29.歌劇の主人公ではない私
私が部屋に戻ると、そこにはヘンリーとルークが揃っていた。私が何かをやらかしてしまった時に備えて、すぐに慰めてもらえるように「待っていてほしい」と頼み込んでいたから、私にとっては予想通りではあったものの、それでも実際に二人の顔を見て、私は心の底から安堵した。
「おかえりなさい、大丈夫でしたかー?」
そう聞いてくるルークは普段通りで、「全然大丈夫だったよ」と返ってくることを信じて疑っていないようだった。
「うーん……。大丈夫だったけど、リチャード殿下から側妃にならないかって言われたかな」
「は?」
私の返事を聞いて、ルークは目をこれでもかと見開いて固まった。それはもう、こちらが心配になるくらいの固まりっぷりだった。
「……ルーク?」
しばらく経ってもそれ以上の反応がない彼の名を、おそるおそる呼び掛けてみると、ルークはびくりと身体を震わせて、「なんで?」とうわごとのように呟いた。
「なんかね、私を他国に献上すべきだって主張する人達がいるみたいだよ」
リチャード殿下から聞いた話を、私はそっくりそのままルークに伝える。言いふらすべき内容でないことはわかっていたけれど、ルークの口の堅さは信頼しているし、ルークの横にいるヘンリーに止められることもなかった。話を進めるうちに、ルークの表情がどんどんと険しくなることには、気がつかないふりをした。
「かの国の王太子の妃として私を献上して、恩を売っておきたいんだって」
笑っちゃうよね、と続けた言葉に、ルークはぴくりとも笑わなかった。
「……それを阻止するための措置として、レイ様を側妃に、と?」
「そうみたいだよ。ぶっ飛んでるよね」
しかしルークは私の言葉には返事をせず、ヘンリーへと身体を向けた。
「かの国の王太子といえば、確か数ヶ月前に立太子されたばかりでしたよね?」
「ええ。ちなみに、先月十二歳のお誕生日を迎えられたばかりです」
二人の会話を聞いて、思わず「うへえ」という声が漏れてしまった。
愛があれば歳の差なんて……という考えがあるのも知っているし、その考えを否定するつもりもない。けれども今の私にとって、かの国の王太子は恋愛対象にはならない。自分と十歳以上も年齢差がある上に、そもそも小学校に通っているような年齢の人間なんて論外だ。
「さすがにないわ」
私からしても遠慮したい話だし、王太子にとっても同じだろう。王族の婚姻と政治的な思惑が切り離せないものだとしても、あまりに酷い。
おそらく私の感覚は、間違ってはいないのだろう。
「奴等、レイ様のことをなんだと思っているんでしょう」
そう呟くように発するルークは目が据わっていて、張本人である私の方がぞくりとさせられた。
「で、でもさ。もちろん私は断ろうと思ってるよ。一ヶ月以内に返事がほしいとは言われてるけど、逆に言えば一ヶ月は猶予があるってことでしょ?」
リチャード殿下の話を聞いて、私が平常心でいれたのはこれが理由だ。
「私がいる方がこの国にとって利益があると思わせるか、あるいは、私がかの国で利益を生み出せないことを主張するか、このあたりが有効な手段だと思うんだけど、ヘンリーはどう思う?」
こちらには、今まで私の意図を汲み取って、私の拙い提案を形にしてきてくれたヘンリーがついているのだ。かの国の王太子妃として献上されることなく、リチャード殿下の側妃になることもない、別の道を示してくれるだろう。
ルークも私と同じように思ったようで、途端にぱっと顔を輝かせる。
「そうですよね、他に道がありますよね! それにしても、レイ様を他国に引き渡そうとする奴等が最低最悪なのは当然として、そんな提案をするだなんて、リチャード殿下もどうかと思いますよ。レイ様とヘンリー様の仲は、殿下だってご存じなのに。ヘンリー様も、もっと怒っていいと思います。『私の恋人は渡さない!』とか、言いに行きます?」
ルークは早口で、そんなことを言った。いつもは相手の様子を見ながら話をするルークが、一方的に、そしてどこか焦ったように言葉を発するのは珍しいことだった。
しかしそんなルークに対して、ヘンリーはきっぱりと「いえ。行きません」と返した。
その瞬間、私とルークの口から「へ?」という間の抜けた言葉が漏れる。思いもよらない言葉を、ヘンリーがあまりにも淡々と告げたからだ。いつものヘンリーであれば、本当に言いに行くかは別として、「ええ、その場合はルークもご一緒していただけますか?」くらいは言う。
けれどもそんな私達の反応を気にする素振りもなく、ヘンリーは何でもないことのように言葉を続けた。
「私は、リチャード殿下のお話をお受けするのも一つの手だと考えております」
……〝頭を殴られたような衝撃〟とは、このような衝撃のことを言うのだろうと思った。
まさか恋人から、他人の妻になることを勧められるなんて思ってもいなかった。その恋人とは、今朝までは普通に、とても良好な関係であったにもかかわらず、だ。
私はその場にしゃがみ込みたくなる気持ちを堪えて、必死に足に力を込める。
「どういうことですか? ヘンリー様は、レイ様がリチャード殿下の側妃になることを賛成してらっしゃるんですか?」
「……選択肢の一つだと言っただけです。選択肢は、多いに越したことはありませんから」
「そうかもしれませんがっ!」
すぐ目の前でヘンリーとルークが言い争う様子が、どこか遠くのことのように感じられる。
しかし、まるで夢の中の出来事を眺めるかのようにぼんやりと二人を見つめる私を現実へと引き戻したのは、他でもないヘンリーだった。
彼は私を正面から覗き込み、私の肩を両手でがっしりと掴む。
「情に流されることなく、きちんと考えて決めてください。レイ様が、これからどのように生きていきたいのかを」
少し痛みを感じるほどの強い力に、今までどれほど優しく扱われてきたのかを思い知って、私はなんだか泣きそうになってしまう。……いや、視界がぼやけるのはそれだけが理由ではない。
私は心のどこかで、「またヘンリーがなんとかしてくれる」と思っていたんだと思う。だから彼の言葉に、こんなに動揺しているのだろう。
〝自分の生き方を決めるのは自分しかない〟なんて、そんなの当然のことなのに、私はヘンリーの言葉を聞いて突き放されたような気持ちになってしまったのだ。
「わかった、ちゃんと考える」
ヘンリーの勢いに押されて返したその言葉に、ヘンリーがほっとした表情を見せるものだから、余計に。
「ヘンリー様、なんだか余裕そうですね?」
「そうでしょうか?」
「レイ様に、何か言うこととかないんですか?」
「……言うべきことはお伝えしました」
ルークとそんな会話を交わしたヘンリーは、そのまま「用がありますので失礼します」と言って、私と目を合わせることもなく部屋を出て行ってしまった。
「……レイ様、大丈夫ですか?」
そう尋ねるルークは、悲しげに顔を歪めていた。
「うん、大丈夫」
私は咄嗟にそう答えたけれども、これっぽっちも大丈夫じゃない。
本当は、ヘンリーに止めてほしかった。リチャード殿下から側妃にならないかと誘われたことに対して、「何をバカなことを」と言ってほしかった。けれども、私にはそれが言えなかった。
思いは言わないと伝わらない。だから、「止めてほしい」と言えばいいのかもしれない。
けれども、私にそれはできなかった。
おそらく私がどう動くかで、国の今後は大きく変わることになるのだろう。今の私に求められているのは、そういう重たい決断だ。政治的な思惑も大いに絡んでくることだろう。
そんな重たい決断を、ヘンリーに任せる訳にはいかない。その決断が、彼から何かを奪う可能性だって十分にあり得るのだから。ヘンリーの大切なものを奪う可能性を理解しておきながら、「止めてほしい」だなんて言えない。私は、歌劇の主人公ではないのだ。
この時になってようやく、私は実感した。先程までは他人事のように捉えていたリチャード殿下の言葉は、紛れもなく私に向けられたものだったのだ。




