フローズン(7)
(1)
――シャロンが薬屋に戻る少し前、ウエストエンド地区――
パイパー邸に辿り着くよりも先に雨量は増していく一方で、瞬く間にグレッチェンの全身は見事にびしょ濡れになってしまった。
絶え間なく振り注ぐ大粒の雫に加え、ぐしょぐしょに濡れそぼった髪から伝う水滴がポタポタと顏や身体に落とされる。水分をたっぷりと含んだコートは重みを増し、湿り気を帯びたズボンの裾が脚に張り付く感触が何とも気持ち悪い。
通りや周辺にカフェや食堂、コーヒーハウスでも立っていたならば、雨風を凌げただろうが、住宅街のこの地にそれらしき建物は一つも見当たらない。
(……お義母様の所へ行って、着替えさせてもらおうかしら……)
だが、マクレガー夫人の元へ向かったら最後、グレッチェンの来訪に喜色満面の様子であれこれと世話をしてくれる間に、パイパー邸を訪問する時間がなくなってしまいそうだ。
そうかと言って、このような濡れ鼠の姿でパイパー邸を訪れても、話どころか門前払いをくうかもしれない。
逡巡している間にも冷たい雨は容赦なく降りしきり、グレッチェンの体温を少しずつ奪っていく。
(……寒い……)
寒さに耐え兼ね、両腕で抱きしめるようにして自身の肩を掴み、ガタガタと身を震わせる。
店でたった一人店番している時以上の不安に苛まれ、心細い気持ちばかりが心を侵食していく。
通り過ぎる人々がすれ違いざまに見せる、奇異の視線や迷惑そうな顰め面などが更に不安感ばかりを煽る。
そんなグレッチェンに降り注いでいた雨が、突然ぴたりと止んだ。
不思議に思い、頭上を見上げてみるとーー
そこには、そっと傘を差しだしたロザリーと、彼女に手を引かれたプリシラが佇んでいたのだった。
「……見覚えのある後ろ姿でしたので、もしかしたらと思いまして……。やはり、マクレガーさんの奥様でしたか……」
「…………」
信じられない偶然に驚き、目を瞠ったまま言葉を失うグレッチェンに、ロザリーは遠慮がちにぎこちなく微笑み掛けた。プリシラは人形じみた無表情で、母とグレッチェンのやり取りをじっと見つめている。
「……あの、もし宜しければ、家に寄っていかれませんか……??寒空の下でいつまでも濡れたままでは風邪を引いてしまいますわ……」
「……お気遣い、ありがとうございます……。ですが……」
グレッチェンは目線を遥か下に下げ、ちらりとプリシラに視線を移す。
「プリシラ、この方をお家へお連れしてもいいでしょ??」
プリシラは母の問いに一瞬考え込むも、「……えぇ、いいわよ。濡れたままじゃ、このお姉様が可哀想だもの……」と、表情を一切変えずに答えた。
「……娘もいいと言っていますし、どうぞ遠慮なさらずに……。……主人も、この時間帯でしたら、まだ帰ってきませんし……
この酷い格好で訪問したはいいが、ロザリーだけでなくプリシラが嫌がったりしないかが気掛かりだっただけなので、これ以上グレッチェンが遠慮する理由などなかった。
「……ありがとうございます。それでは……、お言葉に甘えさせていただき……、厚かましくもお世話になります……」
二人に深々と頭を下げて礼を述べた後、グレッチェンは当初の目的通りパイパー邸へと向かったのだった。
(2)
パイパー邸に到着すると、ロザリーは客用の寝室へとグレッチェンを案内した。
案の定、この部屋もパイパー氏の趣味に合わせてか、寝台や家具、調度品等全て東の異国風の物ばかりだった。
この間と同様、見慣れない空間に緊張し、目線を部屋のあちらこちらへと忙しなく動かしていると、身体を拭く布と着替えを手にしたロザリーが中に入ってきた。
「……少し大きいかもしれませんが、私が娘時代に着ていたローブドレスをお貸ししますわ」
「ありがとうございます」
「……いえ。それよりも、身体の冷えは女性にとって大敵ですわ。濡れてしまったお召し物を早くお脱ぎになって。そしたら、応接間の暖炉の近くで乾かしますので、部屋を出る時に持ってきて下さいまし」
「……何から何まで……、本当にありがとうございます……」
しきりに恐縮するグレッチェンの姿が可笑しかったのか、ロザリーはくすりと笑う。
「貴女には指貫を届けていただきましたし、ほんのお返しみたいなものですのよ。お着換えになられている間に温かいお茶でもご用意致しますわ」
そう告げると、ロザリーはグレッチェンのコートを持って、早々に部屋から立ち去っていった。
(……美しいだけでなく、親切で、とても優しい方なのね……)
あんなに素敵な女性が、夫を毒殺したいと思うまでに精神を追い詰められている。
シャツのボタンを外しながら、グレッチェンの気分は鉛のように重たくなった。
けれど、重たい気分と裏腹に、あまり長く待たせる訳に行かないと、手早く着替えを済ませて応接間に向かう。
「……やはり、少し大きすぎたみたいですね……」
脱いだ衣服を抱えて応接間に入って来たグレッチェンの姿に、ロザリーは申し訳なさそうに力無く微笑んだ。
長身のロザリーから借りた薄い桃色のローブドレスは、小柄で華奢なグレッチェンが纏うと袖丈は指先が隠れそうなくらい、スカート丈は今にも床に引きずりそうなくらいに長く、肩も落ち切ってしまっていた。
「……いえ、服をお貸し頂けただけでも充分有り難いですから……」
頭を横に振るグレッチェンから濡れた衣服を受け取りがてら、ロザリーは袖を手首まで折り曲げてやる。
「……もうすぐプリシラがお茶を持ってきてくれますから、椅子に掛けてお待ちくださいませ」
何だか、怖い位に至れり尽くせりだ、と、若干警戒心を滲ませつつ、暖炉の近くでグレッチェンのコートや衣類を干すロザリーの背中を眺めていると、すぐにプリシラがこの間と同じ白い茶器とシュガーボックス、銀製のティーポットをトレーに乗せて運んできた。
「プリシラお嬢様、ありがとうございます」
子供の自分に向かって、大人の女性が丁寧に礼を述べてきたことが気恥ずかしかったのか、プリシラは「……ど、どういたしまして……」と、どもり気味に小さく言葉を返す。
「……あ、あのね……」
「はい」
慎重な手つきで、ゆっくりと茶器に茶を注ぎ終わると、プリシラはひどく真剣な面持ちでグレッチェンに忠告する。
「このお茶、緑茶って言ってすごく苦いの……。だから……、苦いと思ったら、遠慮せずにお砂糖いっぱい入れてもいいからね……」
思いがけないプリシラからの忠告が余りに可愛らしく、グレッチェンはくすくすと声を立てて笑ってしまう。何故笑われてしまったのか、いまいち理解できていないプリシラは、しきりに小首を傾げている。
「……わ、分かりました、プリシラお嬢様。ご忠告、ありがとうございます」
「まぁ、プリシラったら、何を言い出すかと思ったら……」
二人の様子に気付いたロザリーもプリシラを嗜めようとしているのに、すっかり表情が緩んでしまっている。
雨も手伝い、どことなく陰鬱さが漂っていたこの場が一気に和やかな空気に包まれた。
だが、それでもグレッチェンがここに滞在できる時間は限られている
部屋の柱時計をさりげなく確認すると、すでに夕方の四時半を回っていた。
間違いなくシャロンは帰ってきているだろうし、パイパー氏の帰宅時間も近づいてきているだろう。
この心地良い空気を壊すのは惜しいけれど、時間が迫っている。
苦みの強い、緑色の茶を啜りながら、自分の向かい側の椅子に座っているロザリーとプリシラに視線を送る。
グレッチェンの視線が意味するところを察したロザリーは、静かに茶器を座卓に置いて姿勢を正す。
「マダム・ロザリー」
ロザリー同様、茶器を座卓に置く。
「……実は、貴女にお話ししたいことがあり、今日はここへ参ったのです」
「……お話とは一体、何でしょうか??……」
不安そうに表情を曇らせたロザリーに、グレッチェンが話を続けようとした時だった。
「ロザリー!ロザリー!!」
キンキンとやけに耳につく、怒鳴り声に近い男の大声が、玄関から応接間に届いた瞬間、ロザリーとプリシラの顔色が一瞬にして青ざめた。
「……そんな、いつもなら六時過ぎにしか帰って来ないというのに……。……なぜ、今日に限って、こんなに早く帰って来るの!……」
ロザリーは小さな子供が嫌々をするように、何度も何度も首を激しく横に振る。
「……信じられないわ!……ああぁぁぁ、どうしましょう、どうしましょう……」
すっかり気が動転してしまったロザリーは、咄嗟に暖炉の近くに干してあったグレッチェンの服を素早く取り込み、「……申し訳ありません、奥様。主人が予定よりも早く帰ってきてしまったみたいで……。大変勝手な事を申しますが、しばらくプリシラの部屋で隠れていてもらえませんでしょうか??」と言いながら、服を強引に押し付ける。
「……女性とはいえ、いいえ、女性だからこそ、主人に黙って家に上げたことが知られたら……。本当に申し訳ありません……。……後で、マクレガーさんには私の方からお詫びを申し上げますから!……」
「分かりました」
ロザリーの切羽詰まった様子から、皆まで話を聞かなくても大体の状況は飲み込めた。
「……お姉様、あの人がここへ来る前に、早く私の部屋へ」
真っ青な顔色をしたプリシラに手を引かれ、足早にかつ、足音を立てないよう、パイパー氏に見つからないよう慎重に応接間を抜け出し、グレッチェンは二階にある彼女の部屋へと移動したのだった。




