レティシア・ブランシェットの華麗なる休日➂
(1)
施設内の庭園には、入所者が庭園散策やサイクリングを楽しめるよう、花壇の周囲には広い小径が作られている。
「私、お母様と一緒に三輪自転車に乗りたいわ」
と言うプリシラの要望に応え、レティシアは母子のために二人乗り用の三輪自転車を用意した。
大きめの車輪の間に挟まれるような形の座席に座ってロザリーがペダルを漕ぎ、ロザリーの前の補助席にプリシラが腰掛け、駆動させる。
転倒防止用の前輪が一つ、後輪が二つと、三つの補助輪が付いているので、二人乗りでも比較的安定した動きで庭園内を走る二人を、どこか遠い目でグレッチェンが見つめていると。
空気式タイヤの自転車を引きながら、レティシアがグレッチェンの元へ近づいてきたのだ。
「グレッチェン、お待たせ」
「……あの、実は」
「大方、自転車に乗れないのでしょ」
身も蓋もなく、ずばりと指摘するレティシアに、グレッチェンはう、と言葉を詰まらせ、代わりに小さく頷いてみせた。
予想通りの反応に、レティシアもやっぱり、と、胸中で納得する。
(どうせ、転んで怪我させたくない、とかいう理由で練習すらさせてなかったんでしょうね。全く、過保護にも程にがあるというか……)
元々、グレッチェンはシャロンがマクレガー家の養女として引き取り、育てたという話らしい。
極東の島国の古典で似たような話があったような、まさかその話を踏襲した訳では……、と、呆れ半分で揶揄ってやったところ、『馬鹿馬鹿しい。出会った頃の彼女は今と違い、浮浪孤児と見紛うくらい痩せ細った顔色の悪い子供だった。理想の女性に仕立て上げるとか以前に、とにかく自分が何とかしてあげなければ、という思いで必死になっていただけだ』と、真剣な面持ちで切り返されてしまった。
(ただ、どうにも庇護欲を拗らせすぎている感は否めないのよね)
「乗れないのなら、特訓あるのみよ。確かに、車体も車輪も低めで安全性の高いこの自転車であっても、一朝一夕では乗りこなせるものじゃないわ。でも……、これを見て」
自転車に乗れないことへの羞恥心ゆえか、頬を薄っすら赤らめているグレッチェンに、レティシアは後輪に目を向けるよう促す。
すると、グレッチェンの頬の赤みが更に増していき、火を拭いたように顔中が真っ赤に染まる。
グレッチェンの羞恥が高まった理由――、自転車の後輪に、子供に使用する小さな補助輪が二つ、装着されていたからだ。
羞恥に見舞われながらも、あくまでレティシアなりの厚意だと受け取ったグレッチェンは、赤い顔したまま補助輪付き自転車のハンドルを握り締める。
そこへ折り良く、三輪自転車に乗りながら、二人の近くをロザリーとプリシラが通りがかった。
グレッチェンが引く自転車に子供用補助輪が装着されているのを目に留めた瞬間、ロザリーは全てを察した。
同様に察したプリシラが何か言い掛ける前に、サッとハンドルの向きを反転させ、グレッチェン達がいる場所とは反対方向へと三輪自転車を走らせていく。
ロザリーのさりげない気遣いを知る由もなく、レティシアは自転車の乗り方の説明を始め出す。
「いい??まず、ハンドルを握ったままサドルに腰掛けて」
「はい」
「ペダルに片方の足を乗せて、もう片方の足を地面につけてごらん」
「はい」
「……ねぇ、そんなに緊張しなくてもいいのよ??」
グレッチェンのハンドルを持つ手とペダルに乗せた片足、地面につけたもう片方の足が小刻みにぷるぷると震えている。
顔色も相変わらず、真っ赤である。
まるで、生まれたての子羊が身体をふらつかせ、今にも倒れそうになりながら何とか立ち上がった姿、と酷似しているではないか。
グレッチェンの前に立ち、ハンドルを手で支えてあげながら、レティシアは噴き出しそうになるのを堪えていた。
「ハンドル持っててあげるから、地面につけた足もペダルに乗せて」
「はい」
両足ともペダルに乗せたため、グレッチェンの身体は自転車ごと更にグラグラと大きく揺れる。
「あ、あの……」
「大丈夫!転ばないよう、しっかり持ってるから!!じゃ、次はペダルを前に漕いで、ちょっと動いてみましょ。スカートの裾が車輪に巻き込まれないようにだけは気をつけて」
「は、はい」
恐る恐る、と言った体で、グレッチェンは若干腰を引かせつつも、えいっとペダルを一回転させる。
自転車の動きに合わせて、レティシアは後ろへ下がる。
レティシアが下がる動きと共に自転車が一歩前に進むと「あ、動いた……」と、軽く目を瞠り、感嘆の声を上げる。
「ほら、足を休めない。ゆっくりでいいから、そのまま漕ぎ続けて」
「はい」
一度自転車を動かしたことで少し自信がついたのか、ぎこちないなりにグレッチェンはペダルを漕ぎ続け、時間を掛けて花壇の内の一つを一周した。
グレッチェンとレティシアが特訓する姿を、二人の近くを通りがかる度にロザリーとプリシラが、「頑張って……」とそっと健闘の祈りを捧げていた。
(2)
特訓開始から二時間程経過した。
ロザリーとプリシラはとっくに施設の自室へと戻って行った中、最初は危なげな運転だったグレッチェンだが、支えがあれば何とか平行に走れるまでにはなった。
「よーし、だいぶ運転中のふらつきも減ってきたし、そろそろ手を離してもいいかしら」
一瞬、グレッチェンは不安そうにレティシアを見返すも、「そう、ですね……。ちょっと、頑張ってみます」と、すぐにやる気に漲った返事をする。
「その意気込み、いいわね。じゃあ手を離すわ」
「はい」
言葉通り、レティシアはパッとハンドルから手を離す。
ハンドルをしっかり両手で握り込み、地面に片足をしっかりつけているので、手を離してもグレッチェンは均衡を崩さないでいる。
レティシアがグレッチェンの傍から離れ、いよいよグレッチェンが一人でペダルを踏みこもうとした時だった。
「ブランシェットさん!マクレガーさんと言う方から、お電話が……」
二人の傍に駆け込んできた職員の言葉に、レティシアは額に手を当てて嘆息する。
「……用件は??」
「妻はまだこの施設に滞在しているのか、と」
うわ……、うざっ、と、思わず漏らした言葉に、職員は慌てて「いえ、あの……、『滞在しているならいいのだけれど、もし施設を出ていたなら……』と、奥様を案じてらっしゃるようでした」と、補足したものの、レティシアの中で『過保護で心配性のうざい束縛夫』の印象が益々強まっていく。
いつの間にか自転車を引いて、レティシアの隣に立っていたグレッチェンも困惑して眉を潜めている。
「申し訳ありません。夫が余計なことを……。でも、お昼の時間もとうに過ぎてしまいましたし、そろそろお暇しようかと思います。レティシアさん、自転車貸して頂き、ありがとうございました」
「あぁ、そんなこと。礼には及ばないわ」
「あの、大変厚かましいお願いなのですが……」
「何??」
グレッチェンは言い辛そうに一瞬口を噤んだものの、思い切って話を切り出す。
「あの、レティシアさんがお手隙の時で宜しいですから……。また、自転車の特訓に……、お付き合い頂いても良いでしょうか……??」
「何だ、そんなこと。良いに決まってるじゃない!畏まって何を言い出すかと思ったら……」
呆れて苦笑するレティシアの笑顔にホッとしたのか、グレッチェンの張り詰めた表情が緩んでいく。
「ありがとうございます」
「いいのよ、気にしないで。それより貴女の過保護な夫が煩いだろうから、今日のところは早く帰った方がいいかもね。あぁ、そうそう。夕方から仕事でシューリスと出掛ける用事があるから、貴女を家に送り届けるついでに私も馬車に相乗りさせて貰っていいかしら??」
「はい。勿論構いません」
「ありがとう。すぐに自転車を片付けるから、そしたら一緒に行きましょ」
言うが早いか、レティシアは職員に辻馬車を捕まえてくるよう指示したのだった。
ロザリーとプリシラが乗っていた三輪自転車はソーシャル・ブル型という、主にカップルが乗る用に作られたものです。
1880年代に空気式タイヤの原型となる自転車が開発されました。(ダンロップ社の始まり)
グレッチェンの補助輪ネタはTwitterでのフォロワー様とのやり取りからネタ提供して頂きました。
ちなみに、実際のヴィクトリア~エドワード朝時代に子供用補助輪は……、存在しません(^▽^;)




