36.モブキャラクター(※専属侍女)の気掛かり②
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不思議な夢を見た。見知った人ばかりが出てくる、私にとっての現実と非現実が入り混じった夢だった。
内容は、正直あんまり覚えていない。私視点で進む夢でありながら、主役は私ではなく、さらには幸か不幸かわからない、なんだか複雑な夢だった気がする。
そんな夢を見たせいで、「いまいちすっきりしないなあ」という思いを抱きながら、レイ様の専属侍女である私は、その日もいつもと変わらない一日のスタートを切った。
しかし、その日が〝いつもと変わらない一日〟ではないことに気がついたのは、業務開始後すぐのことだった。
前の世界では平民として暮らしていたレイ様は、私達にすら寝起き姿を見られることに抵抗があるようで、一人での着脱が不可能な場合を除いて、着替えやメイクは全て自身の手でなさる。加えて、ここ最近はレイ様にとってストレスを与えるような話題が尽きないこともあり、ヘンリー様からは「公務がなければゆっくり寝かせてやるように」とも言われている。
そういう事情もあって、私がレイ様の不在に気がついたのは、朝の八時を少し過ぎた頃だった。……もちろん、それらは全てただの言い訳にしかならないけれど。
「レイ様、そろそろご朝食のお時間ですが……」
その呼び掛けに対して、いつもなら「はーい、入ってー」と、明るい声が返ってくる。しかし今朝は、なんの反応もなかった。
どんなに前日の公務が遅くまでかかろうとも、レイ様が寝坊をすることなどなかったものだから、その時点で「おかしいな」とは思った。
「レイ様、お疲れのところ申し訳ありません。ご朝食のお時間です」
そんなふうに呼び掛けながら何度か扉を叩くけれども、部屋の中から反応はなく、それどころか人の動きすら感じられない。
「レイ様、失礼いたしますね」
そう言って扉を開けた私は、内心とても焦っていた。
少し前から思い詰めたような表情をされることの多いレイ様は、心労のせいか身体もひと回り小さくなっていて、侍女の間では心配の声も挙がっている。「倒れているのではないか」と思うのは、当然の流れだと思う。
けれども、レイ様は倒れてなんていなかった。そもそも、彼女は部屋の中にいなかったのだから。
そして、テーブルの上には『ありがとう、楽しかったわ』と書かれた紙。それは、間違いなくレイ様の手で書かれた文字だった。
今すぐにでも叫び出したい程には混乱しているものの、何が起こっているのかがわからない状況で、無闇に騒ぎ立てる訳にはいかない。
私から説明を聞いたヘンリー様も、同じように考えたのだろう。
「……とにかく、手分けして王宮内を見て回りましょう」
彼から告げられた言葉はいつもとなんら変わらないように思われた。しかしその瞳が僅かに揺れるのを、私は見逃さなかった。
◇◇◇
王宮内、レイ様が行きそうなところは隈なく探したはずだけれど、結局私は彼女の姿を見つけることはできなかった。
「いかがでしたか?」
少し遅れて戻って来たヘンリー様の硬い表情から、良い返事が返ってくるとは思えなかったけれど、それでも私はそう聞くほかにない。
「レイ様の姿は、どこにも」
ゆるゆると首を振りながらそう言うヘンリー様は、そこで周囲を確認し、さらに声の音量を下げる。
「……実は、使用人の一人が今朝早くにレイ様を見かけたようです。早足で厩舎の方に向かっていた、と」
「厩舎ですか? 外に出られたということでしょうか?」
「確認したところ、厩舎の馬が一頭いなくなっています。馬具も一揃いなくなっているので、おそらくは」
ならばレイ様は、簡素な手紙だけを残して城から去って行ったというのだろうか?
レイ様の置かれた状況を考えると、あり得ない話ではないのかもしれない。別世界で平民として暮らしていた若い女性が、いきなり聖女としてこの世界に召喚されたのだから、きっと気苦労も多いだろう。加えて、ここ最近は彼女に更なるストレスを与えるような話も浮上しているらしい。
「どうして私が?」と考えたって不思議ではないし、聖女としての暮らしに嫌気がさしたとしてもおかしくない。
けれども、私がこの一年半仕えてきたレイ様が、そんなことをするとも思えなかった。
〝平和の象徴〟として心穏やかに……赤裸々に言えば問題を起こさずに過ごしてもらえさえすれば良いと考えていた私達に対して、「精一杯務める」と言ったレイ様が、そして実際に様々な案を打ち出してきたレイ様が、残された者達のことも考えずに城を出るというのは考え難い。時にそれが彼女自身の首を締めてしまうのではないかと不安になるくらい、レイ様は責任感の強い人なのだから。
私達使用人に対しても丁寧に、そして友好的に接してくれるレイ様が、紙切れ一枚で別れを告げるというのも、いまいちしっくりこない。
私の目に映るレイ様がそんなだから、「無闇に人を疑うべきではない」とは思いつつ、どうしても考えてしまうことがある。
朝から姿が見えないのは彼もだ、と。数日程前から時折仄暗い雰囲気を漂わせていた彼の姿も、私は朝から目にしていないのだ。
「あの……ルークの姿も見えないのですが」
意を決してそう告げると、ヘンリー様が息を呑むのがわかった。
「……おそらくルークも、レイ様と共にいるのでしょう。レイ様が何かを頼む相手として、ルークは最初に候補にあがる人物でしょうから」
ヘンリー様の言う通り、ルークとレイ様が一緒にいることはほぼ確定だと思う。ルークがレイ様を慕っていることは城中の人間が知っているし、そんなルークをレイ様もとても信頼しているように見える。さらに、近衛兵のウィリアム様の代わりに護衛の役割を任されることもあるくらいに体術の腕が立つルークは、それだけでも城から逃げ出す際に連れて行くにはぴったりの相手だ。
だから、普通に考えれば、レイ様が彼と行動を共にしていることを喜ぶべきだと思う。けれども私は、レイ様と共にルークが姿を消していることに、言いようもない不安を感じている。
二人の間には確固たる信頼があるから。それは、ルークが「レイ様は僕の妹みたいなもの」と公言している通り、家族愛のような形をしているから。
……恋愛感情でないことは明らかだけれど、そこにあるのは間違いなく愛。ルークの考える愛情の形を知ってしまっているから、私はそれが恐ろしくて仕方がない。
「本当に、レイ様がルークを連れて行ったのでしょうか?」
そう問い掛ける私の言葉は、震えていた。
本当に、彼はレイ様から依頼されてついて行った側なのだろうか? 彼は、全てを捨ててレイ様を選ばされた側なのだろうか? 全てを捨てて、全てを捨てさせて、愛する人だけを連れて逃げるという行動が似合うのは、むしろ彼の方なのに。
もちろん、それはただの憶測だ。「なんとなくそんな気がする」程度の、根拠のない憶測だ。だから、軽々しく発言すべきでないことはわかっている。わかっているからこそ、私はそれ以上は言わなかった。
けれども、目の前に立つヘンリー様の顔から血の気が引いているのを見て、彼も同じように考えているのだろうということに気づいてしまった。人の心の機微に敏感で、論理的な考え方をする彼が同じように考えているということが、今の私にとっては絶望だった。
「……現状わかっていることは、二人の姿が見えないということと、何者かによって力づくで連れ出された訳ではないということです。何も明らかになっていない現状で、我々が慌てるべきではありません」
ヘンリー様のその言葉は、私だけに向けられたものではないように思われた。無理矢理に感情を押し込めて、自分自身に言い聞かせている言葉のように感じられた。
身体の横に真っ直ぐとおろされたヘンリー様の拳は、色が変わるくらいに強く握られている。その手のひらには爪の跡がついてしまっているのだろうなと、私はぼんやりとそんなふうに思った。
◇◇◇
「日付が変わるまでは、一旦待ちましょう。大事にしてしまうと、後々レイ様がお困りになるかもしれません」
ヘンリー様からの提案に、私は首を縦に振る。
幸いにも、少し前からヘンリー様がレイ様の行動を制限していたおかげで、レイ様の不在を周囲に気取られることはなかった。三週間前、「どこで何があるかわからないので、レイ様はなるべく部屋からでないように」とヘンリー様が言い出した時には、そこまで過保護にするのはいかがなものかと思ったけれど、今回に関してはよかったと言うほかない。
私達は、レイ様の部屋でひたすら祈った。「どうかこの行動が、レイ様の意思によるものでありますように」と。「どうか彼が、道を踏み外していませんように」と。
それはそれは、長い一日だった。今後の私の人生の中でも、これ程に時間の経過が遅く感じる日はないだろうなと思うくらいに、長い長い一日だった。
かちゃり、という音が聞こえたのは、時計の両針が間もなく真上を指そうとしている、まさにその時だった。
「ただいま……」
恐る恐るといった様子で部屋に入ってきたレイ様の姿を、私は一瞬しか見ることができなかった。
部屋に入るなりヘンリー様に正面から抱きしめられ、彼の身体にすっぽりと覆われてしまったレイ様は、それでもヘンリー様の腕の中から「心配掛けてごめんね。夢中になって遠くまで行きすぎてしまったの」と言った。
「……心配しました。ご無事で何よりです」
レイ様の方を向くヘンリー様の顔は、私からは見ることができないけれど、その言葉は弱々しく掠れている。おそらく泣いているのだろうなということが、後ろ姿からでもわかった。
恋人を抱きしめながらぐずぐすと涙を流す男性と、そんな恋人を宥めるように優しく背中をさすり続ける女性。それは、歌劇や物語の中で理想的だとされる姿からは程遠い、ありのままの恋人同士の姿だ。
けれども私には、目の前の二人が童話で描かれる王子様とお姫様と同じくらいに、眩しく素敵なもののように見える。
レイ様と共に部屋へと入って来たルークは、いつの間にか私の隣へと移動していた。彼は、抱き合うレイ様とヘンリー様を見つめながら、どこかほっとしたような表情を浮かべている。
どうして彼がそんな顔をしているのか、私にはわからない。けれども、ここ数日彼が纏っていた仄暗い雰囲気がなくなっていることに、私は心の底から安堵するのだった。




