第四十話 ミランダのマタニティ講座◆sideフィーナ
お父様に喝を入れた翌日。昼食を済ませた私は、お父様が待つ応接間へとやってきた。
クロエが扉を開けてくれたので、するりと室内に入り込む。
「お父た……んくうっ!」
そして、お父様の姿を見つけて駆け寄った私は――膝から崩れ落ちた。
「お嬢様! お気を確かに!」
「はあっ、はあっ、心臓が止まりかけたわ」
「どうした⁉︎ 大丈夫なのか?」
クロエの腕にしがみつく私を覗き込む発作の原因、もといお父様。
「んぎゅっ!」
「今どこから声が出た?」
怪訝な顔をして首を傾げるお父様は、勉強に対する前向きな姿勢を示すためか、普段はかけていない眼鏡をかけている。
いや、なんですかそのけしからん眼鏡は‼︎
仕事の時だって眼鏡なんてつけないじゃないの‼︎ 完全に不意打ちだったわ‼︎
しかも黒縁‼︎ 黒縁眼鏡‼︎ 私を萌え死にさせる気なの? 即死だが?
推しの黒縁眼鏡は殺傷力が高すぎるわ! なんという神アイテムであり危険なアイテムなのだろうか黒縁眼鏡! 私の癖にブッ刺さったわありがとう神様感謝してもしきれません。
でも不意打ちはやめて。危うく昇天するところだったから。意識を失わなかったのは奇跡にも等しい。
私の不審な行動を前に、お父様は気まずげに頬を掻いている。
「だ、伊達眼鏡なんだ。その、形から入ろうと思ってな」
「んぎゃわいいっ!!!」
思わず両手で目を押さえて天を仰いでしまう。なんだこの可愛い生き物は。
は? 私のお父様? え? 最高すぎんか?
「に、似合わないか……?」
「最高に似合っています。似合いすぎて辛い」
私が悶えている間も、お父様はほのかに頬を染め、あろうことか上目遣いで私に問いかけてきた。迷子の子供のように不安げな顔をしている。私の中の母性が大暴れよ。五歳児に母性ってあるのかしら?
「辛いのか? それは喜んでいいのか?」
「最大級の褒め言葉です。これからフィーとお勉強する時は必ず眼鏡をかけてください」
「あ、ああ……」
戸惑いの色が隠せないお父様もとても素敵よ。今日も推しが尊いわ。ありがとう、世界。
「二人してうずくまってどうしたの……えっ‼︎ 黒縁眼鏡⁉︎」
「あっ、ミランダ! ダメよ!」
萌えを消化しきれずにプルプル震えているところに、本日の講師であるミランダの登場だ。だがしかし、ここは今屋敷内で一番の危険地帯。注意を促す暇もなく、ミランダが部屋に入ってきてしまった。
ミランダが黒縁眼鏡のお父様を見て膝から頽れたのは言うまでもない。
◇
「こほん。えー、では気を取り直して。本日はお集まりいただきありがとうございます」
どこから調達したのか、黒板を前にミランダが室内を見回す。
集まったのは、私とお父様に加えて、セバスチャン、クロエ、そしてなぜかリューク殿下も参加している。いつかの役に立つからということらしい。素晴らしい心がけだわ。きっと、いい旦那さんになることだろう。
「まずは飲食についてお話しいたします。すでに医師から注意を受けているかと思いますが、飲酒はもちろん、コーヒーや紅茶の飲み過ぎも胎児に良くありません。少量であれば問題ないので、気分転換に召し上がるのはよろしいかと。紅茶はデカフェがいいですね。ルイボスティーとか、ハーブティーといったところかしら」
紅茶の話になったところで、セバスチャンが猛烈な勢いでペンを動かし始めた。自分の領分をよく弁えている。実に優秀な執事である。
「葉酸とビタミンもしっかり摂っておきたいわね。これもあとで料理長に相談しましょう」
栄養素の話になり、お父様やリューク殿下は「ようさん……? ビタミン……?」と首を傾げている。うーむ、この世界には馴染みのない言葉なのかもしれないわ。
「それから、辺境伯様にできることとして、むくみ取りのマッサージを後ほど伝授いたします! こう見えて得意なのよ、マッサージ。人にもよりますが、妊娠初期から手足が浮腫む妊婦さんが多いです。アネット様はベッドから起き上がるのもお辛そうなので、少しでも身体を動かしてあげたほうがいいでしょう。血の巡りも良くなります。ずっと動かずにいると筋力も落ちてしまいますしね。調子がいい日はストレッチをしたり、少し庭を散歩したりしてはいかがでしょうか? 日の光を浴びるのも大切ですよ。ずっと部屋に閉じ篭もっていては気が滅入ってしまいますからね」
ミランダは話しながら、キーワードをサラサラと黒板に書き記していく。意外と読みやすくて綺麗な字を書くのね。私を始めとした生徒のみんなが机にかぶり付くようにペンを走らせている。
「あと、感染対策も大事です! アネット様のお部屋を訪れる際は、必ず手洗いうがいをすること! 免疫力や体力が低下している時に風邪を引いてしまうと、症状が長引いたり拗らせてしまったりすることが懸念されます。ウイルスは持ち込まない! 清潔な状態を心がけてください」
お父様は、ミランダの説明を聞いて、「なるほど」「確かに」「ふむ」「勉強になる」と感心しきりである。
「最後に、一番大切なのは心の健康です。妊娠は女性一人で乗り越えるものではございません。パートナーの支えが不可欠です。今からしっかり赤ちゃんの父親としての自覚を持ち、色々と制限が増えてストレスを感じやすい女性を支えてください。アネット様はフィーナがいるとはいえ、初めての妊娠ですから、不安も一層強いと思います。真面目で一人で解決しようとする性格なので、気をつけてください」
カカカッと軽快なリズムで黒板に板書をしていたミランダの手が止まる。そしてゆっくりとこちらを振り向き、真っ直ぐな瞳でお父様を見据えた。
「辺境伯様にも不安に思う気持ちはあると思います。それは当たり前のことです。いいですか? お互い初めて同士なのです。分からなくて当然ですわ。だからこそ、きちんと歩幅を合わせ、手を取り合い、分からないことは学び、共に経験を重ねていくことが大切だと、私はそう思います」
ハッとした様子で目を見開くお父様。きっと、ミランダの言葉はお父様の心に響いたはずよ。
「……ぐす」
「なんであなたが泣いているのよ」
「だって……! ミランダってばめっちゃいいこと言うんだもの! 手を取り合い支え合う推しカプを妄想しただけで涙が止まらないわ。これはもう不可抗力なのよ」
「フィー? 大丈夫か? よく分からないことを口走っているが……」
「クロヴィス。フィーナはこれで通常運転だ」
滂沱の涙を流す私を心配そうに見つめるお父様。そんなお父様に冷静なコメントを返しているのはリューク殿下だ。毎日一緒に過ごしているからか、随分と私に対する理解が深まってきている。
リューク殿下に視線を向けた時、手元のメモが目に入った。
そこにはびっしりとミランダが教えてくれた内容が書き写されていて、真面目にメモを取っていたことが窺えた。前にも話していたいつかの時のため、今日も真面目に講義を受講していたご様子。
うんうん、こんなに真面目に将来のために勉強するなんて、リューク殿下のお嫁さんになる人は幸せ者よねえ……立派に成長したリューク殿下はたいそう美しいでしょうし。サラサラの黒髪に、キリッと切れ長で綺麗な紅い目。国王陛下も壮年のおじさまだったけれど、お顔立ちは整っていて精悍な雰囲気だったもの。リューク殿下は今、アンソン辺境伯領で剣技を学んでいるし、成長期に入ったら身体だってきっとどんどん逞しくなって……
ポワンポワン、と成人リューク殿下を持ち前の妄想力で思い描いていく。
あれ、待って? もしかしなくてもめちゃくちゃタイプだわ。うん、やっぱり今から推しておくのもいいかもしれないわ。リューク殿下がいつまで辺境伯領にいてくれるか分からないけれど、推しの成長過程を近くで見守れるなんて最高では? 推し活の幅も広がるというものよね。
「お嬢様、涎」
「はっ! いけない、近未来にトリップしていたわ」
「フィーナは異能力者なのか?」
「ただの幼気な五歳児よ」
リューク殿下の鋭いツッコミを躱し、クロエが差し出してくれたタオルで涙と涎を拭く。タオルを差し出すあたり、クロエは優秀だわ。ハンカチじゃ足りないものね。でもどこから出したのかしら?
「落ち着いた? 基本的な考えや知識は伝えたから、もう少し具体的に話していきますね」
こうして窓から西陽が差し込むま時間まで、ミランダのマタニティ講座は続いた。
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