ひきこもり
夜更け、インターホンが続けざまに二回鳴り、母の帰宅を告げる。鍵を持って出掛けた母がインターホンを鳴らすのは、なにもわたしに出迎えて欲しいからではない。わたしを自室に追いやるためだ。その証拠に、構造が単純なシリンダー錠の開錠にことさら時間をかけ、わたしが部屋に戻る頃合いを見計らって玄関のドアが開いた。
母の帰宅を機に、それまで静まり返っていた安普請のマンションが耳障りな音をたてはじめる。油の切れた蝶番の高い摩擦音、金属製の重いドアを無神経に閉める衝撃音、錆びて回りにくくなった鍵のいびつな施錠音。今夜はご丁寧にドアチェーンまでかけているらしく、めったに耳にすることのない、ジャラジャラという鎖の音も聞こえてくる。
ややあって、大小二組の足音が廊下を踏み鳴らして近付いてきた。足音は玄関から真っ直ぐにわたしの部屋の前までやってくると、一拍おいてからドアをノックした。これまで無遠慮に大きな物音をたてておきながら、ノックの音だけはいやに遠慮がちだった。
「ただいま、みちる」
ドア越しに、腫れ物に触るような母の声。
「いるんでしょう。返事をして」
なんて白々しい。もう長いこと、わたしが家から一歩も外に出ていないことを知っているくせに。母の在宅中は自室にこもってトイレにすら行かないことを知っているくせに。
母が帰宅してすぐにわたしの在室を確かめるのは、わたしの安否を気遣ってのことではない。連れ込んだ男と娘を鉢合わせさせないためだ。ならば端から外で逢えばいいのにと忌々しく思うが、これが、母が男をたらしこむ常套手段であるらしい。
「みちる、お願いだからドアを開けて」
哀れを誘うか細い声は、わたしに向けられたものではなく、男の同情を引くためのものだ。夫に先立たれ、肩を寄せ合って生きていくはずの娘はひきこもり。母は薄幸な未亡人を演じ、男の庇護欲をかきたてる。男の目にどう映るのか計算ずくで、細面にかかる長い黒髪を指先で払い、涙に濡れた寂しげな瞳をこれ見よがしにさらす母の姿が目に浮かぶ。
「みちる、今日はあなたの誕生日よね。ケーキとプレゼントを買ってきたの」
壁一枚隔てて、ガサガサと乾いた音が響く。男がいない時には誕生日なんて忘れているくせに、さも、毎年娘の誕生日を祝っているふうな態度が癪に障った。どうせそれも男に貢がせたものだろう。チョコレートプレートに書かれた自分の名前や悪趣味なプレゼントを想像すると虫唾が走る。
「みちる、お母さんもう何年もあなたの顔を見てないわ。せめて今日くらい、あなたの成長した姿を見せてちょうだい。――お願いよ、みちる。一目でいいから……」
その悲痛な叫びは、滑稽なくらい演技がかっていた。涙ながらに訴えているうちに興に乗ってきたのか、母は悲劇のヒロイン気取りで「お願いよ」と繰り返しながらドアを叩いた。逃げ場のない狭い六畳間で、わたしはたまらず両手で耳を塞いだ。
骨が痛むくらい掌を耳に押し当てていると、やがて、拳を打ち付ける鈍い音は、どさっ、となにか重たいものが落ちる音を最後に途切れた。次いで、さきほどよりも低い位置からむせび泣く声がする。
とんだ茶番だ。この後の展開も読める。どうせまたいつものように、母の連れ込んだ中年男がしゃしゃり出てきて援護射撃するのだ。援助といえば聞こえはいいが、つまるところ金で女を買っている分際で偉そうに説教を垂れる。ああ、あの尊大な口振りを思い出すだけで神経を逆撫でされて気分が悪い。
ところが、聞こえてきたのは例の甲高い早口ではなく、低く唸るような声だった。低音でぼそぼそと喋っているのでなにを言っているのかはわからないが、聞き覚えのない声だ。
男の声はすぐに衣擦れの音に変わった。すると母の泣き声も止み、二つの足音が部屋の前から遠ざかっていった。おおかた、痺れを切らした男が母の肩を抱いて寝室へ連れていったのだろう。当然の成り行きだ。わたしに説教を垂れようが垂れまいが、男達がこの家にやってくる目的は一つ……。
案の定、十分も経たないうちに、寝室の方から母の嬌声が漏れてきた。本人は「生活のため」だと言うけれど、体が疼けば報酬抜きに関係を持つ。たんに男なしでは生きていけない淫乱だ。そのくせ「あなたのため」などと恩着せがましいことを言うのだから反吐が出る。
わたしはヘッドホンをつけてCDコンポのスイッチをいれた。耳元のスピーカーから異国の音楽が流れる。曲名も歌手名も知らない。雑音を遮断してくれさえすればなんでもいい。古いベッドのスプリングが軋む音、高く低く獣のような喘ぎ声、それら卑猥な音でわたしの耳が汚されてしまわぬよう、ボリュームのつまみをめいっぱい回す。たとえ鼓膜が破れようが、難聴になろうがかまうものか。いや、むしろそうなってくれたほうがどんなにか幸せだろう。
ベッドの側面にもたれてフローリングの床に両脚を投げ出すと、無造作に積み上げた本の山に爪先が当たって雪崩が起きた。本の角が脛や足首を直撃する。痛みはあったが、本に埋もれた右足はそのままで、わたしは天井を仰いだ。
年中閉め切って、昼間でも電気をつけなければ満足に行動できない穴蔵のような部屋の天井は、いたる所にシミだかカビだか判然としないものが付着していた。半透明の電気の笠にはホコリが何層にも堆積し、溢れた綿ボコリがいくつかぶら下がっているのが見える。背中を預けたベッドのマットレスは湿っぽく、敷きっぱなしのシーツからは饐えた臭いがする。掃除はおろか換気すらしないこの部屋は空気がよどみ、臭くて汚い。
でも、外の世界はもっと汚い。母も、母の連れ込む男達もみんな汚い。それらを取り巻く環境も人間もみんなみんな汚い。だからわたしは部屋にこもるのだ。わたしが汚染されてしまわないように。これは自己防衛であって、男の言う「甘え」とは違う。
――ブツッ……、ブツッ……、
四曲目を過ぎた辺りで時折ノイズが入るようになった。それは初めのうちこそ微かに耳に触れる程度だったが、曲が進むにつれ大きくなり、その間隔も狭まっていった。そして九曲目にしてとうとう、物悲しげな旋律は耳障りなノイズに取って代わられた。
音は振動、振動は音。長時間、虫の羽音に似た異音にさらされ続けていると、CDコンポから出力された電気信号がヘッドホンユニットで羽虫に変換されて這い出してくるような錯覚に陥った。
おびただしい数の羽虫が、耳全体をすっぽりと覆うイヤーパッドの内部を這い回り、一匹、また一匹と外耳に這入ってくる。列をなし耳介の骨に沿って這う一群、執拗に窪みに潜り込もうとする一群、狂ったように同じ所をぐるぐる回る一群。それらの全身にびっしり生えた細かい体毛に刺激され、耳の裏から首の付け根にかけていいようのないむず痒さが走る。
引きも切らずに湧き出す羽虫は外耳道へと侵入してきた。楕円形の羽が狭い外耳道の壁面をこすり、ガサガサと紙を丸めるような音がする。それはトンネル状の外耳道で増幅され、轟音となって頭蓋骨を震わせた。
羽虫の群れは奥へ奥へと進み、やがて鼓膜へ到達すると、行く手を阻む薄い膜に前脚を突き立てた。えぐり、引き裂き、なおも前進しようとする無数の脚のリアルな感覚。
「いたっ……」
錯覚とは思えない鋭い痛みに、わたしは我慢しきれずヘッドホンに手をやった。
瞬間、剥き出しの銅線に感電したように肩がびくんとはねた。両掌に、プラスチックのイヤーカップではありえない感触が伝わったのだ。硬いような軟らかいような、これまでの人生で触れたことのない質感。わたしの手とイヤーカップとの間に得体の知れぬものが挟まっている。自分の手の位置からしてそう厚みのあるものではなさそうだが、そのただならぬ気配に、手探りで正体を確かめるのは躊躇われた。
わたしはそのままの姿勢で首だけひねって背後を振り返った。恐る恐る回した首は、しかし、左に九十度回転したところで止まり、わたしの双眸は西向きの掃き出し窓に釘付けになった。
深夜ゆえ外は真っ暗で、鏡状になった窓ガラスに室内の様子が映り込んでいる。右手の壁に沿って机と本棚、左手の壁際にはベッド。平行して並ぶ家具の狭間でベッドを背に、足を投げ出して座るわたし。そして――、わたしの上に覆い被さる、ぞろりと長い黒髪の女。女は腰をかがめて背後からわたしの耳を塞いでいる。わたしの両手は、まさに、その手の甲に接触していたのだ。
「ひぃ」
わたしは目茶苦茶に手足を振り回してヘッドホンをかなぐり捨てると、両腕で頭を抱え、床に突っ伏した。体温が移って生温かいフローリングに額を擦り付け、臆病な小動物さながら手足を縮めていると、息苦しさで意識が朦朧としてきた。このままでは酸欠になりそうだ。
あれはまだわたしの背後にいるのだろうか。窓ガラスにぼうっと浮かぶ女の姿が、きつくつむった瞼の裏に甦り、わたしはたまらずに頭を振った。そうやって女の残像を振り払っているうち、ふと、疑問がわいた。
――なんで? なんで、自分の姿が見えるの?
自室にひきこもって以来、わたしは外光を遮断してきた。窓には段ボールとガムテープで目張りをし、さらに厚い遮光カーテンをひいて日が射さないようにしていたのだ。なのに何故、窓ガラスに室内が映り込んでいたのだ? そもそも窓自体、隠れて見えないはずなのに……。
全身に冷水を浴びせられた気がした。カーテンは? 目張りは? どうなった? いつからなくなっていた? いつまであった? 記憶を辿っても思い出せない。
カリカリ、とかすかな音がした。どこかへ投げたヘッドホンからの音漏れだろうか。音は左から聞こえてくる。わたしは頭を抱えたまま、腕の間からそちらを見た。
掃き出し窓の右下隅でなにやら青白いものが蠢いている。目を凝らす。人の手だ。枯れ枝のように細い指が、神経質そうに窓ガラスを引っ掻いている。
「いやぁ」
わたしは手足をばたつかせて部屋から転がり出た。
体当たりした外開きのドアになにかがぶつかり、廊下を白い物体が勢いよく滑っていく。母が置いていったケーキの箱だ。弾き飛ばされて対面の壁に叩き付けられた箱は見るも無残にひしゃげていた。角が潰れ、変形した箱の隙間から生クリームが溢れて山になっている。べったりとクリームの付着した箱に油分のシミが広がっていくのがいやに鮮明に見えた。透明なシミは急速に拡大しつつ赤黒いシミへと変容する。と同時に、クリームの山の数箇所から赤い粒が押し出されてきた。一見イチゴかと思われたそれは、突然どろりと融けて、マグマのようにクリームの山肌を流れ落ちた。
粘度のある暗赤色の液体は見る間に廊下に流れ出し、気が付けばわたしの足元まで迫っていた。わたしは慌てて後ずさる。しかし度重なる怪奇現象にすっかり腰が抜けてしまい、素早く動くことができなかった。筋肉が弛緩し力の入らない脚を引きずって壁伝いに逃げた。じりじりと後退していると、後ろ手にドアノブに触れた。
わたしはすかさず部屋に逃げ込み、力任せにドアを閉めた。足を止めるとがくがくと膝が笑い、立っていられずにドアに倒れかかった。額と肩をしたたか打ち付け、痛みに呻く。
体勢を崩したまましばらくの間、ドアに体重を預けて荒い呼吸を整えた。そうしていくぶん平静を取り戻したわたしは、自分の今いる場所が母の寝室であることに思い至り、血の気が引いた。
今夜、母は男を連れ込んだ。今まさにわたしが足を踏み入れたこの部屋に……。
それにしては静かだ。闖入者があったにもかかわらず背後は静まり返っている。夜中に娘が血相を変えて飛び込んできたというのに、母はなぜ声をかけてこないのか。あまりに突然すぎて言葉を失くしているのか。それとも男と一緒に寝入っているのか。あるいは、すでに別の部屋へ移っているのか。
じっとりと汗ばむ手できつくノブを握り締め、わたしは背後に全神経を集中させた。鼻を衝く鉄錆の臭い。耳をそばだててみれば、ひたひたと水の滴る音が聞こえるばかりで人の気配はしない。
わたしはそろそろと室内を振り返った。ベッドと鏡台が置かれただけの四畳半の和室には、やはり人影はなかった。だがそれは、起きて、動いている人間がいないというだけで、ベッドの上の膨らんだ掛け布団が何者かの存在を知らせている。
その無造作に掛けられた布団に、わたしは妙な違和感を覚えた。橙がかった白熱灯に照らされて濃い陰影をつける盛り上がりが、人一人分にしては広範囲で、けれども二人分にしては小さすぎる気がしたのだ。そのことを訝しく思いながら掛け布団の膨らみを視線でなぞっていると、わずかにめくれた布団の端から黒髪が覗いているのに気付いた。その、床付近まで垂れた長い毛束を伝って、ひたっ、ひたっ、と粘り気のある液体が、毛足の短い絨毯に滴り落ちている。
「……お母さん?」
小声で呼んでみたが返事はなかった。わたしは嫌な予感を抱きつつベッドに近寄り、掛け布団の端をつまんでめくり上げた。最初に現れたのは黒髪に覆われた頭頂部、次は踵が天井を向いた足の裏。そこから伸びる病的に白いふくらはぎの上に載っているのは、腕? これはいったいどういう状態なのか。布団をめくるごとにわたしの頭は混乱した。脳裏に渦巻く疑問符の嵐。
しかしその一方で予感は確信に変わりつつあった。グロテスクなイメージが頭をもたげ、スプラッター映画で観た凄惨な映像が目の前の光景に重複する。本能が警告を発しているのか、心臓は破裂せんばかりに脈打ち、沸騰した血液で皮膚を内側から焼かれているような痛みに襲われた。
逃げろ、逃げろ、と遠くで誰かが怒鳴っている。早く逃げろ、と喚いている。これ以上は見ないほうがいい、見たところで不快感しか得られない、そんなことはわたしにだってわかっている。わかっているが、布団をめくる手が止まらないのだ。……いや、本当は見たいのではないか。汚い、と蔑み続けた母の末路を。淫蕩な生活の果ての悲惨な最期を嘲り笑いたいのではないか。ああ、思考がうまくまとまらない。もう、どっちでもいい。
わたしはいっきに布団をめくった。
「ぐぅ」
覆いを剥ぎ取り、隠れていたものが露わになった瞬間、耳の奥でぶつんとなにかが切れる音がして、視界が暗転した。
無秩序に転がる手足。ベッドの中央には四肢の欠落した胴体。仰向けの腹部は大きく十字に裂かれ、カラスに漁られたゴミ袋さながら、その内容物を周囲に撒き散らしている。それはまるで、鳥獣に荒らされたゴミ集積所のようだった。これが人間とは、母とは、とうてい思えなかった。
目の前の酸鼻な光景に胃が収縮し、熱い塊が食道を逆流する。反射的に口元を押さえたが、吐瀉物は喉を突き上げ、指の間から噴き出した。
激しい嘔吐と目眩で平衡感覚を失いながらも、わたしはまろびころびつ部屋から這い出し、ほうほうの体で玄関へと逃げた。
息も絶え絶えにノブに手をかけると、硬い金属音とともに掌に抵抗を感じた。鍵がかかっているのだ。鍵を開けようとサムターンをつまむ。が、汚物にまみれた指先では滑ってうまく回すことができない。恐怖と焦りで指がわなないた。それでもなんとか開錠し、わたしはドアを押した。
「なにしてるの、みちる」
「ひっ」
突然の声にわたしは飛び上がった。
「こんな時間にどこへ行くつもり?」
低く押し殺した声が耳に届くと同時に、背後から右腕が伸びてきてわたしの首に巻きついた。白くてぶよぶよした腕は汗ばみ、湿った肌の感触がたまらなく不快で、わたしは死に物狂いでもがいた。しかしもがけばもがくほど、前腕で喉仏を押し潰されて息が詰まる。
「ねえ、みちる。これまでさんざん好き勝手にひきこもっておきながら、いまさら外に出ようだなんて虫がいい話だと思わない?」
気道が圧迫され、喉から空気だか悲鳴だかわからない音がもれた。
涙があふれ、視界がにじむ。わずかに開いたドアの隙間から薄暗い共用廊下が見える。切れかかった蛍光灯が、カチッ、カチッ、と点滅している。それはまるでわたしを出口へと誘っているようで、わたしは最後の力を振り絞ってドアを前へ押した。
ガチッ、と手元で大きな金属音がした。愕然と見下ろす先には鈍色に輝くドアチェーン。ぴん、と伸びた鎖がわたしと外とを隔てている。わたしが外界を拒絶したように、外界もまたわたしを拒絶しているというのか。わたしはドアの外へと手を伸ばす。外へ外へと伸ばした指先が冷えた外気に触れる。あれほど忌み嫌っていた外の世界を、今はこんなにも渇望している。
――外へ出たい、外へ出たい、外へ……。
「ダメよ、みちる」
わたしの願いを断ち切るかのごとく、勢いよくドアが閉められた。挟まれた手に激痛が走り、骨の砕ける鈍い音がする。息苦しさと痛みで、わたしの意識は遠退いていった。
絶え間なく、粘り気のある水音が聞こえる。それに呼応するかのように、閉じた瞼の裏で、いつか観たドキュメンタリー番組の一場面がフラッシュバックする。しとめた獲物の腹を裂き、頭を突っ込む肉食獣。臓物を引き千切ろうと振り回すその顔は鮮血に染まっている。肉を食むたび全身に血飛沫を浴び、赤く濡れそぼった獣は、やがて、瞼の裏側に透けて見える血管の色に同化して消えた。
眼前はただただ赤く、もはや獣の姿はないというのに、やたら水気の多い咀嚼音だけは消えることなくいつまでも続いている。なにか嫌な夢を見ていた気がするが、頭の芯が痺れて思い出すことができない。
ゆるゆると瞼を開けると、薄汚れた天井が網膜に映った。安っぽいプリント合板の木目は、見飽きるくらい仰いだわたしの部屋の天井とは違っていた。居間や台所とも違う。ということは、母の寝室。
背中に当たる感触。この硬さは、……ベッド。
現状を把握した瞬間、全身に悪寒が走った。わたしは今、母の寝室のベッドに寝ている。母が何人もの男とまぐわった汚らわしいシーツに横たわり、母や男達の体液を吸って膨らんだマットレスに身を沈めている。
――汚い、汚い、汚い。
シーツから、マットレスから、生臭く濁った汁が染み出してわたしが汚染されてしまう。膿のようにどろりとした液体が毛穴から全身に回り、皮膚が、肉が、骨が、ぐじゅぐじゅと腐ってしまう。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ。
わたしは半狂乱で、腐臭を放つベッドから飛び降りようとした。けれどもわたしの意思に反して体は微動だにしなかった。半身を起こすことはおろか、首を持ち上げることすらままならない。
――誰か、助けて!
声にならない悲鳴をあげる。
「……ねぇ」
唐突に、右下の辺りで声がした。わたしは反射的に思考を止め、息を殺した。
「ねぇ、あなた」
媚びるような甘ったるい声。どうやらわたしに呼び掛けたのではなさそうだ。わたしは声の主に気取られないよう、眼球だけを動かしてそちらを見た。
わたしの腰の脇に、スリップ一枚の中年女が座っていた。情事の後を匂わせるぼさぼさの頭。贅肉でひだ状になった首筋は汗ばみ、白髪交じりの縮れた毛束がへばり付いている。
「満足してくれた?」
この声……。ドア越しでない、直接耳に触れる声音はいつもより若干高く感じられたが、それは紛れもなく母の声だった。
我が目を疑った。これが母なのか。薄紫色の布地の上からでも見てとれる段々腹が丸々と肥えた芋虫を彷彿とさせる、この醜い女が。男達を虜にしたしなやかな肉体も、艶やかな黒髪も、今は見る影もない。わたしの記憶にある母と目の前の女はまったくの別人だった。
「これでもう、私のこと捨てたりしないわよねぇ」
外見にそぐわない甘えた声でそう言うと、母はぶよぶよと締まりのない二の腕を振るわせて、見知らぬ男の肩にしなだれた。
男は、わたしの太腿の上に跨っていた。てらてらと脂ぎった赤黒い肌の中年男だ。四角い顔の中央に鎮座する大きな石榴鼻は今にもはぜそうなくらい赤く熟れていて、直視することができなかった。
男は母の声など耳に入らない様子で、なにやら一心不乱に手を動かしていた。その肩が上下するのに合わせて例の水音が響く。
「ねぇ、ねえってば……」
懸命に男の気を引こうとする母は、嫌悪感を通りこして憐れですらある。男の横顔にねっとりとした視線を注いで、母が囁いた。
「ああ、そうだ。――もう一人、作ってあげようか」
それを聞いて男は、手を止めてにやりと笑った。厚い上唇がめくれ上がり、ヤニで黄ばんだ歯が剥き出しになる。わたしは吐き気を催して目をそらした。
横を向くと古ぼけた鏡台が視界に入った。鏡の中には、ぞろりと長い黒髪の女がいた。ベッドに横たわり、陰鬱な瞳でじっとこちらを見ている。
女と対峙して、わたしはすべてを悟った。覚醒前に見ていた夢、いや、己の末路を思い出し、笑いが込み上げてきた。わたしは声をたてずに笑った。汚れた鏡面に映る下卑た笑顔は、男のそれとよく似ていた。




