第五十九話 マティアス・ライモンド
「先程は失礼しました。改めまして、僕は画家のマティアス・ライモンド。そしてここにいる愛しのミランダの婚約者です」
「やだ、どさくさに紛れて触らないでよ! あなたとの婚約は白紙にするって言ったはずよ。お父様にも伝えているもの!」
「はは、ミランダは相変わらず素直じゃないね。それに、申し訳ないけれど特別な理由もなく公爵家との繋がりであるこの婚姻を反故にすることは叶わないよ」
「ムキィッ! それよりどうしてあなたがここにいるのよ! 私を追いかけてきたならストーカーとして訴えるわよ!」
「いいや、残念ながらそうではないさ。僕は画家として正式にこちらのアンソン辺境伯から依頼を受けてやってきたんだよ。君は滞在先を僕に知らせることなく姿を眩ませてしまったからね。ここに滞在していると知ったのはつい先ほどのこと。これはきっと神が僕たちを引き合わせてくれたに違いがない。さあ、ミランダ。仕事が終わったら僕と一緒に王都に帰ろう。そして結婚しよう」
「嫌よっ! 私は結婚なんてしないわっ!」
「まあまあ、ミランダ様。落ち着いて……」
終始肩を怒らせるミランダ様に対し、そんな態度を取られてもにこやかな表情を崩さないマティアス様。なかなかどうして口を挟む隙がない。
「マティアスのどこが嫌だというのだ。マティアスは優しくて絵が上手くて子供の扱いも上手ないい男じゃないか。ミランダのくせに生意気だぞ」
「ダメよ、リューク。口を出したらややこしくなるわ。ここは子供らしく黙って聞いておくに限るの」
リューク殿下は、大好きなマティアス様を悪く言われて不貞腐れた様子でミランダ様に苦言を呈している。それをフィーナが窘めているけれど、随分と達観したことを言うわね……
収拾が付かない場を前にオロオロ困惑していると、クロヴィス様がわざとらしく大きな咳払いをした。
「あー、マティアス殿がカロライン嬢の婚約者だとは驚いたが、彼を呼んだのは俺だ。まずは仕事の話をさせて欲しい。積もる話はそれから頼む」
「ああ、そうだね。ミランダとは後でじっくりと話すことにするよ。二人きりでね」
「誰があんたなんかと!」
「カロライン嬢、頼むから少し静かにしていてくれ」
「むむう〜」
片手で額を押さえるクロヴィス様に言われ、ミランダ様は唇を尖らせながらプイッとそっぽを向いた。
クロヴィス様は一つ息を吐くと、背筋を伸ばしてマティアス様に向き合った。
「マティアス殿に頼みたいのは、今妊娠中のアネットの変化を記録すること。それから、俺たち家族の日常を切り取ったような絵を描いて欲しいのです」
「ああ、お安い御用だよ。謹んでその依頼を受けましょう。ちょうど今、他の仕事をセーブしているところでね。しばらく辺境伯領に滞在できるから、何枚か描きたいと思っていますよ」
「それは助かります。早速ですが、今日は顔合わせに加え、こちらの要望の整理、その上で屋敷の中を案内しましょう」」
「えっ、マティアスも一緒にここに住むのか⁉︎」
フィーナに言われた通り、静かに話に耳を傾けていたリューク殿下が堪えきれずに声を上げた。
その期待に満ちた輝く目を見て、マティアス様はゆっくりと首を左右に振った。
「いや、近くの街の宿を取っている。場合によっては泊めてもらうこともあるだろうけど、基本的には宿を拠点に活動するつもりさ」
「えー……屋敷に滞在したらいいのに……」
「せっかく辺境伯領にきたのだから、この地ならではの自然や町の風景を描いておきたくてね。一番近い街の宿を取っているし、夫人の絵を描くために頻繁に屋敷にやってくるから。だからまた、一緒に絵を描こうじゃないか」
少し唇を尖らせて、甘えた様子を見せるリューク殿下。
その頭を優しく撫でながら、腰を落としてリューク殿下の目を見て話すマティアス様。
微笑ましく様子を見守っていると、ソファの端にちょこんと座るフィーナの声が耳に届いた。
「ねえ、クロエ。この胸の高鳴りは何かしら?」
「なんでしょう……私も同じ気持ちを持て余しております」
「幼児と美青年の図……新たな扉の予感?」
ソファに座るフィーナと、その後ろに控えるクロエが揃って胸に手を当てながら首を小さく傾けている。二人の視線の先には、リューク殿下とマティアス様がいる。
どうかしたのかしら? それにしてもこの二人、どんどん挙動が似てきているような気がするわ。
とにかくこの場はクロヴィス様が両手を叩いて解散とし、クロヴィス様とマティアス様、それから私を残して他のみんなは応接間を後にした。
◇
その翌日、早速私の絵を描きたいというマティアス様の申し出を受け、私は中庭のガゼボでのんびりお茶を飲んでいる。
畏まらずに普段通りリラックスした状態でいいと言うので、世間話をしながら穏やかな時を過ごしている。
その間も、マティアス様はデッサン用の木炭を軽やかに動かして次々とラフ画を仕上げていく。
「それにしても、まさかマティアス様がミランダ様の婚約者だなんて……不思議なご縁があるものですね」
「ええ、僕も驚きました」
触れてもいいのかしらと様子を窺いながらミランダ様の話題を上げると、マティアス様の表情がふわりと華やいだ。目元が僅かに赤らみ、彼女を想ってか細められた目には慈愛が満ちている。
「マティアス様は本当にミランダ様を愛していらっしゃるのですね」
感嘆の息と共に思わず溢すと、マティアス様は嬉しそうに笑みを深めた。
「ええ。ミランダは僕の唯一で、特別な人ですから」
「まあ……」
恥ずかしげもなくサラリと言ってのけるマティアス様。あまりの真っ直ぐさについこちらが照れてしまう。
ミランダ様はマティアス様との婚約を嫌がっている様子だったけれど、こんなに真っ直ぐに愛を向けられて素直になれないだけではないのかしら。
なんて考えていると、不意にマティアス様の表情に影が落ちた。
「アンソン夫人は、ご主人と良き関係を築いているようですね。昨日今日と屋敷を見せていただきましたが、屋敷の雰囲気もとてもいい。使用人たちも真面目で勤勉だし、子供達ものびのびと過ごしている。リュークのあんなに砕けた笑顔を見るのは随分と久しぶりです」
マティアス様は少し遠くを見つめて目を細めた。そして、ゆっくりとこちらを向いた。
「少しだけ、昔話に付き合ってもらえますか?」
マティアス様は大切な思い出のページを捲るように、静かに語り始めた。




