第五十八話 ミランダの婚約者⁉︎
「暖かくなってきましたね」
「ああ、そうだな。そろそろ雪解けの季節だ」
朝目覚め、外の空気を吸うために窓際に歩み寄った私は、少し前まで一面銀世界だった中庭を見下ろした。傍にはクロヴィス様が私を抱えるように寄り添ってくれている。
中庭に深く降り積もっていた雪は、徐々に溶けてところどころから鮮やかな緑が顔を覗かせている。
クロヴィス様が注力されていた貯水湖も無事に完成し、これから雪解け水を十分に蓄えていくことだろう。完成報告を受けた時は本当に安堵した表情をされていた。
お腹の膨らみも少しずつ目立つようになってきて、最近ではお腹周りを締め付けないゆったりとした丈の長いワンピースにばかり袖を通している。ジュエンナ様の知人の服飾店で作られたワンピースは、肌触りも通気性も良くてすっかり気に入ってしまった。
最近ではポコンポコンと赤ちゃんがお腹を蹴ることも増えてきて、その度に「今は何をしているのかしら」「もしかして踊っているのかしら」なんて赤ちゃんの様子を想像している。
「日々の変化を何かの形で記録しておけたら素敵なのに……」
今日も元気にお腹を蹴る我が子を撫でながら、ふとそんなことを呟いてしまう。
「ふむ……確かに思い出だけでなく、何か目に見える形で……そうだ!」
隣で寄り添うクロヴィス様が少し考え込んで、妙案が浮かんだのかポンと手を打った。
「王都で有名な画家がいるらしいのだが、彼に肖像画を描いてもらったらどうだろう? 彼のスケジュール次第だが、ひと月に一度描いてもらえたらお腹の変化がよく分かるのではないだろうか」
「まあ! それはいい考えですわ! それなら、クロヴィス様とフィーナとの三人の絵も描いて欲しいです」
「いいな。早速手紙を出してみよう」
クロヴィス様の素敵なアイデアに、ついつい表情が綻んでしまう。
着飾らず、日常を切り取った一枚は、きっと家族にとっても大切な一枚となるだろう。
早速クロヴィス様は伝手を頼って画家の方に連絡を取り、半月後に辺境伯領に訪問いただく手筈を整えてしまった。
そして半月後――
「やあ、初めまして美しい人。この度は栄誉あるお役目をいただけて光栄です」
「い、いえ……遠路はるばるご足労いただきましてありがとうございます。滞在中はどうぞ我が家だと思ってごゆっくりお過ごしください」
アンソン辺境伯家のエントランスで出迎えたのは、少し癖毛がかった輝くブロンドヘアに、夏の空のように青い碧眼を持つ、まるで絵本から飛び出してきた王子様と見紛うほど美しい男性だった。真っ赤なベレー帽がとてもよく似合っている。
というか、この方ってもしかして……?
「あなたは――」
「マティアス? マティアスじゃないか! どうしてここにいるのだ?」
記憶の糸を辿りながらおずおずと問いかけようとした時、私の言葉に被せるように嬉々とした声が聞こえてきた。
声の主を探して振り向くと、鼻先に泥を付けたリューク殿下が目を丸くして立ち尽くしていた。
その隣には、同じく額に泥をつけたフィーナが目を瞬かせながら佇んでいる。
二人はすっかり雪が溶けて若葉が青々と茂り始めた中庭で遊んでいたはずだけど、来客の気配を感じてエントランスにやってきたようだ。
「おお、リュークじゃないか。元気そうで何よりだよ」
マティアス様はリューク殿下の元に駆け寄ると、爽やかな笑顔を讃えながら真っ白なハンカチを取り出してリューク殿下の鼻先を拭った。
「画家の仕事で来たんだ。君のお父上から辺境伯領に行くのならリュークの様子も見てきて欲しいと言われていたのだが……すっかり健康的になったな」
「む……ありがとう。僕は元気に楽しく過ごしているぞ」
「そのようだね」
マティアス様はとても優しい目でリューク殿下を見つめている。
リューク殿下もまた、マティアス様に心を開いている様子で、歳の離れた兄弟のような仲の良さが窺える。
やっぱり、第二王子とこんなに気さくに会話されているということは……
「ライモンド公爵家のマティアス様でいらっしゃいますね」
静かに声をかけると、リューク殿下の目線の高さに腰を落としていたマティアス様がゆっくりと立ち上がった。その所作一つ一つに無駄がなく、洗練されている。
「ええ。ご挨拶が遅れました。僕はマティアス・ライモンド。確かに公爵家の次男に生まれたけれど、今は自立して画家として生計を立てています。ここでは、ただのマティアスとして接してくれると嬉しいな」
やっぱり。王都にいた時、夜会で何度かお会いしたことがある。
何代か前の王女様が降嫁した家紋であるライモンド公爵家。つまり王家に連なる家系である。
そのため、リューク殿下とも交流が深いのも頷ける。
「マティアスは僕が引きこもっている間も、絵本を持ってきてくれたり、絵を描いているところを見せてくれたり、気にかけてくれたんだ」
「そうなのですね!」
二人の関係は、リューク殿下が隣のフィーナに紹介した言葉により明らかとなった。
「ああ。マティアスは画家であり絵本作家だからな! フィーナも絵を描くのなら、マティアスに色々と教わるといいぞ!」
「画家……? 絵本作家……⁉︎ これは弟子入り不可避では……?」
途端に真顔になり声を落とすフィーナ。
弟子入り? 確かにフィーナは絵が好きだから、マティアス様と親交を深められたら技術指導をしてもらえるかもしれないわね。
子供の才能を伸ばすのも親の務め。お時間があれば頼んでみましょう。
「では、マティアス様。応接間へご案内しま――」
「げっ! マティアス様⁉︎ どうしてここにいるのよ!」
いつまでもエントランスで立ち話をするわけにもいかないので、そろそろ応接間へご案内しようと一歩足を踏み出した時、エントランスの階段の上から悲鳴のような声が降ってきた。
みんな一斉に上を見上げる。
そこには、とても嫌そうに表情を歪めながら身を乗り出して階下を見下ろすミランダ様がいた。
「ミランダ!」
ミランダ様の姿を認めたマティアス様の表情がパッと輝いた。
それはもう、ぶわりと薔薇の花ば舞い散る幻覚が見えるほどに。
マティアス様は私たちが制止する間もなくエントランス階段を駆け上がり、仰け反るミランダ様の前に跪いた。
「会いたかったよ、我が愛しの婚約者殿」
「まさかこんなところまで追いかけてきたの⁉︎ 私は会いたくなかったわよ!」
蕩けるような眼差しと声音で愛を囁くマティアス様に対し、ミランダ様は金切り声をあげて頭を抱えている。
……待って? 今、マティアス様は何とおっしゃったのかしら?
答えを求めるために、思わずフィーナに視線を投げてしまう。
フィーナも目をまんまるにしてこちらを見ていた。
そして二人同時に再び階段の上を見上げる。
「……え、婚約者⁉︎」
私とフィーナは同時に驚きの声を上げた。
「すまない、遅れた」
その時、急ぎの案件対応に追われていたクロヴィス様が額に汗を滲ませながらエントランスにやってきた。
エントランスで呆けた顔をして立ち尽くす私とフィーナ、そしてリューク殿下もご存じなかったのか顎が外れるのではと心配になる程口を大きく開けて固まっている。
そして階段上で未だに押し問答をしているミランダ様とマティアス様。
何度か視線を階段の上と下に往復させたクロヴィス様が戸惑ったように眉を下げた。
「……これはどういう状況だ?」
「わ、私にもさっぱり……」
とにかく、いい加減応接間に移動して落ち着いて話すことにしましょう。




