十年以上生きてきた世界、そして家族や友人との別れを前に、平常心でいるのは難しかった。今回に関しては、それが〝受け入れざるを得ないどうしようもないこと〟ではなくて、自分自身の決断の結果なのだから、余計に。
そんな私の心の葛藤を、おそらくヘンリーは見抜いたのだろう。
彼は「触れますね」と一言断った後、私の左手をぎゅっと握りしめた。
「以前にもお伝えしましたが、私は『愛が全てを解決してくれる訳ではない』と考えています。ですが、『愛があれば人生はさらに豊かなものになる』とも信じています。……この世界を選んでくださったこと、私の隣を望んでくださったこと、後悔はさせません」
そう言って微笑むヘンリーの優しげな視線に、私よりも少し高い彼の体温に、私は身体の強張りが和らぐのを感じる。
私は、歌劇の主人公ではない。
だから私は、やっぱり愛だけに生きることはできない。恋人であるヘンリーが私の全てではないし、彼以外を捨てて逃げることもできなければ、彼に私以外の全てを捨てさせることもできない。
けれども、〝ヘンリーの恋人である自分〟という要素も、今の私を形作っているものの一つであり、私はそんな自分をとても好ましく思っている。ヘンリーと今のような関係を築けた自分を、心の底から誇らしく思っている。
そして私は、彼と今のような関係を築けた私を、もう恋愛音痴だとは思わない。
「……ありがとう」
私のその呟きに、ヘンリーは「こちらこそ」と返事をした。
「ヘンリーと出会えて、本当によかった。私のこと、好きになってくれてありがとうね」
「……どうしてそのようなことを今言うのですか。現時点ではまだ王太子の側妃候補であるレイ様に、私は手出しすることができないというのに」
苦々しげな表情でそんなことを言うヘンリーに、笑いながら「ごめんごめん」などと言っている時だった。
「遅れてすまない」
その言葉と共に部屋に現れたリチャード殿下は、随分と疲れ果てた様子だった。
立ち上がろうとする私達を手で制し、テーブルを挟んで向かい側のソファーに腰掛けた殿下は、「はあ」と大きく息を吐くと、なんの前置きもなく口を開いた。
「結論から言うが、あの話はどうやら白紙になりそうだ」
その言葉を聞いて、私とヘンリーは思わず顔を見合わせる。
「〝あの〟と言いますと、『聖女をかの国に献上する』という話で合っていますでしょうか?」
「ああ、そうだ」
振り回すことになって申し訳ない、と深々と頭を下げるリチャード殿下に対して、すぐにでも頭を上げるよう伝えるべきなのだろう。けれどもそんなことを忘れてしまうくらいに、私は混乱していた。
「……何があったのですか?」
「実は『聖女をかの国の王太子妃に』という官僚達の動きが漏れたらしくてね。多方面から抗議が殺到しているのだよ」
「抗議……と言いますと?」
「元々、王宮内で働く者を中心とした嘆願書が提出されていたんだ。『聖女様の働きを国民に広く正しく伝える場を設けるべきだ』と」
殿下によると、聖女をかの国に献上すべきか否かという話とは無関係に、「聖女様をぞんざいに扱いすぎているのではないか」という不満の声が上がっていたらしい。そんな中、今回の官僚達の動きが知られることとなり、嘆願書の署名数は無視できないほどの数になったという。
「代表者の欄には、元執事のルークの名が記されていたよ」
リチャード殿下から聞かされたその内容に、私の口からは「ルークが……」という言葉が漏れ出てしまった。
その言葉は好意的な色を帯びていたけれど、殿下はそれを咎めることはしなかった。
「加えて、王宮兵団からも通告があってね。『聖女様の意に沿わない行為を強制するのであれば、我々は武力をもって聖女様をお護りすることも厭わない』とのことだ」
「……クーデターということですか?」
「まあ、いきなりそこまでのことにはならないだろうがな」
殿下はそう言って薄っすらと笑うと、「けれども彼らは本気だ」と続けるものだから、私は喜べばいいのか恐れればいいのかわからず、顔を引き攣らせることしかできない。
「ちなみに、通告書の筆頭は兵団長になっていたが、それを届けに来たのは近衛兵のウィリアムだ。必要以上に言葉を発することはなかったが、全身で我々を非難しているようだったよ」
王太子に対する態度として、ウィリアムのその態度が褒められたものでないことは明らかだし、武力行使を仄めかせることが良いやり方だとも思っていない。
けれども、かつて私に嫌悪感を抱いていたウィリアムが、今は私のために腹を立ててくれていることに、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
「そして決定的なのは、今朝早くに届いたかの国の国王からの手紙だ。そこには『異世界から呼び寄せた聖女に対して不誠実な振る舞いをすべきではない』と、こちら側の行動にやんわりと釘を刺すような内容が記されていた」
「かの国の国王は、すでにそのことをご存知だったのですか?」
「いや、こちらからはまだ何も伝えてはいない。だが、かの国の王族の一人が、相談役であるノアと旧知の仲らしい。彼の人脈の広さは侮れないな」
殿下はそのままソファーの背もたれに身体を投げ出すと、「君は愛されているね」と言って、嬉しそうに目を細めた。
「そんな……」
「いや、謙遜する必要はない。彼らが動いたのは、君を助けたかったからだろう。彼らの行動も、君の今までの働きがあったからだよ」
リチャード殿下はそう言うと、私の隣に座るヘンリーへと視線を移す。
「ヘンリーも、そうだろう?」
「……まあ、そうですね。もしも彼女が〝お飾りの聖女〟であれば、私はこれほど彼女に肩入れしていなかったでしょうから」
ヘンリーはそう言いながら、私の腰へと手を回す。あまりに自然な流れだったので、私はついつい受け入れてしまったのだけど、そんな私達を見て、リチャード殿下は呆れたような表情を浮かべる。
「一応、王太子の前だぞ」
「もちろん、それは存じあげております。ですが、今のレイ様は私の恋人であって、殿下の側妃候補ではありませんから」
「……おまえは恐ろしい奴だな」
リチャード殿下はそう言うと、飄々とした態度のヘンリーと赤面する私とを見比べ、心底面白いというふうに声を上げて笑うのだった。
次回最終話です。




