2 彼氏・透の視点から
いつから、彼女を見るようになったのかは、覚えていない。
ただ、冬の朝の電車で、彼女が咳をしていて、「大丈夫かな?」と思ったことが、自覚したきっかけだった。
自惚れでも何でもなく、通学の電車の中でよく人からの視線を感じる。
高校に入学した頃から、知らない高校の知らない女の子たちに分かりやすい告白から、意図の分からない絡まれ方まで色々とあった。
中学の頃のように、なんとなく見たことがある女の子たちから告白されることはあったけれど、全く知らない人に「付き合って欲しい」と言われても戸惑いしか覚えなかった。
だから、知らない人に告白されないように、通学路は友人の水人と一緒に行動するようにしていた。
水人は、高校に入ってからの友人で、話をしていて楽だった。
期待されることも、嫉妬されることもなく、ただ優しく、真摯に人と向き合う奴だった。
俺よりも水人と付き合う方がいいと、本気で思っている。
その水人に気づかれたのは、高校二年の春だった。
「最近、よくあの子のこと、見てるよね。」
「…何が?」
にっこりと微笑んで俺が言うと、水人はにやにやした顔をしていた。
「なんだ、自覚してるんじゃん。」
「…だから、何が?」
「透、そういう胡散臭い顔を今するのは、よくないな。動揺してるのが分かる。」
「………」
俺は笑顔のまま、黙った。
人は顔のいい俺に対して幻影を見ている。
いつも優しく、笑みを絶やさず、困っている時は手を差し伸べてくれる。
どこのどいつだ。そんな男いない。
興味もないのに、なぜ笑いかけないといけない。
そう思っても、俺はいつも人の求められる俺を装ってしまう。
そうしなければ、俺に価値は無いから。
勉強も運動も、やればやった分だけできた。
少しは努力もするし、効率の良い方法を考えて、それを行うようにしている。
誰でもそういうものだと思っていたら、水人に「お前、それを他の奴に言ったら刺されるから、言うなよ。」と言われた。
普通ではないらしい。
それでも俺には人より優れている感覚は無く、絶えず周りの反応を探っては、そこで求められる対応をしてしまう。
そして、微笑んでいることが、一番効率的な対応だった。
大声で笑うこともせず、怒鳴りつけることもせず、いつでも適度に微笑んで言葉を返せば、相手は勝手に都合のいい俺の幻影を見てくれる。
それが当たり前で、微笑んでいれば、大概のことは、誤魔化せた。
その当たり前を水人は見抜き、俺がそういう人間だと分かった上で、友人でいてくれる。
得難い存在だと思う。
それでも、全てを曝け出すことはなかった。
信用している、していない、ということではなくて。
どう言えばいいのだろう。
知らないのだ。
俺の内面を話すこと、伝えること、そんなことになんの意味も意義も、価値も感じていない。
問われれば、答える。
でもそれは相談ではない、と水人に言われた。
よく、分からない。
家族に相談しないのかと、水人に聞かれた時、それはなんだと思った。
両親に話すのは、連絡事項と、それに伴う必要な物や金を求めること。
成績も、表彰状も、すべて一瞥して終わり。
俺が何をしても、特に何も言わない。
褒められたいと昔は思っていた、と思う。
それも諦めたのも、随分前で。
困っても、傷ついても、ひとりで抱え込んで、ひとりで処理する。
それが当たり前だと思っている。
だから、朝の電車で見かける彼女のことをふと見てしまっていても、それは俺の中で処理することで、水人へ話すという発想が無かった。
「気になって見てるなら、声を掛ければいいじゃないか。」
「…なんとなく、見てるだけだから。」
そして、なんとなく、俺の方だけが彼女を見ていればいいとも、思った。
彼女に気がつかれないままで。
***
話しかけるつもりもなく、ただ毎日友達に囲まれて、電車に乗っている彼女を見るのは楽しかった。
吊り革には捕まらず、いつも乗降口近くの手摺りに捕まっている。
彼女の声は、周りの友達の中に消え、どういう声をしているのかも、はっきりわからなかった。
それでも、友達と話し、笑い時々触れ合う姿から、彼女がとても明るく、友達思いの子だと俺は感じた。
そして、ある日の朝の電車は、少し混み合っていて、俺はいつもよりも彼女の近くで吊り革を掴んで立っていた。
急にブレーキがかかり、彼女がよろめくのを見て、咄嗟に背中に手を伸ばしていた。
「大丈夫?」
ただ、心配で、それだけのことで、頭がいっぱいで、俺は声を掛けた。
「だ、大丈夫です。」
初めてちゃんと聞いた彼女の声は、とても聞いていて気持ちのよい声だった。
ほんのわずかな間だけ彼女の背中に触れていたその手を離す時、寂寥感を覚え、それと同時に真っ赤になった彼女を見て、何かの欲が生まれたのを俺は感じた。
見ているだけで、いいと、思っていたはずなのに。
***
欲は増えて、彼女と話をしてみたいと、思い始めていた。
それでも踏み出せなかったのは、朝の電車でしか見かけないこと。そして、その時の彼女は、いつも友達と一緒にいて、声が掛けられなかった。
もしかすると、以前俺に話しかけてきた女の子の誰かがいるかもしれない。
あまりにも関心がなくて、話しかけてきた人たちの顔を全く覚えていなかった。
もし、いたとしたら。
彼女に不快な思いをさせてしまうかもしれない。俺が原因で友達と揉めることもあるかもしれないと、一度考えてしまえばもう身動きが取れなかった。
見ているだけでいいと、本当にそう思えていた頃の感覚がわからない。
背中に僅かに触れたあの感触をもう一度と思ってしまう。
顔を赤らめた彼女の頬をもう一度見てみたい。
ひとりでそんなことばかり、考えていた。
それが、現実になった。
帰りの電車にひとりで乗っている彼女の姿を見て、何も考えられず、すぐに、彼女の目の前に立った。
話すことも何も考えていなかった。
気がつけば、アドレスを交換して、何度も会って。
萌は、俺の彼女になった。
触れたくて触れたくて、何度も見ていた髪に、頬に、首筋に。何度も何度も触れることが出来るようになった。
萌がいれば、どこでもいい。
けれど、触れられる場所がいい。
それならばと、俺は彼女を部屋に呼び、いつでも触れられるようにした。
その声を。
街の喧騒に掻き乱されることなく、閉じた部屋の中で、俺は彼女の声を聞く。
柔らかな体に、その体から香る肌の匂い。
すべてが替えのきかない唯一のもので、どうしてこれほど萌がいるだけで心が満たされるのか。
勉強を教えて、触れて、声が聞きたいから萌の話を聞いて。
俺はそれで満たされた。
何も要らなかった。
もうすべてを手に入れたと思っていた。
これ以上は望んではいけない、とぎりぎりの線を俺は感じていた。
いやらしいことは、してはいけない。
***
まだ小学校に入るかどうかの頃だと思う。
家には誰も居なかった。
いつものことだったと思う。
誰も居ない家にひとりでいる。
それはいつも通り。
ただ何かを埋めたかった。
だから、俺は自分の体を触って、強い刺激を感じたところを何度も触り続けた。
それがどういうことなのか、分からず、ただ心地よい何かに縋った。
それを母親に見られた。
目を大きく開き、顔を真っ赤にすると、大きな口を開けて、怒鳴られた。
「そんなことをしてはいけません!」
たぶん、そんな文脈だったと思う。
とにかく俺は怒られることをしたのだと分かった。
後のことは、覚えていない。
中学生になると、色々と理解した。
けれど同じ頃、図書館で時間を潰すために、なんとなく読んだ本に、俺と同じような人を見つけた。
していたこと、母親に怒られたことも同じ。
衝撃を受けたまま、読んだその先にあった文字は、「孤独」。
他に楽しいと思えるものがなかったから、そういうことをしていた子ども。
それは、ひとりぼっちでいる小さい頃の俺だ。
一般的なパターンではないのか。
けれど、俺はそれ以外を知らない。
納めどころのわからない気持ちのまま、同時にそういうものへのデッドラインを感じてしまった。
していいこと、してはいけないこと。
その線引きは、今まで何の力も持たなかった。
それが、萌の存在で、はっきりと線を越えることへの恐怖を感じた。
触れることは、してもいいこと。
服を脱いですることは、してはいけないこと。
萌は、俺が我慢しているとか、萌のためにしないとか、そう思っているのだろう。
服を着たまま触れ合うことは、心地よいから、それで互いに満足をする。
何度も抱きしめる。確かめる。
けれど、本当は怖いんだ。
萌を失ってしまうのではないか。
してはいけないことをしたら、離れていってしまうんじゃないか。
何の根拠も無いのに。
そして、予想とは違うところで、萌は離れようとしている。
高校三年の夏休みの日、萌がいる時に突然母が家に帰ってきた。
萌を守らなければ。
咄嗟に思った。
両親は、俺が何をしても褒めることはなく、関心もない。向こうから話してくる時は、叱責を帯びたものを言う時だけだ。
萌がいることを知った上で、部屋に来られればそれは良くないことの前触れだ。
萌を会わせてはいけない。
「見てくる。萌は、絶対に部屋から出ないで。」
俺は萌を部屋に閉じ込めて、守る。
階段を降りて、母と顔を合わせる。
「誰か来ているの?」
「…うん、また仕事に戻るの?」
「忘れ物があってね。お客様には飲み物とお菓子をちゃんと出しなさいね。」
そう言って、母はまた出かけて行った。
何も言われなかった。
きっと玄関にある靴を見て気がついたはずなのに。
何を本心では考えているのか分からない母から、萌が攻撃されなかったことに俺は、とりあえず安堵した。
部屋に戻り、萌を抱きしめて、腕の中にいることを何度も何度も確かめた。
「お母さんに、挨拶した方がよかったんじゃない?勝手にわたし、いつも来てるし。」
萌が母に会う?
俺の大事な萌を母に会わせたくない。
「いいよ。言った事ないから。萌は挨拶しなくていい。」
萌の存在を両親に知らせたくない。
俺の彼女だというだけで、萌が両親から傷つけられてしまう。
褒める事をしない両親に萌を会わせても、無関心な態度を取られるか、叱責を浴びせてくるか、どちらにしても萌を傷つけてしまう。
それは嫌だ。
いつまでも萌と一緒にいたい。
俺はそれだけを願っていた。
それなのに。
その日から萌の態度が変わった。
スマホの連絡は、「おはよう」「おやすみ」のあいさつくらいは返してくれるけれど、「今度はいつ会える?」ということへの返信は一切なかった。
そして、塾に通い始めたと連絡が来て、夏休み明けからは予備校に通うから会えないと連絡が来た。
そして、朝の電車ですら、萌には会えなくなった。
彼女の友達は変わらずに同じ電車に乗っているのに、萌の姿だけ見なくなった。
萌の友達に聞いてみようかと思いながら、彼氏の俺が聞いて答えてくれるのだろうか?と気付いた。彼女の意志で、この電車を避けているなら、それを彼女の友達はわざわざ俺に教えてくれるものだろうか。
萌は友情に篤い。
どれほど俺のために時間を割いてくれても、友達との時間までは無くしてくれなかった。
そんな萌が避けている俺に、彼女の友達が俺に協力するか?
俺は焦燥感に襲われていた。
萌に会えない。
萌が俺から離れていく。
なぜだ。なぜだ。なぜだ。
夏休みまでは、毎日触れ合って、そばにいたのに。
「おはよう」「おやすみ」の他に、俺が何かしたのか、俺が何をしたのか、萌は何故俺を避けるのか、尋ねる送信文を作っては消して、作っては送れずに消してを繰り返していた。
何故、萌がいない。
嫌われた?
何をした?
何があった?
わからない。
ただ萌がいない。
それだけで、俺は気が狂いそうだった。
それでも誰にも言わずに、毎日学校へ通い、毎日電車で萌の姿を探した。
会いたい。
萌に会いたい。
何をしてでも会いたい。
でも、ひと目でも俺を見た萌が嫌悪感に満ちた顔をしたら。
心臓の音が気持ち悪いくらいに体に響く。
俺は、狂ってしまう。
狂っているのかもしれない。
ほんの僅かな理性で、己を保っている。
次話、明日の12:00投稿予定です。




