23.その罪悪感は不要なもの
「よければ、お茶でもいかがですか? 」
ヘンリーからそんな誘いを受けたのは、ノアから「彼女ができた」と報告を受けた日から、一週間程が経った頃だった。
「何かあったの?」
今まで何度か〝お茶会〟という名目で、私が提案してきた政策に関する話し合いの場が設けられてきたけれど、今回については思い当たるものが何もない。
不思議に思って尋ねてみたところ、ヘンリーは「私がレイ様と一緒に過ごしたいだけです」という答えが返ってきた。
「ルークから『忙しい』って聞いたけど、大丈夫?」
「忙しいことを否定はしませんが、ご褒美がないとやってられませんから」
涼しい顔でそんなことを言うヘンリーとは対照的に、自身の顔に熱が集まっているのを感じる。おそらく、赤くもなっているだろう。
何か言わねばと思った私が、ルークからのアドバイスを思い出して「ありがとうね」と伝えると、ヘンリーは少しだけ驚いた顔をした後で「こちらこそ」と言ったのだった。
本当に、なんてことない会話が続いた。最近読んだ本や王宮内のおすすめお散歩スポット、侍女から聞いた城下での流行など、そんなことをつらつらと話す私に、ヘンリーはにこにこしながら合槌を打つ。
「ノアと行かれた演劇はどうでしたか?」
「面白かったよ! また行きたいなあ……」
「では、次は私と行きましょう」
そんな会話を、三十分は続けていたと思う。
しかし不意に、ヘンリーが真面目な表情を浮かべたのがわかった。
「どうしたの?」
「……ここ最近、悩み事がおありですよね?」
彼からそう返されて、肩がぴくりと震えてしまう。まさか、気づかれていたとは思ってもいなかった。
確かに、悩みはある。悩みというよりは、後悔というのが正しいのかもしれない。けれどもそれは、果たしてヘンリーに話してもいいものなのだろうか。
どうするのが正解なのかと戸惑う私の手に、彼の手が触れた。温かい手だった。
「そんなに強く握っていては怪我をしてしまいますよ?」
ヘンリーの言葉を聞いて、私は初めて自分が両手を強く握りしめていたことに気がつく。ヘンリーに促されて手を開くと、掌にはくっきりと爪の跡が残っていた。
私の掌を、ヘンリーがゆっくりと撫でる。爪の跡をなぞるように、労わるように、彼の指が私の手の上を左右に動く。
「もちろん、言いたくなければ言わなくても構いません。ですが、私としては聞かせてほしいと思っていますよ?」
彼はそう言って、私の目を覗き込んだ。柔らかい、包み込むような眼差しだった。
その眼差しに背中を押された私は、恐る恐る口を開く。
「……私の、過去の交際相手に関することでも?」
「そうであれば尚更、お聞かせ願いたいですね」
彼はそう言うと、なぜか私の隣に腰掛けた。三人は座れるだろうという幅のソファーなので、私とヘンリーが二人で座っても十分な余裕があるはずなのに、ヘンリーはぴったりと私に身を寄せている。
「……ごめん、怒った?」
普段とは違う雰囲気をまとう彼を目にして、「やはり言うべきではなかったな」と後悔しかけたものの、ヘンリーは即座に「いいえ」と否定した。
「怒ってはいません。少し、嫉妬しているだけです」
「話すの、やめとこうか?」
「聞かせてください。レイ様が過去の男性を思って頭を悩ませている状況を、一刻も早く解消してしまいましょう」
ヘンリーは真面目な顔でそんなことを言うものだから、私は少し笑ってしまう。
「以前付き合っていた男性がね、ノアのようなタイプの男性だったの」
「……それは、女性関係が爛れているという意味で捉えて間違いないでしょうか?」
ヘンリーらしくない辛辣な物言いだなとは思ったけれど、私は「うん」と返事をして〝二人目の彼氏〟の顔を思い浮かべる。
正直なところ、今までに付き合ったことのある三人の中でも、彼のことを思い出すことはほとんどなかった。異性との距離感に関する考えが合わなかった彼とは、別れるか受け入れるかしか道はなかったと思っているし、受け入れられなかったのだから破局は仕方がないものだったと思っていた。
けれども、今回ノアの事情を知って、そして幸せそうに笑うノアの姿を見て、私の中に後悔の気持ちが湧き上がってしまった。
彼にも、何か事情があったのではないか。私が、彼の本質に気づいてあげられなかったのではないか、と。
「当時の私は、彼と他の女性との距離感に耐えられずに別れを選択したの。けれども、もっときちんと彼のことを知ろうとしていれば、何か変わったのかなって」
私がそう言うと、ヘンリーは僅かに眉を寄せて苦しげな表情を浮かべた。
「未練を抱いていらっしゃる、ということですか?」
「未練……とは違うかな。後悔って言うのが、正しい気がする。ちゃんと向き合えてなかったなって」
別に、二人目の彼氏を恋しく思っている訳ではない。当時に戻って彼とやり直したいとか、そんなことは全く思っていない。
ただ、縁あって付き合った彼をきちんと理解してあげられなかったことを、理解しようともしなかったことを、後悔しているだけだ。
誤解のないよう、私の胸の内を包み隠さずヘンリーに伝えると、彼は「なるほど」と呟いて押し黙った。自身の右手を顎に添えて目を伏せるヘンリーは、何かを思案しているように思われた。
やがて視線を上げたヘンリーは、そのまま私の頬へと手を添える。頬から伝わるヘンリーの熱に、私は胸の鼓動が早くなるが、同時に気持ちがすっと和らぐのも感じた。
「……必ずしも向き合う必要はなかったのではないですか?」
「えっ?」
「その時『辛い』と思われたのであれば、離れるというレイ様の決断も間違いではないでしょう」
予想外の言葉に驚く私に、ヘンリーが言葉を続ける。
「その方がどういった方なのか、私にはわかりません。ノアのように何かしらの理由があっての行動だったのかもしれませんし、ただただ元来そういう人間だったのかもしれません。しかし理由がどうあれ、彼の行動で、恋人であるレイ様が辛い思いをされたという事実は変わりません」
彼はそう言うと、至近距離から私の瞳を覗き込んだ。彼の瞳には、大きく目を見開く私の姿が映っていて、「今彼は私だけを見ているんだな」と、至極当然のことが頭に浮かんだ。
彼はそのまま親指で、私の頬をするりと撫でる。小さな子どもを宥めるような手つきだった。
「その方との破局は、レイ様だけのせいではありませんよ」
ヘンリーはそう言うと、私の身体を正面から抱きしめる。彼の香りに包まれて、私は鼻の奥がツンとするのを感じた。
過去の恋愛において、私はずっと罪悪感のようなものを抱いていた。私が恋愛音痴だから上手くいかなかったのかもしれない、と。
けれどもヘンリーの言葉が、そして視線や指先が、私の心の奥に刺さった棘のような罪悪感を、するすると溶かしてくれる。きっとそれは、彼が発する言葉が全て、彼の本心からくるものだからなのだろう。
「……ありがとう」
私がそう言うと、ヘンリーが耳元で「どういたしまして」と言うのが聞こえた。
「ごめんね、過去に付き合っていた人の話なんてして。未練がないって言ったって、気分の良いものじゃないでしょう?」
「まあ、愉快な話ではありませんが、過去も含めてレイ様なので」
彼の言葉を聞いて、無意識のうちに彼に回している手に力がこもる。
この人を好きになれて良かったなと、心の底から思った。
「……観劇、いつなら行けそう?」
急にそんなことを言い出す私に、ヘンリーは少しだけ驚いたような顔をした。しかしその表情は、すぐにふわりとした笑みに変わる。
「できるだけ早く行けるよう、調整しますね」
「できれば王道の、歌劇とかが観たいな」
「わかりました。探しておきますね」
ヘンリーはそう言って、私の頭のてっぺんに口づけをしたのだった。




