31.それらは変わらぬようで少しずつ変わっていて
「はあ……」
イザベラ様を見送った私は、ソファーの背にもたれ掛かるような体勢で腰掛ける。行儀が良いとは言えない行動ではあるが、今は見逃してほしい。とにかく疲れたのだ。
「レイ様、お疲れですね。よろしければ、こちらを」
苦笑いするルークが差し出したのは、鮮やかな赤色のハーブティーだった。
「ねえ、ルークはイザベラ様のお考えについて、どう思った?」
「『愛する人の幸せが、自分にとっての幸せだ』というお考えについては、同意見です。でも僕は、『愛する人には自分の隣で幸せになってほしい』と思ってしまいますね」
そう言ってルークは苦笑いを浮かべる。
確かにルークはそんな感じだ。相手の幸せを思って身を引くタイプではなく、隣の相手を幸せにするために全力を注ぐタイプに見える。
そんなことを考えつつ、「なるほどね」と言ってティーカップに口を付けると、口いっぱいに酸味が広がった。
いつだったか「ローズヒップティーは疲労回復効果があるんですよ!」と教えてくれたのは目の前にいるルークで、きっと今回も私が疲れて果てていることに気がついて用意してくれたのだろう。
そんな彼の細かな心配りを感じ取って、急に気が緩んだのかもしれない。
「……ルークだから言うけれど、私はなんだか少しモヤっとしたの。イザベラ様の恋愛観について、口出しするような立場にある訳でもないのにさ」
気がつくと私はそんなことを口走っていた。そしてすぐに自身の口に手を当てる。どこで誰が聞いているかもわからない状況で、王太子の婚約者を非難していると受け取られる可能性のある発言をすべきではなかった。
しかしルークは私のそんな行動を見て、「ここにそれを咎める人間はいませんよ」と言って優しく笑った。
「でも、レイ様がそんなふうにおっしゃるの、珍しいですね」
「そんなふうって?」
「レイ様っていつも『そういう考えの人もいるわよね』みたいな感じじゃないですか。だから、否定的な意見をおっしゃるのは珍しいなと思って」
「……確かにそうかも。イザベラ様についても、別に悪口を言いたい訳ではないんだけどね」
イザベラ様を悪く言うつもりは毛頭ない。それこそ、彼女の考えに関しても「そういう考えの人もいるわよね」と思っている。
けれども、自分一人では抱えておけないくらいにモヤモヤした気持ちが満ちているのも本当のことで、私は初めて味わうこの感覚を持て余していた。
「でもさ、イザベラ様の恋愛観を聞いたら余計に、リチャード殿下からのお誘いを受けるのが最善なんだろうなとは思わされたよね」
正直なところ、その方法をできれば避けたいという私の気持ちは変わっていない。こちらの世界に転移するまで、現代社会において一般庶民として生きていた私にとって、好きでもない人間、それも正式な婚約者がいる人間と結婚するというのは、なかなかに受け入れ難いことだ。
けれども、リチャード殿下やイザベラ様が「それでも良い」と言ってくれている現状で、それが一番手っ取り早く、丸く収まる方法なのだろうとは思う。
この世界はゲームの世界ではないにせよ、『イセオト』において、リチャード王太子ルートの友情エンドは幸せな結末を迎えていたし、今の私の置かれた状況はあのルートにとてもよく似ている。私がリチャード殿下の側妃になることを選んでも、似たような道を辿ることになるような気がする。
そんなことを考えながら、手元のカップに再び口をつける。少し冷えたそれは、先程よりも酸味が和らいでいるように感じられた。
そんな私をじっと見つめながら、ルークが静かに口を開く。
「……レイ様がイザベラ様に感じたモヤモヤの理由、僕はなんとなくわかる気がしますけどね」
「え? どういうこと?」
「内緒です。自分で気づいてください」
ルークはそう言うと、口角を僅かに上げて悲しげに微笑むのだった。
◇◇◇
リチャード殿下と話をしてから、二週間が経過した。
返事の猶予期間も半分が過ぎてしまった訳だけれど、私はいまだにどうするべきかを決めかねている。
もちろん、かの国の王太子に献上されることだけは断固反対しようと思っている。それこそ、たとえ身一つでこの城を飛び出すことになろうとも、十二歳の少年との婚約だけは避けなければならない。
けれども、いくら考えようとも自分一人ではたいした案も思いつかず、私は黙々と自分の荷物を整理する。気分転換のためにも、手を動かしたい気分なのだ。
「全部捨てて、逃げ出しちゃおうかな……」
実は一度だけ、そう言ってしまったことがある。誰かに聞かせるために〝言った〟のではなく、思わず口から〝漏れ出た〟言葉ではあったけれど、その時部屋にいたヘンリーとルークには聞こえてしまっていたようで、ルークなんかはぎょっとした表情を浮かべていた。
「……それも選択肢の一つではありますね」
そう言いながらも、ヘンリーはこの世の終わりのような顔をしていて、私は慌てて「嘘だよ! そんなこと思ってないよ!」と返事をしたのだけれど、彼は「思ってもないことが言葉になって出てくることはありません」と言い切った。
「どのような選択をされるにせよ、私はレイ様の意思を尊重いたします」
そう言いながらヘンリーは、私の胸元に光る彼の瞳色のペンダントを人差し指でそっと撫でた。私の選択を尊重すると言いながらも、ヘンリーは親とはぐれた子どもような不安そうな表情をしていた。
伏せられた睫毛が微かに震えているように見えて、その時の私は「逃げないよ……」と答えることしかできなかった。
そんなことを思い出し、感傷的な気分に浸っていたのだけれども、いかんせん時間が残されていない。今はとにかく前を向いて、聖女として最善の行動を考えなくては。
あの時ヘンリーは「逃げ出すのも選択肢の一つ」だと言っていたけれど、それは最終手段だ。聖女である私が突如失踪したとなると、それこそ多くの人間に迷惑を掛けることになるだろう。
……そして私情を挟むなら、できればヘンリーが隣にいる未来を目指したい。そう思った自分自身に、私は少し驚いた。
「やっぱり明日、ヘンリーに時間をとってもらおう」
ここ二週間、忙しそうに動き回るヘンリーに対して、私は少し遠慮していた。日に日に目の下の隈が酷くなる恋人に対して、遠慮するなというほうが無理な話だろう。
けれども、今の私には彼の力が必要だ。〝自分の生き方を決めるのは自分しかいない〟のだとしても、誰の意見も聞かずに一人きりで決める必要はないはずだ。
そう決意すると、沈み込んでいた気持ちがなんとなく軽くなった。そのまま視線を上げてクローゼットの一角に目をやると、そこに随分と懐かしいものが置かれているのが目に入る。
「このTシャツ、まだ処分されてなかったんだ」
私と共にこの世界に呼び出されたそのTシャツは、裾のほつれもそのままで、あの時から何も変わっていないように思われた。
けれども手に取って顔に近づけてみると、そこからふわりと香るのはこの城で使われている石鹸の香りで、なんだか不思議な気持ちになる。
「あなたも、もうすっかりこの世界の住民なんだね」
そんなことを呟きながら、手の中のTシャツに顔を埋める。すっかりこの世界に馴染んだ同郷出身者は、頼もしいことこの上ない。
「私もこの世界の人間として、頑張らないとね……」
だって私は、これから先もここで生きていく。きちんと、悔いの残らない選択をしないと。
そう思いながら大きく息を吐く私の後ろで、部屋の扉を開閉するような、かちゃりという小さな音が聞こえたような気がした。
けれども、振り返って見回した自室には、誰の姿も見当たらなかった。




