28.よみがえるハッピーエンドの記憶
その日私は、この国の王太子であり『イセオト』の攻略対象者でもあるリチャード殿下からの呼び出しを受けていた。ヘンリーとの交際が始まって半年が経過した頃のことだ。
攻略対象者であるにもかかわらず、リチャード殿下と二人きりで話をするのは初めてのことで、だから私はものすごく緊張していた。
本当は、ヘンリーかルークに同席してもらおうと思っていた。王太子であるリチャード殿下を相手に、一人で会いに行くのは怖かったし、粗相がないよう見張っておいてほしいという思いもあった。
けれども、私がその考えを口にした途端、ヘンリーがわかりやすく難色を示した。
「……今回に関しては、レイ様お一人の方が良いでしょう」
私がこの世界に来て、そして聖女として生活するようになって一年以上が経過しているのだから、そろそろ自立しろという意味が込められていたのかもしれない。
けれどもその時のヘンリーは、なぜか苦しげな表情をしていて、私は彼の言葉を受け入れることしかできなかった。
話し合いの場に指定されていたリチャード殿下の執務室に訪れると、殿下の傍らに補佐官であろう男性が一人立っているだけで、部屋の中には他に誰もいなかった。
「呼び出してしまって申し訳ない。あまり人に聞かれたくない話なものでね」
リチャード殿下はそのまま「まだ冷めてはいないはずだ」と言って、まだ湯気の立つ紅茶が置かれた席に着席を促す。形だけ口に含んだその紅茶は、美味しいという以外にはなんの特徴もない味だった。
少し動くだけでも衣擦れの音が響くほどに静まり返った部屋の中で、私は視線を彷徨わせる。リチャード殿下がこちらをじっと見つめていることには気がついているけれど、王太子である彼の視線を真っ向から受け止めるだけの度胸はない。
あまりにも居た堪れないものだから、もう一度ティーカップに手を伸ばそうとしたその時、リチャード殿下がふうっと大きく息を吐いた。
「すまない。少し緊張してしまっているようだ」
リチャード殿下の言葉に、私は内心で首を傾げる。
私が彼と話すことに緊張するのは、誰もが理解を示してくれるだろう。けれども、彼は一体何に緊張しているというのか?
私のそんな気持ちが滲み出ていたのだろう。リチャード殿下は目線を鋭くして口を開いた。
「単刀直入に言おう。私の側妃になる気はないか?」
……脳内で〝そくひ〟を即座に漢字変換できなかったのは、仕方がないことだと思う。だって、リチャード殿下からそのように言われる理由など一つも思い浮かばないのだから。
「側妃……ですか? 正妃以外の妻、という意味の?」
「ああ、そうだ」
そう言って重々しく頷くリチャード殿下の表情は真剣そのもので、冗談を言っているとは考えられなかった。
「どうしてですか? リチャード殿下は側妃を迎え入れることを否定しておられるとお聞きしておりますが?」
この国では、国王並びに次期国王だけは特別に、配偶者を複数人有することができる。確実に血を繋がないといけない立場であることから、そうすることで正妃へのプレッシャーを軽くするという狙いがあるらしい。
しかし実際には、側妃が据えられることはほとんどなく、リチャード殿下もまた、側妃は置かないと公言していると何かの折に聞いたことがある。
そんなリチャード殿下が、なぜ?
「……順を追って、話をさせてほしい」
リチャード殿下によると、とある大国において少し前から異常気象が頻発しているらしい。それはまるで、少し前のこの国を彷彿とさせる状況だという。
その大国の名を尋ねると、領土も広く国力も強く、この世界では最も影響力を有する国の一つだった。
「かの国が輸出する農作物に、多くの国が依存しているのが現状だ。我が国も例外ではない」
「であれば、早急に対策が必要ですね。我が国の食料自給率は持ち直してきたと聞いていますが、かの国からの輸入に頼れないとなると、備えが必要でしょうから」
以前王宮の資料室を訪れた時に、そういった事態への対策をまとめたファイルを見かけたような気がする。後で少し見に行ってみよう。
しかしそんなふうに思いを巡らせる私に対して、リチャード殿下は「それで、だ」と語気を強める。
「そんな中、官僚の一部が『聖女様をかの国の王太子の妃にしてはどうか』と主張するようになったんだ」
「はい!?」
話題に上がっている大国において、問題となっているのは農作物の収穫量の減少であるはず。そしてこの国が考えるべきは、かの国に頼らずとも食料を確保するための方法だ。それなのになぜ、ここで「聖女をかの国の妃に」という話になるのか。
「……その者達は『今こそかの国との結びつきを強固にするべきだ』と主張している。つまり君を……言い方は悪いが、かの国に献上することで、恩を売ろうという考えだ」
「私を献上する……」
「……すまない」
確かに、「まるで物みたいな言いようだな」とは思った。けれども別に、リチャード殿下が悪い訳でもない。首を小さく横に振りながら「大丈夫です」と答えると、殿下は眉間に皺を寄せて、何かに耐えるような顔をした。
「この国が異常気象を発端とする危機を乗り越えられたのは、君のおかげだ。それは君が積極的に改善策を打ち出してくれたからであって、我々が想像していた〝お飾りの聖女〟であればこうはいかなかっただろう」
正直その言葉は、買い被りすぎだとは思う。けれども、私がそう評価されるように仕向けたのはヘンリーだ。ここでそれを否定するのは彼の気持ちを蔑ろにする行為であるような気がして、私は黙って先を促す。
「少なくとも国王である父や私は、君自身の力を評価している。だが、昔からの言い伝えの影響で、『聖女を召喚すればなんとかなる』と、『聖女の存在そのものがこの国を救ったのだ』と、そう思い込んでいる人間がいることも事実なのだ」
実際に君の献身を目にしているはずなのにな、と言うリチャード殿下は、どこか悲しげな表情を浮かべていた。
「私を献上すべきだと主張する方々は、私が行くことでかの国の状況が好転するとお考えなのですね? それで恩を売ろうと?」
「……本当に申し訳ない」
そう言いながら今にも頭を下げそうなリチャード殿下を、私は慌てて制する。
「お気になさらないでください。……ですが、どうしてそれが先程の『側妃にならないか』というお言葉に繋がるのでしょうか?」
私をかの国に献上すべきだという考えの人々がいることは理解した。けれども、それがどうして私がリチャード殿下の側妃になる話に繋がるのだろうか。
すると殿下は私の言葉を聞いて、苦虫を噛み潰したような表情をした。
「君をかの国へと主張する派閥のトップが、政治上捨て置けない相手でな。本人もそのことを自覚しているから、かなり強硬な手段で押し通そうとしているのだ」
この国は独裁国家ではない。最終的な意思決定をするのは国王であっても、官僚達の声を無視して物事を進めることはできない。そして、動き出した物事を止める場合にも同じことが言えるのだろう。
「……かの国への献上が決定する前に、リチャード殿下の側妃にしてしまおうということですか? 殿下の側妃であれば、その方々も諦めざるを得ないと?」
「ああ、そうだ」
殿下はそう言って頷くと、今日何度目かになる謝罪を口にする。
「本当に、なんと謝罪すれば良いのかわからない。だが君に、妃としての役割を求めるつもりは毛頭ない。あくまでも君をこの国に留まらせるための一つの方法の提示にすぎない。ちなみに、私の婚約者も了承している」
そして彼は、「君が望むのであれば、君がかの国の正妃として迎えられるように尽力することもできる」と続けた。
リチャード殿下が真剣な表情で言葉を重ねる一方、私は『イセオト』のリチャード王太子ルートのことを思い出していた。
今まで完全に記憶から抜け落ちていたけれど、ストーリーの序盤で隣国へと引き渡されそうになったヒロインに対して、王太子が「ならば私の側妃にしよう」と言い出すところから、二人の関係はスタートしていたような気がする。今と、似たような状況だ。
そして、攻略対象者四人と迎えた友情エンドの中で、王太子ルートが一番のハッピーエンドだった。王太子と恋仲になるルートでどのような結末を迎えるのかは知らないが、友情エンドでは王太子ともその婚約者とも仲良くなれて、「王太子ルートではこれが正解じゃない?」と思ったことを覚えている。
ぼんやりとそんなことを考える私を見て、リチャード殿下は何か勘違いをしたのかもしれない。
「もちろん、他の方法についても探っているところだ。私としてはこの国に尽くしてくれている君の想いを、できるだけ尊重したいと思っている。だが、そういう方法もあるのだということを覚えておいてほしい」
殿下は心底申し訳なさそうな表情でそう告げた。しかし彼の言葉は、私に「大変そうだなあ」という思いを抱かせるだけで、まるで自分とは関係のないことのように感じられたのだった。




