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拓郎の時代/和正の季節


「麻衣子さん!」


 新幹線の止まる主要駅4番線、5号車の前。

 教えられた通りに、彼女はそこにいた。

 

 手には大きな旅行鞄を持って、つい先日と変わらない姿の彼女が、驚いたようにこちらを見る。


「洋一くん……」


 麻衣子は二つ年上の女性で、彼の恋人だった。

 走って来た洋一は、荒く息を吐きながら顎に滴る汗を拭い、彼女に近づく。


 彼女は、その大きな目で洋一を見つめていた。

 その目に、心が揺らぐ。


 俺は。

 俺は、勇気を出せば、もう一度。

 貴女を抱き締める事が出来るだろうか。


「何で……」

「教えてくれた人が、いるんだ。貴女が今日、ここから旅立つって」


 洋一は息を整え、彼女と視線を合わせて。

 持てる限りの真剣さで、麻衣子に対して口を開いた。


「麻衣子さん。俺はーーー」


※※※


「兄ちゃん、火、持ってるか?」

「あ? あぁ……」


 ぼんやりと、地元の駅前にあるベンチに腰掛けてタバコを吸っていた洋一に。

 そう声をかけて来たのは、どこか親しみやすい雰囲気を持った三十代の男だった。

 手に、大きな楽器ケースを持っている。

 ライターを差し出すと、男は礼を言って火を付け、それを返して来た。


「悪いね。どっかにマッチを落っことしちまってな」

「良いけど……」


 洋一は、今はあまり人と話したい気分ではなかった。

 なのに男は、少し迷惑そうに顔をしかめる洋一に構わず、ずけずけとモノを言う。


「えれぇ暗い顔だな。女にでも振られたか?」


 図星を突かれて、洋一は顎を噛み締めた。


「んだよ。関係ねぇだろ、おっさん」

 

 精一杯凄む洋一に、男は可笑しそうに笑った。


「まぁ、人生そういう事もあるある。落ち込んでる暇があったら、新しい女でも見つけるこった」


 断りもなく横に腰掛ける男に、洋一はふてくされてそっぽを向いた。


「そんな気分じゃねぇよ。どっか行けよ、おっさん」

「このおっさんは、暇な上にお節介でな。この寒空の下で青春を謳歌してる筈の若者がくらーい顔をしてるから、ちょっと話でも聞かせて欲しいって思ってんだよ」

「何でテメーにそんな事を喋らなきゃなんねーんだ!?」

「何でかって? そうだなぁ……お前の親父さんとお袋さんが、俺の知り合いだからかね」

「は?」


 洋一は、美味そうにタバコを吹かす男を、ぽかんと見た。

 特にカッコいい訳でもない普通のおっさんに見えるが、その顔には見覚えがあるようなないような、微妙にもどかしい気分を覚える。


「……俺、あんたに会った事とかないと思うんだけど」

「会った事はあるさ。お前の親父さんが死ぬ前だから、遥か昔だけどな」


 洋一の父親が死んだのは、彼が三歳になるかならないかの頃だ。

 その頃、目の前のおっさんは中学生くらいだろう。


「いや、どんな知り合いだよ」

「近所に住んでたんだよ。お袋さんにゃ仲良くして貰った。そんな事より、お前が暗い顔をしてる理由の方が知りたいんだって」


 しつこいおっさんだ、と洋一は思った。

 抵抗するのも面倒くさくなってきた彼は、自暴自棄になりながら、事情を話し始めた。


※※※


 港が見下ろせる高台の公園の側に車を止めた洋一は、そこで麻衣子に別れを告げられた。


「……何で」


 問いかける自分の声が遠い。


「好きな事が、したいの」


 そう言う麻衣子は、悲しげな目をしながらも笑みを浮かべた。


「絵を描く仕事。東京にいるおじさんのツテで、仕事を紹介して貰える事になったわ」


 彼女は美術学校に通っていた。

 知り合ったのは、その文化祭に出掛けた時で、洋一の一目惚れだった。


 この公園が好きで、絵を描く彼女をぼんやりと眺めている時間が、好きだった。

 でも彼女にとっては、そうじゃなかったのだろうか。


 洋一には、麻衣子の心がわからなかった。

 音が、耳に幕を張ったように遠いまま、洋一は無理やり笑みを浮かべた。


「……分かった。応援するよ」


 麻衣子は笑みを消して、一言、ごめんね、と呟いて車を降りた。

 その後ろ姿を、洋一は黙って眺める。


 振り向いて、最後に一度、微笑んでくれないだろうか。

 嘘だよ、と言って、戻ってきてくれないだろうか。


 そんな気持ちが、彼女に届くはずもなく、麻衣子は洋一の視界から消えた。

 ハンドルに顔を伏せて、目を閉じる。


 絵を描く時に本当に楽しそうな彼女が好きだった筈なのに。

 本当は、応援する気持ちなんてかけらもない。


 ずっと、今の幸せが続くと、そう思っていたのに。

 こんなにも呆気なく終わってしまうほど、俺は貴女にとって軽い存在だったのだろうか。


 俺の、聞き分けの良い嘘の笑顔に騙されるほど、麻衣子さんは俺の事を見ていなかったのか。

 そう思うほど、自分が惨めで。


 涙が溢れるのを、抑えきれない。

 この公園は、普段あまり人がいなくて。


 人混みで寄り添うのが気恥ずかしかったから、誰にも見られないこの場所で手を握って歩くのが好きだった。

 すぐ横にある麻衣子さんと不意に目が合って、お互いに微笑み合うのが、好きだった。


 麻衣子さんは、そうじゃなかったんだろうか。


※※※


 振られてしばらく経って、今は家に居る気にもなれず出かけたが、洋一は後悔していた。

 ヤケになって話したものの、自分の傷口を抉り出すような思い出が湧き上がって、洋一は苦しくなっていた。


「まだ好きなんだなぁ」


 黙って話を聞いていた男は、悟ったような顔で洋一の背中を叩いた。


「諦め切れねぇのに、何で聞き分け良くしちまったんだい? 引き止めりゃ良かったのに」

「カッコ悪いだろ。女々しいじゃんかよ、そんなの」

 

 振られるだけでも、自分に魅力がないからなんだろうに。

 そこからさらに嫌われるような事が、出来る訳がない。


「若いねぇ、お前さん」


 そう、不意に別の声が聞こえてそちらを見ると、浮浪者のような格好をした爺さんが立っていた。


「おお、フーさん」


 男はその爺さんと知り合いのようで、親しげに手を挙げる。


「見かけたから近寄ったら聞いちまったよ。良いねぇ、良いねぇ」

「……何が良いんだよ」


 バカにしやがって、と内心で毒づくと、爺さんはひょっひょ、と笑った。


「この歳で金もないような生活をしてると、お前さんの悩みすら眩しいもんに見えんのよ」

「金を手に入れてもサイコロで全部スっちまうんだろーが」

「楽しいもんは、仕方がねぇね」


 よ、と爺さんはベンチの横の地べたに、手に持っていた段ボールを敷いて座り込んだ。


「テンよ。一曲聞かせてくれ」

「良いぜ」


 男は楽器ケースを開けて目の前に広げると、中から取り出したギターを爪引き始めた。

 切ないメロディーラインのインストゥルメンタルだ。

 洋一は楽器の事はまるで分からないが、それがとてつもなく澄んだ音だと感じた。


「スゲェ……」


 聴き終えて思わず呟くと、何人か足を止めて聴き入っていた人々が小銭を投げて散った。


「分かるか? テンのギターはこう、心に響くのよ」


 爺さんは言い、拍手を男に送った。

 男はギターにもたれるように前かがみになり、洋一を覗き込む。


「なぁ、聴き代代わりにおっさんの話も聞いてくれよ。俺の嫁さん、良い女でなぁ」


 男は、洋一が何も言っていないのに、そう、嬉しげに話し始めた。


※※※


『結婚してくれ』


 そう言った男に対して、後に伴侶になる女性は涙を浮かべて喜んだという。


「その後一緒に暮らし始めた時にな、嫁さんがリンゴを買ってきた。だからこんなアレンジで、嫁さんに即興演奏を送った」


 爪弾かれるメロディーは、途中で変調して別の曲になった。

 どちらも聞き覚えのある曲だ。


「吉田拓郎?」

「お、分かるのか?」


 男が嬉しそうに言うのに、洋一は頷いた。


「母さんが好きで、よく聞いてた」


 最初のラインは『結婚しようよ』、変調後の曲は『リンゴ』という曲だ。


「俺の嫁さんもな、絵を描く彼女を見てたお前と同じで、静けさを楽しむようなところのある奴だ。だから、俺はあんまり喋らずによくギターを引いてた。旅行先では、こんな事を真似してみたりな」


 続いて引かれた曲も、洋一は知っていた。

 『旅の宿』だ。


「同じように月見酒を楽しんだ」


 曲を爪引きながら、男が言葉を重ねる。


「初めての経験だったが、月よりも嫁さんが綺麗だった。浴衣のうなじがたまらなく色っぽくてな。膝に転がると、嫁さんは黙って微笑んだ。頭を撫でられてるうちに寝ちまった。勿体ねぇ話だ。嫁さんがせっかく楽しみにしてたのに、早々と寝た自分に呆れたね」

「お前さんはのんびりしやがるくせに、変なとこでせっかちだからなぁ」


 爺さんが口を挟み、男は苦笑した。


「違いない」


 男は言って、再び洋一を見た。


「なぁ、お前はみっともねぇ真似をしたくねぇらしいが、俺は、みっともなくて良いと思うぜ」

「何でだよ」

「そりゃ、生きるってのはそもそも、みっともねぇ事の繰り返しだからだ。見栄ばっか気にしてカッコつけてたって、本当に大事なもんは手に入らねぇよ」


 その言葉は、何故か洋一の心に素直に沁みた。

 ギターの演奏がさらに変わる。


 『おきざりにした悲しみは』ーーーそれは別れを惜しむ心と、後悔を歌った曲だ。

 後悔しながらも、生き続ける男の曲だ。


「曲は好きだがね。どうせみっともねぇなら、相手にそれが届く間にさらけ出しとく方が良い。そうすりゃ、上手くいなかったって良い思い出になる」


 さらりとギターを爪弾くのをやめて、男はタバコを取り出した。

 今度は爺さんが、何か言われる前にマッチを放る。


「テンはな、元々火を持ってねぇ。嫁さんの時は黙っちゃいても、根っからお喋りなんだ。人から火を貰って、ちょっと喋る。それが大好きっちゅー変わった男だ」

「バラすなよ」


 火をつけてマッチを返した男は冗談交じりに軽く爺さんを睨み、煙を吐く。


「親父さんが死んだ時の事、覚えてるか?」

「覚えてない」


 前に問いかけた時、母親は、青信号に突っ込んできたトラックから母親とまだ小さかった洋一を庇って死んだ、と、辛そうな顔で言っていた。


「春だった。気持ちの良い一日だった事を覚えてる。珍しく親父さんが散歩に行こうと言い出した結果がそれだったらしい。最後まで運がない、と、親戚の人らが言ってたな」


 失敗は多いが、何故か憎まれない。

 自由奔放だが、それを許せる。


 言葉少なな母が、ぽつりと語る親父の人物像は、大体そんな感じだった。


「お袋さん、綺麗な人だ。遺して死ぬなんてなんて勿体ない、と当時の俺は思ったがな」


 嘲るようでも、責めるようでもない口調だった。

 あえて言うなら、後悔しているような口調。


 この男は、何を後悔するような事があったのだろう。


「操を立てて、再婚もせすに、お袋さんは一人で頑張った。……お前の彼女も、ひょっとしたら同じような気持ちなんじゃねぇのか?」

「え?」


 男はタバコをもみ消して、また曲を爪弾く。ーーー今度は、『人生を語らず』だ。


「お前さんにゃ、ちょっと早い曲かもなぁ」


 爺さんが、目を閉じてギターの音色に聴き入りながら、ぽつりと言った。


「お前さんの歳で、遅すぎるなんて事は(なん)もねぇ。だが察するってのは難しい話だ。長年連れ添ってもなかなか出来ねぇような事だ。だから、お節介な奴は時に助けになるかも知れん」


 爺さんは男に目を向けてから、洋一に視線を戻した。


「話した相手が黙して語らないもんが、態度に滲む事はある。彼女さんは、お前さんが大事だから別れた、と、そうは考えられねぇかい?」

「大事だから……?」


 意味が分からなかった。

 大事だから別れるなんて発想は、洋一にはまるで理解出来ない。


「付き合い続けてくれと言や、遠く離れて待たせる事になる。付いて来いと言や、お前さんに苦労を掛ける。どっちも大事だから、手放さなきゃなんねぇ事ってのが、世の中にはある。……振り向かなかった彼女は、泣いてたから振り向けなかった、とは、思えねぇかい?」


 振り向かなかったのではなく、振り向けなかった。

 そんな事が、と、洋一は自分の掌を見下ろした。


 俺は。

 自分の事に精一杯で。


「勿論、本当のところは分からねぇさ。確かめて見なきゃな。だが確かめなきゃ、ずっと分かんねぇまんまだ。分かんねぇまんま、決めつけちまって、本当に良いのかい?」

「俺……」


 自分は、本当に彼女の気持ちを考えていなかったのだと、爺さんの言葉に思い知る。

 相手の本当の姿が見えていなかったのは、麻衣子さんではなく、自分の方だった。


「今ならまだ、間に合うんじゃねぇかい?」

「俺もそう思うぜ。後はお前が、知る勇気を出すだけだ」


 男の爪弾く曲は、既に終盤に差し掛かっている。


「遠く離れたからどうだって言うんだ? 会いたけりゃ会いに行ける。大学にゃ春休みも夏休みも冬休みもある。でも今動かなきゃ、働き始めたらそうはいかねぇ。そうして、後悔と一緒に思い出す。ああ、あいつはもういないんだとな」


 ニヒルな笑みを浮かべる男が曲を終えて再び洋一の肩を叩いた。

 爺さんが、何処か遠い目をして、静かに呟く。


「……あの子は、主要駅4番線の5号車に乗る。乗っちまったらもう、手は届かねぇ」

「だが今行きゃ、追い掛ける目も出るだろう。あの子が行くんなら、お前がついて行きゃ良いんだ。サイコロは、まだ転がってる。丁半は確定しちゃいない」

「何で、あんたらがそんな事……」


 戸惑う洋一は、不意に雷に打たれたように閃いた。

 それは、とてつもなく阿呆らしい考えだ。


 現実にそんな事が起こるなんてあり得ない。

 でも、どうだろう。


 男の顔に、見覚えがある気がするのは。

 本当に知り合いだからじゃないのか、俺は、と洋一は男の顔を凝視する。


 思い出す。

 棚に飾られた写真と、遠く朧げな記憶を、目の前の彼の顔と重ねる。

 そして、今朝の鏡で見た、自分の顔も。


「何を固まってんのか知らねぇが、時間がないぞ。次の電車に乗らなけりゃ、間に合わねぇ」


 笑ったまま男が駅を指差して、洋一は立ち上がった。


 本当の事は分からない。

 でも、信じる気持ちがあれば、嘘だって本当になるかも知れない。


 そう思って洋一は、この出会いに別れを告げる。

 無くしかけた絆を取り戻す為に、決断する。


「行くよ、俺」


 男と爺さんは、笑顔で頷いた。

 彼は最後に、男の顔を目に焼き付けて、走り始める前に一言、呟いた。


「ありがとう……親父」


※※※


 走り去る洋一を見送って、男はまた、ギターを爪弾く。


 『落陽』。

 彼と爺さんの出会いは、正にこの歌の通りだったと言える。


 もう、男の演奏に足を止める人は誰もいない。

 彼と爺さんの姿は、本来、人の目には映らないのだ。


「親父、か……そう呼んでもらえる時が来るたぁ思わなかったな」


 頬が緩むのを抑えられない男に、爺さんが問いかける。


「満足したか? テン」

「おうよ、フーさん。いい夢だったよ」


 爺さんは粋に肩を竦めて、シケモクに火を付ける。


「どうって事ぁねぇよ。ワシが飽きずに飲み明かせるほど気ぃ合う奴は、そうそういねぇからな。飲み仲間の為に骨を折る程度の事はするさ。金はねぇし、運もねぇがな」

「ついでに命もねぇ、と来た。まぁしばらくはこんな風に待つさ。馬鹿な男に操を立てる頑張り屋さんが、こっちに来るまでな」

「ふん。たったそんだけ理由でワシの周りでこれだけ長いこと居座る奴も、お前さんくれぇのもんだ」

「爺さん、偏屈だからな」

「ワシは気に入らねぇ事を気に入らねぇっちゅーだけだ。それが気に食わんのだったら、さっさと消えればええだけの事よ」

「ま、そうだな。俺は気にならねぇからどうでも良いが」

「最後になんか、もう一回弾けや」

「おうよ、フーさん」


 男はニヤっと笑い、神という名の風来坊に、自分の心の内を曲に乗せて贈った。

 

 『我が良き友よ』。


 男は、まだしばらく偏屈な爺さんの側に居座る事になるが、それを苦痛だとは微塵も思わない。

 


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