第一章[裏]『収穫』
「はい。はい無事到着しました。はい。大丈夫です。…………五体も問題なく満足です」
「……ホンマに、死ぬか、思ったわ」
「まあ死なないよねー。カズ君はしくじらないしねー」
「いやそんな全幅の信頼、俺とコノヤロウの間には育まれてないわ。知らんがな。………ホンマに………死ぬか思った…………」
どうやら相当に心の臓から頭蓋の芯まで堪えた様子だ。それもしょうがないだろうと一真は思う。
彼は通信から意識を外し、柵からちろっと眼下のを見下ろした。
文明の明かりが灯る街。
遠方の国道を走る自動車が、指先でつまんで潰せそうなぐらい小さく見える。
ーー六十メートル……だったか
六十メートル。一見イメージしにくいかもしれないが、これはかなりの高さだ。
一般的なビルディングが一階につき約三メートル程である、と言えば多少は分かりやすいか。
つまり二十階建てである。
人の恐怖を煽る条件がいくらでも転がっているのは、言うまでもあるまい。
「いやホンマに外道のすることやで、コレ……。こんなおっかない滑り台初めてや。十階下まで滑り落ちてホトケサマ見えたわ」
茶髪で長身、左頬に縦一筋の傷跡を持つ青年。大和大和は、鉄の踊り場に座り込んでうなだれていて、身につけた真新しい紺色が相当にかみ合って見える。
「階段を急に氷の滑り台に変身させるとは……。このマンションのオーナーはなかなかにウィットに富んだ感性をお持ちのようですね」
「お ま え や ろ が!! 鬼!! ボケ!! 高校生探偵!!!」
感心感心と腕を組んで真顔で頷くと、指を突きつけて茶髪が怒鳴った。困ったように眉が下がる。
「俺は毛ほども探偵じゃないし。もう高校生ですらないんですが……」
「そんなん知らんわ、アホ! ……一体ここ何階やと思っとんねん……」
「二十二階建てですね。グルーブタワー九野里。家賃二十万円の3LDK。街でもそれなりに名のあるタワーマンションです」
「…………えらい詳しいな。お前……」
「……高い建物。好きなので」
どこか微妙な空気が流れる。
一真がたった今解説した高層建築物の、むき出しになった非常階段で、彼らは風に吹かれている。
一真は何年経っても慣れきらない階段の柵の間から、ぶらぶら脚を投げ出してみた。子供とか普通に通れそうで非常に恐ろしい。
この非常階段は実は欠陥なのではないのか。絶対ここから下に降りようとは思えない。もうちょっと柵の幅とか高さとか、やりようがあっただろう。
自殺の名所にならないのが不思議だ。いや事故死か。
そんなふうに思案を巡らせていると、場が適度に落ち着くのを見計らっていたのか、常時落ち着き払った透き通る声が直接脳裏に響いた
『まあこれを遅刻したペナルティとしておきましょう。だいぶ堪たでしょうし』
「ハイ。まあ芯までしっかり堪えましたわ…………にしてもよう気づいたなぁ! 足音殺して上がってきたつもりやったんやけど」
本当に反省しているか不安になるような身代わりの早さだ。頭痛じみた錯覚を感じながら、一真は答えた。
「この非常階段は人が通ったら分かります。この階までここを登ってくるモノ好きが、大和さんの他にいるとは思えませんし」
だとしても拘束対象となる。
「……へぇ、ふむふむ、なるほどねぇ。そういうのはホンマに便利やなぁ」
「なんかフツーに認識甘くない? ダイジョブ?」
「いや、相当に認識は甘いだろ。初めて見るわけでも無いはずだし」
「初日から遅刻してるしね」
「せめて初日ぐらいはな……まあでもーー」手に持った菓子を見せつけるように揺らし、また懐にしまった。一真の勝利だ。
一真と千鈴の会話。その決着なぞ露知らず、大和は不満げに口を尖らせる。
「せやかてクドウ。俺はこの街に来たばっかなんや。立て続けに色々あったんや。詰め込みまくりや。知っとるか? 引っ越しって忙しいんやぞ」
「俺は矢車です」
それだけ答えた。この短期間ですっかり定着してしまったやり取りだが、いつになったらちゃんと名前を呼んでくれるのか。
「そんなんはどうでもええねん」
どうでも良くない。
良くないついでに、様々な疑問が決壊したダムのごとく溢れ出してきて、一真はそのまま質問攻めにしたい欲求に駆られたがーー
『お喋りはおしまいよ。もう時間がないわ。ーーちゃんと全員揃ってるかしら?』
幸か不幸か、今は叶わない。
我らが支援官。瀬乃環の時間切れ宣告。それによりガチリと、緊張感の歯車が噛み合う。
その今更言うまでもない問いは、ただの自分たちにではなく、一つの班として、その班長としての一真に投げられたものだ。
深呼吸一つ。月光に照らされた大気が全身を巡り、心身共に冷却される。文字通り、身が締まる思いだ。
「第六班。準備完了しています!」
一息でそう答えてから、一真は左腕を確認する。時刻はもう僅かで十時三十分といったところで、結局新人様への説明は並行して行わなければならないようだ。
「とにかく大和さんは。そこから街でも眺めててください」
「なんや、何が始まるんや?」
「眺めてたら分かります」
「さぁさぁ久々の出陣。腕がなりますぜい!」
「スズはとりあえず先走り過ぎるなよ」
「分かってるって隊長」
「なぁ、俺は何するか全く分からんのやけど」
「後で説明しますから、今はとりあえずーー」
「ーー街見ときゃいいんやろ? 隊長さん」
「まあフツーになんとかなるなる」
「スズちゃんが言うなら間違いないわな」
「とりあえず怪我はしないことが第一で」
「なんやそりゃ、小学生みたいや」
「でも教訓なんてフツーにそんなもんじゃない?」
『みんなーー』
『ーー始まるわよ』
針がカチリと、十時三十分を指し示す。
ーーーー
大和大和は一般人だった。
この世界の大半を占めるその他大勢だった。間違いない。再定義なんて必要ない。自明の理、というやつだ。
だが、それは終わってしまった。
名を挙げて著名人として頭一つ抜けた訳ではない。
罪を重ねて大罪人として転がり落ちた訳ではない。
その他だ。
彼は『その他大勢』の、さらに『その他小勢』へと引き込まれて、帰り道を踏み潰して消したのだ。
その選択を後悔しているのか、いないのか。そんな単純な心すら、はっきりとは分からなかった。
まだ答えを、決断の先を、この目で見てはいないのだから。
だが、それもこの瞬間まで。
ついに来た。
変わってしまった自分を、変わってしまったのだと嚥下する日がーー
『結界網 魔力循環。異常なし』
『起動式 稼働展開。異常なし』
脳内に直接響く似通った二つの声。
その声は瀬乃支援官に近しい冷たげで平坦な声と言える。ただしそこには幼さ故の無邪気さと丸みが垣間見えていた。
透き通る氷の調べが、交互に次々と、機械的に、習慣的に、共鳴的に、その呪文めいた文言を謳いあげていく
『虚数域 鮮明透過。異常なし』
『深淵根 拘束解放。異常なし』
『鏡現界 浮上捕捉。異常なし』
『対象の浮上速安定を確認。現在深度六二〇。五〇〇より秒読みを開始します 』
『ーーーー秒読み開始』
数秒か数十秒か。大和は五十ずつに刻まれる秒読みの、体感的な間隔を測りかねている。自身がこれから足を踏み入れんとする世界の、その”未知”に圧倒されて。
あの日、あの手を掴んだあの瞬間。それまでの常識は覆され、胸に刻まれた新しい舞台への切符。
それが片道であることを気安く承知してしまったのは、迂闊であったと。考え無しであったと。間違いであったと。
そして、どうしようもなく正しかったのだと。
始まりに打ちのめされた心が訴える。これがこの空を満たすのだと。
一人の戦士が胸中を沸き立たせる中、秒読みは三桁を切り、刻みが十ずつに変化する。
『………一〇〇…………九〇…………八〇…………七〇…………六〇…………五〇…………四〇…………三〇…………二〇…………一〇……』
『総員警戒。浮上します』
大和はこの世に生を受けてから何度目かになる、心の底から自身の目を疑う現象を目撃する。
「ーーなんやあれ」
ーーーー
「ーーなんやあれ」
隣で目を疑うその顔を、一真は横目で確かめる。一番最初の初陣の時にこれを見せるのが、自分たちが所属する『協会』の習わしである。彼の驚く顔が見たかったというのが、個人的な本音ではあるが。
ヒリヒリと、その存在感が全身を撫で、肌が粟立つ。
二ヶ月ぶりのその感覚に身も心もすっかり目が覚めたようだ。表情も自然と堅く、力強く引き絞られる。
それだけ眼下に生じた現象は常識の範疇を逸脱していた。
それは例えるなら”鯨”だ。
空気を求めて水上に姿を現す巨大哺乳類を彷彿とさせるナニカが、地下深くから文明の光を喰らうように這い出していた。
半径数十メートルから百メートルまでに見える球体が、大地を割いて地上へと顕現する。正しく天変地異といって差し支えない、ありえない現象だ。
その内側は靄のような物質で満たされ、中に何があるのかを窺い知ることは叶わない。
それを遥か高みから、全体を完全に余すことなく俯瞰出来るその位置から見下ろした新人は、数秒の放心の後、ハッとして慌て始めた。
「おい、大丈夫なんかあれ!? 家とか道路とかメチャクチャなっとるやろ!!」
「だいじょぶだいじょぶー あれ、実体とかないですから」
「ーーは?」
「あれは大狩場という、端的に言えば俺たちの仕事場、狩場となる場所であり、その入口です。あの球体の膜みたいなのには実体は無くて、座標と規模を示すマーカーみたいなものだと思ってもらえば」
一真の簡潔な説明に対し大和は「あのクソジジイ本気で許さん……」と怒りを唸りに込めながらも、割とすんなり理解出来たようだ。とりあえず街が潰れてないと分かり安堵している。
どうやら彼をスカウトし、ここ半年から一年程度は指導したであろうベテランの錦さんは、このことを教えていなかったらしい。
故意か過失か。毎度のことながら前者である。
彼は絶対に必要なことを叩き込んでくれる反面。そんなお茶目さも忘れない。
大和が胸をなで下ろしたところで、完全に鯨もどきの動きが沈黙した。一瞬遅れて通信が再開する。
『対象の浮上を確認』
『大狩場規模は三四〇』
『小狩場の誘発を複数確認』
『暫定数は三。規模は二十、三十、六十。座標を適応します』
『支援官は人員と物資の振り分けを行ってください』
『以上。開戦行程 完全終了』
『定期作戦。”収穫”を開始します』
『皆様、ご武運を』
そのごく短い激励の後、通信が元の支援官に切り替わる。当たり前の、いつも通りが始まる。
ーーこんな話がある。
かつて世界には悪の『魔王』がいて、それに対抗した正義の『勇者』がいた。
『勇者』は紆余曲折、前途多難、山あり谷ありの大冒険を経て、『魔王』と相打ち、その巨悪を討ち滅ぼした。
しかし彼らの残党は死なず、滅びず、生き絶えず。しぶとくしぶとく逃げ続け、ついにはその足は異世界へと及んだという。
そして今もその異世界に根を張り、魔王の復活を待っていると。
本当にあった、世界で一番新しい御伽噺。
だがこの話には続きがあった。
生き残った悪しき残党達を追いかけて、同じ異世界に渡った戦士達がいたのだ。
『無冠の盟約』によって限定不可侵と化した無貌の異世界、日本。
その地に降り立った彼らは、摘出不能な程に奥深く潜り込んだ残党達の残滓を探り当て、隔離し、網を張り巡らせ、日夜生み出される魔獣を狩り続ける。
実に百年以上の昔から、今までに連綿と続いてきた特級任務。
風化と失意に晒されたそのぬるま湯の戦場、『勇者』と『魔王』が眠る、世界を跨いだ辺境の地で、狩人達は未だに生き続ける。
そして、今日は新しい節目の日。
ーーでは改めて始めよう。
心機を一転も二転も三転しても劇的で変わらない。
日常の裏側に差し込まれた、この非日常な日常を。
その軌跡が、とっくに意義を失っているとしても。
「いらっしゃいませ。俺たちの街に」
第一章 終




