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35.モブキャラクター(※専属侍女)の気掛かり①

 初めて私が彼に恐怖を抱いたのは、歌劇の世界では最も人気を博する恋愛物語についての話をしていた時だったと思う。

 敵対国の王子と王女が恋に落ち、最終的には全てを捨てて二人で共に生きていく……という内容のそれについて、「物語としてはロマンチックだけど、実際にそんなことが起こったら大変だよね」という話を、休憩時間に仲の良い同僚としていたんだと記憶している。


「そうだよね、考えただけでぞっとする」

 そんなふうに言いながら笑い合っていたのは、それが絶対にありえないことだと考えていたから。そうでなければ、王宮の侍女として働く私達は、その話を楽しむことなんてできない。それがフィクションだから二人の仲を応援できるし、感動の涙を流せるけれど、もしも現実に起こりえることならば、きっとその国の侍女に同情して別の意味で泣いてしまうだろう。


 だから、私達の元に「なんの話?」と言いながら合流してきた彼も、きっと同じように考えると思ったのだ。彼も私達と同様に王宮で働く人間なのだから、きっと共感してくれるだとろう、と。

 けれども、彼は私達の話を聞いて、きょとんとした表情を浮かべた後で、こう言い放ったのだ。

「あの話、僕は理想的だと思うなあ」

 大真面目な顔でそう言う彼は、その物語に出てくる愛情の形を、本気で理想的だと思っているらしかった。それは、「物語として素敵だよね」という意味ではなく、「現実世界においても愛情とはそうあるべきだ」いう意味で。

 さらに言うならば、「二人の愛を貫き通すためならば、多少の犠牲は仕方がない」と、そう考えている気配すら感じた。


「本当に大切な人のためなら、僕は全てを捨てられるよ。愛ってそういうものじゃないの?」

 彼はそう言って満面の笑みを浮かべた。その笑顔は大型犬を思い起こさせるような人懐っこさを湛えていたけれど、その時の私は背筋がぞくりとするのを感じた。なんの疑いも、ひとかけらの悪気もなく、そんなふうに言い切ってしまえる彼が、心底恐ろしかった。


 異世界から聖女様が召喚されたのは、そんな会話からしばらく経った頃だった。

 聖女様を召喚するにあたって、年が近いという理由から、私は聖女様の専属侍女に任命された。そして、自ら志願したという彼が、執事兼教育係という役割を担うことになった。それを聞かされた時、私はただ「ふーん」と思った。

 召喚の場に立ち会う時ですら、私はなぜか冷め切っていた。聖女伝説は、この国の者なら知らない者はいないだろうというくらいに有名な伝承ではあったけれど、召喚の儀を眺める私は「伝承通りのことが起こるのだろうか」と、正直半信半疑だった。だから、魔法陣が光るのと同時に、その中央に見慣れない格好の女性が本当に姿を現したことには、度肝を抜かれた。

 けれども、それだけだった。広間の中央でぷるぷると震えながら、この世界の全てに怯えているような聖女様を、私はただただ遠巻きに見つめ続けた。


 聖女様は、すぐに執事である彼に懐いた。

 突如として知らない世界に連れてこられた聖女様は、この世界の全てを怖がり続けたし、それは私達に対してもだった。元々の性格もあるのかもしれないが、彼女は一向に私達と距離を縮める気がないようだった。

 そんな状態で、なぜか彼にだけは心を許している聖女様を、彼は心底可愛がっていた。


 はじめのうちは、聖女様が彼に依存していたはずだ。彼の姿が見えなくなると、途端に不安げな表情を浮かべる聖女様に対して、彼は「少しずつ他の人にも慣れていきましょうね」と言っていたような気がする。

 けれども、ある日私は気がついてしまった。徐々に聖女様が周囲との関係を構築する中で、彼が時折仄暗い雰囲気を纏っていることを。

 公務の中でリチャード王太子殿下とお話をされる聖女様、城下への視察時に近衛兵ウィリアム様と馬車に同乗される聖女様、数々の浮名を流す相談役のノア様に揶揄われる聖女様……。彼以外の人間と関わる聖女様に対して、彼は底の見えない闇のようにどんよりとした瞳を向けていた。


 聖女様の食事に毒が盛られたのは、そんな彼の聖女様に対する執着心のようなものに周囲が気づきはじめた頃だった。

 王族と同身分であるというのみならず、〝平穏の象徴〟である聖女様の毒殺未遂事件ということで、「テロ行為に違いない」と言い出す者もいた。

 ただでさえ未曽有の大不況と呼ばれる危機に直面している中でのこの事件は、人々の不安を煽り、そして国内は混乱を極めた。

 幸いにも聖女様の命に別状はなかったが、結局この事件の犯人は捕まらず、責任を負う形で料理長や給仕係、その他多くの者が処罰を受けた。そして、この世界に馴染みはじめていた聖女様は、部屋から出てこなくなった。


 部屋に閉じ籠る聖女様に、私達は「無理もない」と思っていた。命の危機にさらされ、その犯人が捕まっていないのだから、当然だろうと思っていた。時間を置けば、また少しずつ顔を見せるようになるだろうと、そう思っていた。

 しかし、そうはならなかった。

 状況はどんどんと悪化し、やがて聖女様は私達の用意した食事を口にしなくなり、私達が用意した衣服を身に着けなくなった。水を一口飲む時ですら、聖女様は執事である彼を呼びつけるようになり、聖女様とのやり取りは、全て彼を通してのみ行われるようになった。


 毎日の食事を食材から準備し、聖女様に合う衣服を自ら調達する。それに加えて、聖女様からの呼び出しにはどんな時にでも応じる。そんなことを続ける彼に限界がくるのは、時間の問題だと思われた。

 けれども、日々やつれていくように見える彼の瞳だけは、爛々とした光を絶やすことがなかった。


 さすがにこのままではまずいのではないかと思った私が彼に声を掛けたのは、聖女様毒殺未遂事件から三ヶ月が経過した頃のことだ。

「このままだと、あなた倒れちゃうわよ? 聖女様の不安を取り除くために、私達にできることはないかしら?」

 その時の私は、純粋に彼の体調を心配をしていた。そして同じくらい、周囲から彼への評価についても心配していた。


 彼は優秀な人材だ。

 それなりの家柄出身ではあるようだが、家族とは疎遠にしている彼は、ほとんど後ろ盾のない状態らしい。それにもかかわらず聖女様の教育係を任せられるのだから、彼への期待度の高さは誰の目にも明らかだ。……いや、“だった”と言うべきかもしれない。

 というのも、聖女様が自室にこもるようになって以来、彼は聖女様のお世話に全力を注ぐようになったのだ。執事としてのその他の業務、周囲の人間との付き合い、スキルアップのための勉強など、そういったものを全て切り捨てて、聖女様に関する事柄だけに尽力するようになったのだ。

「あいつはもう駄目だな」

 そんな声が、王宮のそこここで聞こえるようになっていた。


 けれども彼は、元々は向上心に溢れる人物だった。

 だから私は、彼も現状に危機感を抱いているに違いない考えていた。聖女様に関連する業務……業務とも呼べないような雑用を減らすことを、彼は望んでいるはずだと、そう考えていた。

 しかし、彼からの返答は思いもよらないものだった。


『大変ではあるけど、幸せだよ。今の聖女様は、僕の用意したものだけで構成されているんだから。今の聖女様は、僕がいないとなんにもできないんだ』

 彼はそう言って、何かを思い出すような仕草をし、そしてうっとりと笑った。

『聖女様にはなんの危険も及ばない。だって、彼女の世界には僕しか存在していないからね』


 その言葉を聞いて凍りついてしまった私が、彼になんと返したのかは覚えていない。

 そしてその後、ついに聖女様の部屋に頑丈な鍵が設置されることになった。その鍵が外向きに設置されていることに、城の人間は誰も何も言わなかった。

 私はその時になってようやく、「大変なのは彼ではなかった」と思い知らされたのだった。 

 ……聖女様がこの世界に召喚されて、もうすぐ二年が経過しようとしている。彼女がどんな生活をしているのか、もはや私達には知りようがない。


 そんな中、私は半年程前に一度だけ彼女の姿を覗き見ることができた。

 開閉された扉の隙間から目にした聖女様は、甘い表情を浮かべながら彼を部屋へと迎え入れていた。艶々とした白い頬を上気させながら、全身で幸福感をあらわにしていた。

 部屋へと入る彼がその時どのような表情をしていたのかは見えなかった。けれども聖女様と同じように、蕩けるような笑みを浮かべているんだろうなと思った。

 私には理解できないことではあるけれど、彼らにとってはこれこそが幸せな暮らしなのだろう。大切な人のために全てを捨て去って、彼らは彼らにとっての真実の愛を手に入れたのだろう。

 しかし私の目には、聖女様の自室が檻のように見えるのだ。甘美で強固な檻に、何も持たずに閉じこもり続ける二人は、やがてそのまま朽ちでいくとしか思えない。


 もしかすると、それは私の考え過ぎなのかもしれない。二人はこのまま、それこそ童話の王子様とお姫様のように、いつまでも幸せに暮らし続けるのかもしれない。

 けれども、二人の間にある愛の形を理解できない私にとっては、どうしても二人の幸せな未来を思い描くことができないのだ。


「他の全てを捨てて、他の全てを拒絶して守り続ける愛情が、あなた達を本当に幸せにしてくれるの?」

 余計なお節介だということくらい、百も承知だ。

 けれども私は、二人が檻から出てくるその日を心待ちにしてしまっている。執事として生き生きと働き、周囲からも期待を寄せられていた彼を知っているから。そして、異世界に必死に馴染もうとしていはじめていた彼女の頑張りを目にしているから。


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