第六十一話 マティアスの事情② ◆sideマティアス
お茶会会場の方がにわかに騒がしくなり、すぐに僕たちがいないことに気づいた侍従たちが探しにくるだろうと予測された。僕たちは密かな逢瀬を隠すために地面に描いた絵に土を被せて消し、会場へと戻った。衣服や手足についた土については、「転んだ」の一点張りで言い切った。
この日から僕は一層勉学に励み、父に認められるように努力した。
そして学園に入学し、寮に入った。寮には監視の目がないので、クラスメイトたちに揶揄われながらも、画材を買って絵を描き続けた。
最初こそ鼻で笑っていた彼らも、ただひたむきにキャンバスに向き合う僕の姿を見て、次第に僕の夢を応援してくれるようになった。
密かに絵画のコンクールにも出品し、何度かの落選を経て見事受賞。海の向こうにある芸術に優れた街への留学の権利を獲得した。
そこで初めて、僕は公爵家に戻り、自らの夢を打ち明けた。
これまで描いてきた絵と、コンクール受賞の盾を両親の前に並べ、本気で画家を目指したいと切に訴えた。
何度退けられようと、引くつもりはなかった。
その覚悟を持って挑んだのだが、ジッと絵に見入っていた両親は、意外にも僕の夢を受け入れてくれた。
「マティアスの絵の才がこれほどだとは思わなかった。いや、お前が幼い頃に頭ごなしに否定せず、自由に才能を伸ばす機会を与えてやるべきだった。よくぞ一人でここまで成し遂げた」
「マティアス、あなたは今も昔も、私たちの大切な子供よ。これまで無理を強いてしまったわね。思いっきり挑戦してきなさい」
「あ、ありがとうございます」
いつも厳格な父が、ぎこちないながらも微笑を携えている。母の目尻には涙が滲んでいた。
兄が次期公爵として頭角を表していることも少なからず理由としてはあるのだろうが、二人なりに子育てに悩んでいたのかもしれない。公爵家を支えるものとしての責務と、父や母としての優しさ。貴族社会で優先されるべきは前者であり、彼らもまた、しがらみの中でもがいていたのかもしれない。僕の方こそ、もっと両親に夢を語り、絵について学びたいと訴えるべきだった。
「ただし、一つだけ条件がある」
ここまでの歩みを回想していると、父がいつもの引き締まった表情に戻り重々しく口を開いた。
僕も居住まいを正して言葉の続きを待つ。
「画家を目指すとはいえ、お前は我が公爵家の者。良縁を結ぶ責務がある。格式のある家との婚約を進めたい」
これまで学業に専念したいからと、婚約者を決めずにいたが、流石に決める時が来たらしい。
むしろ、縁談は多く届いていただろうに、学園に通う年頃になるまで婚約者を決めずに許されていたことが異例だろう。実際、兄には幼い頃からの婚約者がいる。
婚約者か……画家として生計を立てていきたいと考えている僕を理解してくれる女性がいるのだろうか?
そう考えた時、不意に幼き日の記憶が色鮮やかに蘇った。
僕が絵の道に進む後押しをしてくれた少女。太陽のように眩く、真っ直ぐで、あの日僕の絵を褒めてくれた彼女であれば、受け入れてくれるかもしれない。
いや、それは建前だ。
僕は結婚するなら彼女――ミランダがいい。
今日この日を迎えるまで、画家の道を諦めそうになる日ももちろんあった。
だが、そんな時に決まって思い出すのは彼女の眩い笑顔と言葉だった。一度会っただけなのに、彼女の存在にずっと支えられてきたんだ。
僕はきっと、あの日彼女に恋をした。
今になってようやくそのことが胸にストンと落ちてきた。
それに、侯爵家の生まれであり、宰相の娘である彼女であれば家格は申し分ない。僕たちの婚姻が実れば、我が国の地盤はより強固なものとなるだろう。
父は僕が特定の令嬢を求めたことに驚いた様子だったけれど、「申し分ない相手だ。こちらから婚約の打診をしてみよう」とすぐに話を進めてくれた。
そうだ、彼女に絵を贈ろう。王宮のお茶会で一度会っただけの僕のことなんて、もう忘れているかもしれない。けれど、絵を見て少しでも僕を思い出してくれれば――
僕は手のひらに乗るサイズのキャンバスに、色とりどりの花々に囲まれる幼き日のミランダの絵を描いた。そして、父に頼んで婚約の打診とともに彼女に贈ってもらった。
どうか、あの日のことを覚えていますように。そう願いを込めて。
それから一週間は、机に向かってもどうも心が浮ついて、何も手につかない日々を過ごした。
そして彼女から快諾の返事が来たときは、天にも昇る思いだった。
彼女もまた、この年まで婚約者がいなかったのは幸いだった。噂によると宰相である父が厳しく選別していたらしいのだが、どうにか認められてよかった。
本当はすぐにでも会いに行きたかったけれど、留学の日が迫っていた。
僕は絵を添えた手紙を書いた。
君と婚約が結べてとても嬉しい。しばらく知見を広げるために海を渡るけれど、留学期間を終えるまで待っていてほしい。きっと迎えに行くから、と。
留学中に僕は懸命に芸術について学び、コネクションを作り、たくさんの作品を生み出した。
きっと立派な画家となり、彼女を迎えに行こうと心に決めて、一心不乱に絵を描き続けた。
◇
「留学中も手紙のやり取りは欠かさずにいたけれど、帰国を目前に、パッタリと返事が届かなくなったので心配していたんです。僕自身も実際にミランダと会うのは子供の頃以来だったし、とても緊張していたのですが……いざ顔を合わせてみれば、ミランダは僕との婚約を無かったことにしたいと言い出してね。とても困惑したものです」
「まあ……」
困ったように眉を下げるマティアス様の心情を慮ると、胸がつきりと痛んでしまう。
去年の夜会というと、リューク殿下が狙われたあの夜会のことだろう。
あの日、マティアス様は会場にはいらっしゃらなかったと思うけれど、どうやらミランダ様にこっぴどく振られたショックで寝込んでしまっていたらしい。
「あなたは私の理想の人じゃないの、私には運命の人がいるの、の一点張りで取り付く島もなく……だけど、僕は諦めなかった。どうにかミランダに振り向いてもらおうと猛アタックを始めました。手紙のやり取りをしていたとはいえ、婚約後二年も一人にしてしまったからね。改めて彼女に愛を乞うことは苦じゃなかった。でもそんな矢先、ミランダは突然姿をくらませてしまって……公爵閣下もミランダの行き先は教えられないと首を縦に振ってくれなくてね。まさか行儀見習いの名目で辺境伯領に滞在していたとは驚きましたよ」
「そんなことがあったの……」
マティアス様の話を聞いていて、私はミランダ様のことをあまり知らないのだなと驚かされた。純真無垢で、少し暴走しがちなところはあるけれど、真っ直ぐに好きなことに邁進するところはどこかフィーナと似ている。だからこそ微笑ましく、一緒に過ごす時間を楽しく思っている。
「だから、今回の話は僥倖でした。辺境伯領に滞在している間に、必ずミランダを振り向かせてみせますよ」
そう言ったマティアス様の笑顔はとても眩しかった。
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村での宿泊の際に部屋割りで揉めたお話や、フィーナ六歳の誕生日会のお話、
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