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第六十三話 不穏な噂 ◆sideクロヴィス


「素晴らしい絵を描いてくれてありがとう」


「いえ、仕事ですから。それに、夫人やあなたたちの絵を描くのはとても楽しいですよ」



 マティアス殿を屋敷に招いてひと月が経過した。

 すでに複数枚アネットを描いたデッサンや、絵の具で着色した絵を仕上げてくれている。


 家族で過ごす日常の一幕を切り取った絵は、今にも動き出しそうなほど臨場感があって驚いた。



「フィーナも世話になっておりまして……感謝しています」


「ああ、構いませんよ。僕も絵に興味を持ってくれるのは嬉しいので、フィーナちゃんと過ごす時間は楽しいものです」



 そう、元々絵を描くのが好きなフィーナであったが、いつの間にかマティアス殿がアネットの絵を描いている時に物陰からジッと観察してくるようになったらしい。


 いち早く気づいたアネットがフィーナを呼びつけ、マティアス殿に見学させてもいいかと聞いてくれたのだ。それからはキラキラとした目でマティアス殿の手元を覗き込み、猛烈な勢いでメモを取っているのだとか。


 俺もたまに顔を出すのだが、その時は、「なるほど、パースの取り方はそうすればバランスが取りやすいのね」や、「色の重ね方が斬新だわ……! 形式に縛られていては殻を破ることはできないということね!」といったことを呟きながら、瞬き一つせずにマティアス殿の動きに見入っていて少し怖いぐらいだった。


 マティアス殿が集中できないのではないかと注意をしたこともあったが、マティアス殿が、「興味を持ってもらえるのは嬉しいし、集中が必要な作業は宿に戻ってからするから大丈夫ですよ」と快くフィーナを受け入れてくれたのでお言葉に甘えてしまっている。


 それだけではない。あまりにフィーナが熱心に見学していたので、仕事終わりの少しの時間を使って、フィーナに絵の描き方を教えてくれるようになった。これはマティアス殿の善意の申し出である。


 そうして二人は交流を重ねていき、フィーナはいつの間にかマティアス殿のことを「師匠」と呼ぶようになっていた。


 変化はそれだけではない。マティアス殿は、俺とアネットが二人でいる時や、少し会話をしている時に、ものすごく笑みを深めるようになった。「うんうん」と何度も頷きながら何かを噛み締めているようなのだ。フィーナもいれば、二人して同じ顔をして並んでいるものだから、なんだか居た堪れない。「気にせず続けてくださいね」と言われても困ってしまうのだ。


 というわけで、マティアス殿はすっかりアンソン家のみんなと打ち解けて滞りなく仕事を進めてくれている。カロライン嬢との関係は平行線のようで、会う度に押し問答をしている様子だが、それさえ楽しんでいるように見える。


 そして今日は成果物を見せてもらうために執務室に来てもらっている。


 出来上がった絵をいくつか見せてもらっているが、そのどれもが素晴らしい出来だ。今すぐに額縁に入れて屋敷中に飾りたい。特にアネットが膨らんだお腹に両手を添えて微笑んでいる絵なんてもはや女神では? 教会に飾るべきだと思う。俺とフィーナでアネットを挟み、ソファで世間話をしながら描いてもらった絵も素晴らしい。その時の記憶がありありと思い返される。



「それから、こちらは趣味で描いたものです」


「これは……我が辺境伯領の光景ですね。これもまた素晴らしい」



 マティアス殿が絵画を入れる専用の鞄から取り出したのは、主に風景画であった。

 そのどれも見覚えのあるもので、アンソン辺境伯領の各所の絵であることはすぐに察せられた。


 マティアス殿は毎日屋敷に訪れているわけではなく、彼のペースで仕事をしてもらっている。

 屋敷に来ない日は領地を馬で巡って、気になった光景をデッサンしてきたようだ。自慢の領地に興味を持ってくれて嬉しい気持ちが込み上げてくる。



「以前から自然豊かなこの地を巡りたいと思っていたので、ちょうどいい機会でした」



 そう言って微笑んだあと、マティアス殿はスッと笑顔を消して真剣な面持ちとなった。



「実は、領地のあちこちを回ってきたのには、もう一つ理由があるのです」


「他に理由が?」



 絵を描く以外に、何の理由があるというのだろうか。もしや、抜き打ちでの監査のようなものだろうか。領地の状態や領民の様子を確認しにきたのかもしれない。


 俺は緊張からごくりと生唾を飲み込んだ。一体何を語ろうとしているのだろう。



「去年の夜会での一件以降、中央は人事を一新して国政に巣食う膿を搾り出そうとしてきたことはご存知ですよね」


「ええ。国王陛下からも、祖父からも聞き及んでおります」


「芋蔓式でどんどんと第二王子派閥――もとい好戦派の者が出てきて、余罪の追求や処遇の決定に陛下も頭を抱えているようです。ですが、取り調べを進めるうちに、とある疑惑が浮かび上がりました」


「疑惑、と言いますと?」



 不穏な単語が飛び出し、思わず眉を顰める。



「第二王子の誘拐を主導していたのはご存知の通り軍部大臣でした。ですが、その実行犯の手配を進めたのは他の者だったようでして……ようやくそのことが判明した時には、その者は姿を眩ませてしまっていました」


「なんだと……⁉︎ いったい誰が」



 思わず身を乗り出した俺を諭すように、マティアス殿は静かな声音で続ける。



「ラッセル子爵です。物腰が穏やかな人柄で人望も厚い人でした。外務部に勤めていて、他国の言語にも情勢にも通じています。彼の代でこそ文官の職についておりますが、元々は軍人家系。戦争を起こし、領土の拡大を画策していてもおかしくはない」


「文官まで……中央は随分と腐っていたようだ」



 思わず天井を仰ぐ。


 俺の祖父の時代はまだ戦の絶えない時代だった。昨今ではようやく平和が訪れたが、その影では先王が周辺国に自ら赴いて双方の不可侵条約を締結するために奔走していた。

 これまでずっと敵として対峙してきた国に自ら交渉して回るのは、大国の矜持に背くと反発する声も多かったそうだ。


 だが、先王は未来の平和のため、各国との国交成立をひたすら目指した。

 そのおかげで、今日まで戦は起きていない。現王も先王の意志を継いで戦争のない世界を作るために日々邁進している。


 俺は、武力で押さえつけずに歩み寄りの道を選んだ先王や現王の姿勢を尊んでいる。



「第二王子派閥は時代に取り残されたかつての遺物たちだ。過去の栄光に囚われ、大国至上主義の念が強すぎるがために不必要なプライドばかりが肥大化してきたのです。戦争が起きれば、勝ち負けに関わらず大きな損失を生むということを分かっていない。戦争を知る世代であるはずなのに」



 マティアス殿は苦々しげに歯を食いしばった。



「それで、ラッセル子爵の動向は?」


「ラッセル子爵は決して裕福な家門ではありませんからね。王都に構えるタウンハウスもこぢんまりとしていて過ごしやすそうな門構えでした。家宅捜索に入った時にはすでに家族を連れて夜逃げした後だったというわけです」


「ふむ……逃亡先に見当はついているのですか?」


「十中八九、隣国――フィチアナ王国でしょう。外務大臣として最も親交深く付き合いをしていたようなので、逃亡先の確保をしていてもおかしくはありません。それに、我が国が面している国々の中で、国交成立までに最も時間を要し、苦慮した国ですから。フィチアナ王国はもとより軍事国家です。侵略のきっかけさえあれば、友好条約を反故にしてでも攻め入ってくる可能性はある」



 なんということだ。

 フィチアナ王国、つまり、我がアンソン辺境伯領が面している国が疑わしいということか。


 戦の時代、フィチアナ王国は敗北が目に見えていても無謀な作戦で強襲を繰り返し、最後まで制圧に苦慮した国だった。そうした歴史的背景もあり、アンソン家は隣国の動向に厳しく目を光らせている。国王陛下もこの地の重要性を理解されており、定期報告を欠かさず入れている。



「子爵だけでなく、実行犯として雇われていた傭兵たちも恐らく全て捕えられてはいない。雲隠れしたものや、逃げ延びたものもいるはずだ。その者たちを手引きし、何か仕掛けてくる可能性も低くはない。古くから居座っていた重鎮たちも広く粛清された今、なりふり構ってもいられないだろうしね」


「国境付近の警戒は怠っていません。王都から戻ってからは一層注意深く巡回しておりますが……さらに人手を増やした方が良さそうだ」



 国境は深い渓谷で隔てられており、陸続きのところは高い塀が建てられている。各所に砦があり、昼夜問わず警備している。


 だがもし、命懸けで渓谷を下り、激流を越えたのだとしたら――あるいは、別の国に一度出てからフィチアナ王国に入ったのだとしたら。ともかく、すでに国を出ていると考えた方がいいだろう。


 俺の考えを読んだのか、マティアス殿は一つ頷いて膝の上で手を組み、そこに顎を乗せた。



「このひと月で国境付近を中心に領地を見させてもらったが、よく管理されています。子爵家お抱えの傭兵たちは、きっともう隣国に渡って身を潜めているでしょう」


「より一層、隣国の動向に目を光らせる必要がありますね」


「ええ。国王陛下からもそのように言付かっております」



 今回、マティアス殿を呼んだのは偶然であったのだが、よくよく考えてみれば、国王陛下に妊娠の報告を入れた際、いくつかの話題の中に王都に優秀な画家がいるという話があった。


 もしかすると、彼を呼びつけるように誘導されていたのでは、とつい愚考してしまう。


 そうであろうとなかろうと、俺のすることは変わらない。家族を、この地を、この国を守るために備えるのだ。



「それにしても、さすがはライモンド公爵家のご子息です」


「何のことだい?」



 マティアス殿は飄々とした顔をしているが、ライモンド公爵家といえば、古くからの忠臣で、優秀な密偵を多く抱える家門だ。公に動くことはないが、彼らの情報網は侮れないと祖父がよく唸っていた。


 それだけではなく、公爵家の者自身も精霊の力を借りた優れた情報収集能力を持っているという噂がある。これはあくまでも噂なのだが、この国で最も情報が集まる家門といっても過言ではないだろう。


 精霊の力を借りれば隣国の様子を詳しく探れそうだと思えるが、精霊は土地に根ざしている。つまり、ライラット王国から外に干渉することはできないのだ。そもそも軍事国家であるフィチアナ王国は精霊の祝福を受けていない。精霊たちは平和で穏やかな日々を望んでいるのだ。



「とにかく、そういうわけで僕は引き続きこの地に滞在させてもらうよ。お互いに情報共有をしつつ、有事に備えましょう」


「ええ、心強いです」



 にこやかに差し出された手を握る。


 優しげな面持ちとは対照的に、手のひらは思っていたよりゴツゴツとしている。ずっと筆を握っているからか、たこができているようだ。まるで剣を握った時にできる剣だこのようで、少し親近感を抱いた。


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୨୧┈┈┈┈┈┈ 12月10日配信┈┈┈┈┈┈୨୧

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