第六十話 マティアスの事情① ◆sideマティアス
僕は公爵家に生まれながら、絵が好きで、物心ついた頃から絵を描いていたような子どもだった。
だが、由緒正しき公爵家の子として、絵を描く暇があるなら勉学に励めと父に筆を取りあげられてしまった。
厳しい教育を受け、ライモンド公爵家の名に恥じぬ人間になるように、と。
幼い頃は画家になりたいと夢描くことすら悪いことだと思って諦めていた。
許されないことなのだと、そう思っていた。
唯一、幼少期に与えられた絵本でのみ、僕は絵画と繋がることができた。
何度も何度も絵本を読み返し、空想に耽り、物語に没入した。
絵本は好きだ。絵本を読んでいる時だけは、僕は何者にでもなれる。
ドラゴンと戦う勇敢な戦士、囚われの姫を助ける王子様、広大な海に出て荒波に立ち向かう航海士など、絵本を開けばもう僕は絵本の主人公だ。
一枚一枚の絵は丁寧にその世界観を描き上げていて、まるで異世界に入り込んだかのような非日常的な体験を与えてくれる。繰り広げられる物語に憧憬し、僕も同じように絵本の世界に没入してワクワクさせることができる物語を描きたいと願ってしまうほどに。
だが、これも決して口にしてはならない夢物語だ。
それこそ、絵本作家になりたいと口にしたら最後、唯一の楽しみである絵本まで取り上げられてしまいかねない。
僕は胸に抱いた夢をそっと心の奥深くに蓋をして、ひたすら従順に、日々勉学に励んだ。
だが、筆を取り上げられてしまってからも、どうしても何か描きたくてたまらず、自習の時間に紙の切れ端をかき集め、夜な夜な小さなランプで手元を照らしてペンでガリガリと絵を描き続けた。描いた絵が見つかっては大変なので、翌日くしゃくしゃに丸めてゴミの収集場所まで捨てに行った。そんな日々の繰り返しだった。
そして十歳を迎えたある日、僕は王宮主催のお茶会に招かれた。
婚約者候補を見つける場として、同年代の令嬢令息が集められた場であり、言わば王家主催の大規模なお見合い会場であった。
僕は次男であるが公爵家の血を引く者として、たくさんの令嬢が頬を桃色に染めながらなんとか縁を繋ぎたいと話しかけてきた。
無難に挨拶を交わして、曖昧に微笑み、時が過ぎゆくのをただ待っていた。
ああ、絵が描きたい。そう思いながら。
だがやはり、どうも息が詰まってしまう。愛想笑いにも疲れてきたので逃げるように庭園に入り込んだ。
そして、庭園の隅でうずくまっている一人の少女を見つけた。
もしかして、体調不良か? 人が多いから人酔いをしたのかもしれない。あるいは、緊張で気分が優れなくなったのか。
「どうしたの? 人に酔った? お腹が痛い?」
思わず駆け寄り顔を覗き込むと、少女がパッと顔を上げた。
突然声をかけられて驚いたようにこちらを見上げた少女の瞳は翡翠色に輝いていて、丸々と大きく見開かれていた。振り返った拍子にふわりと広がった桃色の髪はふわふわで、まるで精霊の愛し子が人間界に迷い込んできたのかと錯覚した。
つまり、僕はポカンと呆けて彼女に見惚れてしまったのだ。
「いいえ、体調は悪くないの。お父様に言われて参加したのだけれど、つまらなくて。なぜだか無性に絵が描きたくなったの。不思議ね、こうした遊びは初めてのはずなのに、なんだか懐かしいわ」
彼女の手元に視線を落とすと、彼女は地面に木の枝で絵を描いていたようだった。
木の枝を揺らしながら無邪気に笑う彼女の隣に、引き寄せられるように腰を落とした。
すると、彼女はニコリと微笑んで、自分が使っていた手頃な大きさの木の枝を差し出した。
恐る恐るそれを手に取り、地面に先端を刺した。そっと線を引くように動かせば、ザリ、と土を削る感触が枝越しに伝わってくる。
紙に書くのとは違った感触が楽しくて、僕はついつい色々な絵を描いてしまった。
花、動物、精霊――どれもいつも暗い部屋で小さな紙にギュウギュウ詰めにして描かれてきたモチーフたちだ。
それが今、日の光を浴びて、際限のない大きなキャンバスの上で生き生きとしているように見えた。陸に打ち上がった魚が水を得たように、力強く、キラキラしている。
あらかた描き終えて、満足した僕が手を止めると、不意にパチパチと小さな拍手が聞こえた。
そこでようやくハッとする。
そうだ、今、僕は一人じゃなかった。人前で絵を描くなんて、お父様にバレたら何と言われるか。今度こそ絵に関わるものは全て取り上げられ、厳しい監視の元に置かれるに違いない。
それに、地面に描いた絵を見れば、僕が普段からずっと絵を描いていると容易に想像できるはずだ。
貴族令息が、それも公爵家の者が、絵なんて――そう笑われるか、嗜められるか。
嘲りを受ける覚悟を決めてギュッと瞳を閉じる。
だが、彼女の口から紡がれた言葉は、そのどれでもなかった。
「あなたの絵、とっても素敵だわ!」
思わず目を見開いて顔を上げると、彼女は興奮した様子で拳を握り締め、頬を上気させながら僕の方へ身を乗り出していた。
「……え、いや、でも。おかしくはない? 貴族の生まれなのに、絵を描くのが好きなんて」
「え? どうしておかしいの? 絵が上手だなんて羨ましい」
そう言って彼女が眉を下げて指で指し示したのは、先ほどまで彼女が描いていた絵だ。
……うん、確かに全体的にバランスは悪いし、このウサギ……? は腹に尻尾が生えている。
「私、絵の才能がないみたい。だから、あなたのことがとっても羨ましいわ」
「そ、そうかな……何か描いて欲しいものがあれば描くけど……」
「本当⁉︎ そうね、じゃあお馬さんは? あと、私の顔! 可愛く描いてね」
そう言って両手で自分の頬を包む彼女に、プハッと堪えきれずに吹き出してしまう。
「……僕はマティアス。君は確か、宰相の?」
「ええ、ミランダ。宰相の娘だからって、媚びを売ってくる男が多くてここに逃げ隠れていたミランダよ」
「ふふ、僕と似たようなものだ」
お互い顔を見合わせてくすくすと笑い合う。
それからは、時間を忘れて地面にたくさんの絵を描いた。
描いては消して、消しては描いて。とにかく手が動く限り書き続けた。
ミランダはその全てを褒め称えてくれて、僕は生まれて初めて自分の絵を褒められるという経験を得た。これまでは悪きこととされ、禁止されてきたものを、彼女は認め、褒め、喜んでくれる。
じわじわと胸に広がる歓喜の思いをぶつけるように、ひたすら描き続けた。
初めて絵を褒められて気持ちが浮ついていた僕は、描きながら、画家になりたいことや、絵本を描いてみたいといったことを吐露してしまった。
これまで誰にも言えなかった、けれど、ずっと手放すことができなかった僕の夢。
それもミランダは笑うことなく聞いてくれ、応援してくれた。
「すごい! 私と変わらない年齢なのに、もうやりたいことが見つかっているのね。ふふ、あなたが描いた絵本が読みたいわ。きっと素敵な絵本に違いないもの」
「描いたら、一番に君に見せるよ」
「本当⁉︎ 約束よ」
その時のミランダの笑顔はまるで太陽のようで、夜の闇に紛れて大事に育ててきた僕の夢、そして未来を照らす光となった。




