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32.求められているのは私としての決断

「ねえ、ヘンリー。少し話をしたいんだけど、どこかで時間を作れないかな?」

 翌朝。朝一番に部屋へ訪れた彼に、意を決してそう告げる。

「もちろん構いません。一時間程でしたら余裕がありますので、レイ様さえよろしければ今でも」

 ヘンリーはそう言うと、少しかさついた口元を引き上げて弱々しく微笑んだ。


 理由がどうであれ、私はリチャード殿下に「側妃にならないか?」と誘われている身である。そんな現状において、私とヘンリーは恋人らしいやりとりを控えている。別にどちらかが言い出した訳ではないし、誰かから指示をされた訳でもない。なんとなく、そうしなくてはならないような気がしたから。

 けれども、まだ私達が恋人同士であることに変わりはなく、私を中心として発生したごたこたのせいで疲れ果てている恋人(ヘンリー)を見るのは胸が痛む。

「ありがたいんだけど、寝なくて大丈夫? 隈、ひどいよ?」

「お気遣いありがとうございます。ですが、どちらにせよ話の内容が気になって眠れませんから」

 そんな会話をしながら、ヘンリーは使用人に部屋から出るよう促した。私とヘンリー、そしてルークだけが残された部屋を見て、私は「聞かれて困る話ではないんだけどな……」と思った。


 しんと静まり返った部屋の中で、ルークがお茶を用意する音だけが響き渡る。目の前に置かれたティーカップからは、レモングラスのすっとする香りが漂い、部屋の中を満たしている。

「それで、どういったお話でしょうか?」

 ティーカップには目もくれず、私を真っ直ぐに見据えるヘンリーの瞳を見て、胸元の濃灰色のペンダントに思わず手が伸びる。

「……もしもヘンリーが私の立場だったらどうするか、意見を聞かせてもらいたくて」

「どうする、とは?」

「ヘンリーが聖女だったら、今のような状況でどういう選択をするのが最善だと思う?」

 私がそう問い掛けると、ヘンリーはわかりやすく顔を顰めた。

 そんな彼の表情を見て、私は慌てて付け加える。

「もちろん、最終的には自分で決めるよ。参考がてらに聞いておきたいなあって思ったの」

 ヘンリーに選択を委ねるつもりはまるでない。ただ、客観的に見てどうするのが最善か、第三者の視点を知りたいだけ。


 しかし彼は私の言葉を聞いて、視線を僅かに彷徨わせた。そしてすぐに口元をきゅっと結んだかと思うと、鋭い目線をこちらに向ける。

「その質問に答える前に、私からレイ様にお伝えしなければならないことがあるのですが」

 構いませんか、と続けられたその言葉に「もちろん」と返すと、ヘンリーは苦しげにも見える表情を浮かべながら口を開く。


「レイ様が生まれ故郷に帰る方法を、発見いたしました」


 身動きするのもためらうくらいに静まり返った部屋の中で、ヘンリーのその声がやけに大きく響いた。

「王宮の旧書庫にて、とある資料を発見いたしました。私の知る限り、聖女が故郷に帰ったという前例はありませんが、信頼できる内容だと思います」

 目の前で口を動かすヘンリーと、そこから紡ぎ出される言葉に、私は現実味を感じることができなかった。

 そんな中、かつて友人が『今ネットで、とあるバグが話題になってるんだよ』と語っていた内容を思い出す。


『〝旧書庫で資料を手に入れた後、大広間の魔法陣の中心で特定の行動をすると、ステータス値はそのままにゲームを最初からやり直せる〟……だって。まあ、バグだから、ゲームのデータが壊れる可能性もあるみたいだけど』

 誰がこんなの見つけるんだろうね、とけらけら笑っていた彼女を思い出し、背中に嫌な汗が流れるのを感じる。

 もちろん、私も友人も、そのバグを検証することはなかった。けれども、おそらく本当のことだったのだろう。現に、目の前のヘンリーは「信頼できる」と言い切っているのだから。


 衝撃のあまり言葉を発せられないでいる私に代わって、先に口を開いたのはルークだった。

「この国を救うだけ救ってもらっておいて、用が済んだからって追い返すんですか?」

 ルークのその言葉には、そして刺すような視線には、明らかな怒気が含まれている。彼からは怒りのみならず、どろりとした暗さが感じられる。

「そうではありません。私は」

「言い訳は結構です。ヘンリー様がそんなことをおっしゃるとは思っていませんでした」

 目の前で言い争う二人を、私は他人事のように眺めていた。感情を顕わにするルークは何度か目にしたことがあるけれど、今まで見てきたどんなルークよりも、そこにいるルークは知らない人みたいだなと、どうでもいいことを考えていた。


「すみませんが、少し席を外します」

「ルーク、レイ様の前ですよ」

 そんな二人のやり取りに、私は無意識の内に「構わないよ」と言っていたようだ。

 ルークは私に向かって深々と頭を下げると、ヘンリーを物凄い形相で睨みつけ、そのまま部屋を後にした。


 ばたんと、いつもより乱雑に閉められた扉に目をやり軽く溜息を吐くと、ヘンリーは「申し訳ありません」と静かに謝罪した。

「気にしないで、大丈夫」

 そう言って無理矢理口角を引き上げると、ヘンリーはソファーから立ち上がって私の傍で跪いた。

「……レイ様を追い返そうだなんて思っていません。ただ私は、『聖女という地位を捨てることもできる』ということが言いたいのです」

「それは、あまりにも無責任すぎない?」

 この世界において、聖女は王族と同等に扱われる。同等に扱われるということは、同等の働きが求められるということ。そのような勝手が許される訳がない。


 しかしヘンリーは、私の答えを聞いて顔を歪めた。心底悲しそうで、何かを悔いているような、そんな表情だった。

「レイ様の責任感の強さは美点です。我々はそれによって、随分と助けられてきました」

 ヘンリーは呟くようにそう言うと、私に向かって手を伸ばした。しかしその手は、私に届く前に不自然に空を掴み、ゆっくりと下におろされる。

 そんなヘンリーの様子を見て、私は「いつか見た光景だな」と、悲しく物足りない気持ちになる。

 けれどもそんな私の気持ちとは対照的に、私を覗き込むヘンリーの視線は、いつの間にか強く鋭いものに変わっていた。


「先程のご質問の答えですが、もしも私がレイ様の立場であれば……レイ様のように同意も無く急に別の世界に連れて来られ、聖女として尽力したにもかかわらず、国民はおろか官僚達からもその功績を軽視されているような状況であれば、そんな国は見限ってしまうかもしれませんね」

「そんなこと……」

「いえ。全員がそうだとは言いませんが、事実でしょう。レイ様にも、心当たりがあるはずです」

 ヘンリーのその言葉と共に、私の頭の中には何人かの人物の顔が思い浮かんだ。その中には、ノアの結婚パーティーの日に目にした名前も知らない一般人まで含まれていて、今更になってその時の言葉が私の心の奥底に残っていることに気がついた。


「もう一度、お伝えさせていただきます。レイ様が、これから()()()()()()どのように生きていきたいのかを、どうかしっかりとお考えください。私は、これ以上レイ様に犠牲になってほしくはないのです」

 ヘンリーはそう言うと、深々と頭を下げた。彼の両手が強く握りしめられているのを見て、私は「きっと彼の手は暖かいに違いない」と思った。

 

 ◇◇◇


 項垂れたルークが部屋に戻ってきたのは、ヘンリーが退室してすぐのことだった。

「すみません、ついカッとなってしまって。執事失格ですね」

 そう言うルークは意気消沈していたものの、私の知っているいつものルークだった。

「ううん、気にしないで。ルークが怒ってくれたのは嬉しかったから」

「……あんまり甘やかさないでくださいよ。僕がお兄ちゃんなのに」

 その言葉に声を出して笑うと、ルークは控えめに笑った後で新しいお茶を用意してくれた。


「あのさ、私気づいちゃったの」

 テーブルにティーカップを置くルークの手元を眺めながらそう言うと、ルークは先を促すように軽く首を傾げた。

「……イザベラ様のお考えにモヤっとしたの、同族嫌悪だったんだね。私、自分が犠牲になってもいいって考えてるの、気がついてなかった」

 私がそう言うと、ルークは静かに息を呑んだ後で、「自覚なさったんですね」と呟くような口調で発した。


 その後、部屋には気まずい空気が流れた。ルークと二人きりになる機会なんて、今までに何度もあったし、私達の間にいつも会話があった訳ではない。けれども、慣れたはずの静寂が、今はどうしようもなく居心地が悪かった。

「……レイ様、すみません。この間、レイ様がこちらの世界に来られた際に着ていた衣服を抱きしめていらっしゃるのを見てしまったんです」

 沈黙を破ったのは、罪を告白するかのようなルークの言葉だった。

「帰りたいと、思ってらっしゃるんですか?」


 帰りたいとは思っていない。けれども、今まで〝聖女としてどうするか〟ばかりを考えてきた私は、〝私としてどうしたいか〟を即答することができなかった。

「どうだろうねえ」

 だからその言葉は、何も考えずに発した言葉だった。

 その時の私は、その言葉を聞いたルークがどんな表情をしているのか、見ようともしていなかった。

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