フローズン(4)
(1)
ロザリーはすぐさま椅子から立ち上がると、二人に一声掛けることもなく急いで扉の傍まで駆け寄って行く。完全に開かれた扉の向こう側から姿を現した人物ーー、それはハイウエストのゆったりとしたドレスを着た少女だった。
「……プリシラ!一体どうしたの??……また嫌なことを思い出してしまったの??」
少女――、プリシラの肩に両手を添え、目線の高さを合わせるように膝を折って話し掛けるロザリーに、プリシラは弱々しく首を横に振る。
「…………下から…………、……男の人の声が聞こえたから……。……あの人が帰って来たのかな……、って……」
「……大丈夫よ、この時間帯はまだ仕事中だから、あの人が帰ってくることは絶対にないわ。だから安心して頂戴……」
プリシラは伏せていた瞳をほんの一瞬だけロザリーに向けると、ごく僅かながら安堵の表情を浮かべた。
「……あちらの方達はね、お母様の落し物をわざわざ届けに来て下さったお客様なの。ちゃんとご挨拶出来るわね??」
ロザリーは躊躇うプリシラの肩を抱きながら、グレッチェンとシャロンの元まで連れて行く。
「……ご紹介致しますわ。娘のプリシラです」
プリシラはスカートの裾を両手で掴み、腰を落として軽く会釈をする。
歳は七、八歳といったところか、ブルネットの長い髪を後ろで一本に編み込み、母親に似て、幼いながらも品のある整った顔立ちであった。
しかし、まだあどけないばかりの年頃だというのに、プリシラには子供らしい闊達さが微塵にも感じられない。ただただ、伏せ目がちに唇を固く引き結び、色のない暗い顔をしているのみだった。
プリシラは俯いたまま、二人の方を見ようとはしない。特にシャロンの方を避けたいのか、彼の姿を出来るだけ視界に映さないように、それとなく視線を外している。
「……プリシラ、顔を上げなさい。マクレガーさん達に失礼よ??」
ロザリーに窘められても、プリシラはますます頑なな態度を取るばかりで決して顔を上げようとしない。否、正確に言うと、顔を上げて目を合わせるのが怖いのだ。シャロンがどう感じているかは窺い知れないが、少なくともグレッチェンには彼女の心情が痛い程に理解できた。
「マダム、お気になさらなくても結構ですよ」
シャロンが言葉を発すると、プリシラは大仰なまでに肩をびくりと大きく震わせた後、これ以上は無理だとばかりに部屋から立ち去ろうとした。
「プリシラ、待ちなさい」
すかさずロザリーが引き留めようとして、プリシラの腕を掴み取る。
母の腕を振り払おうとプリシラは必死にもがいたあげく、忌々しげにロザリーをきつく睨みつけた。その顔は病人のごとく真っ青で痩せこけ、青い瞳は幽霊のように虚ろで生気を失っている。
娘に睨まれたことでロザリーが怯んだ隙をつき、プリシラは母の腕からようやく逃れると、そのまま部屋から逃げるように去って行った。
娘の後をすぐにでも追いたいが客人がまだ残っているため、どうするべきか逡巡するロザリーに向かって、いつの間にか席を立ち上がったシャロンがこう告げる。
「マダム・ロザリー。そろそろ私達もお暇しようと思います。お見送りは結構ですので、それよりもどうぞお嬢様の傍にいてあげて下さい」
「……あ……、……娘が大変失礼な態度を取ってしまい、本当に申し訳ありませんでした……」
「いえ、こちらは気にしてなどいませんから大丈夫ですよ」
ロザリーを安心させようと、シャロンは爽やかな笑顔で場を取り繕った。
「こちらこそ、落し物を届けに来ただけだというのに過分なまでのお礼を頂き、ありがとうございました」
グレッチェンとロザリーが別れの挨拶として互いに会釈し合った後、シャロンと共にパイパー宅を後にしたのだった。
(2)
パイパー宅から少し離れた場所にて、待たせていた辻馬車に再び乗り込む。
ジョセフ・パイパーがロザリーとプリシラを力づくで支配していることが、彼女達の行動や言動の端々から嫌と言う程に感じさせられ、二人共に自然と気持ちが沈んでしまっている。その証拠に、馬車に揺られている道中、どちらも口を開くことなく、終始車内はしんと静まり返っていたくらいだった。
特にグレッチェンに至っては、世界の全てに怯えきっていたかつての自分の姿と、周囲に冷たく心を閉ざすプリシラの姿が否が応でも重なってしまい、いたたまれない気持ちで胸が押しつぶされそうになっていた。
本来ならば守ってくれるはずの家族から虐待を受ける、底が知れない恐怖と絶望、深すぎる哀しみ。
想像するも悍ましいが、プリシラの様子からしてただ暴力を振るわれていただけなく、幼くして女性として最大の屈辱を味わわされたに違いない。だから成人男性そのものに恐怖心を抱き、シャロンにあのような態度を取ったのだろう。
――シャロンとの誓いを破る羽目になるが、やはりあの母娘を救うためには毒を……
「……まさかと思うが、あの母娘に毒を売ろうと考えてはいないだろうね??」
家の中に入ったと同時に、シャロンは開口一番グレッチェンへの疑惑を投げ掛けてきた。
「……いけませんか??」
誤魔化そうと思ってはみたものの、どうせ見破られてしまうから、と、逆に開き直った態度でグレッチェンは言葉を返す。
「……シャロンさんは、あの母娘を見て何も感じなかったのですか??」
シャロンは不機嫌も露わに眉根を寄せ、憮然としながら答える。
「……確かに哀れだとは思ったし、あのパイパーが妻子を傷つけるような男だったとは俄かに信じられない、という衝撃も受けた。だが、だからと言って我々に何が出来ると言うんだ??」
「ですから……」
「君の毒で彼を始末し、一件落着すればいいだろうな。だが、彼を始末した後に彼女達はどういう身の振り方をすればいい??彼女達が今まで通り暮らしていけるだけの遺産が残るか、もしくは身を寄せられる親戚がいればいいかもしれないが、そうでなければ??いくら裕福な家であろうと家長を失った途端、最悪、一家揃って路頭に迷う場合だってある。中流の女性が就ける職業など家庭教師くらいしかない上に、あれは需要に対して供給過多でそう簡単にありつける仕事ではない。君は感情に捉われる余り目先の問題ばかりに着目しているが、その先まで見据えていない。実に短絡的すぎる」
「……つまり、経済的に自立できない以上、このまま黙って泣き寝入りするしかない、ということですか??いかにも男性的な意見ですね」
「そうは言っていない。私だって、女性に暴力を振るうような非道な男など許し難いと思っている。だが、男の暴力的支配から逃れたとしても、それ以上の地獄を見る羽目になるかもしれないようでは意味がない、と言いたいんだ。いいかね、グレッチェン。君が考えている以上に、他人を救う事は決して簡単な事柄ではないのだよ。自分の人生を投げ打ってでも構わないくらいの覚悟が君にはあるというのか??それと……、マダム・ロザリーが夫を殺害した罪を一生背負い続けるだけの精神力を持ち合わせているのか、プリシラ嬢が自分を守るために母が罪を犯すことに一生罪悪感に苛まれることまで考えているのか??」
「…………」
自分を救うために、シャロンはレズモンド家の屋敷に火を放ち、博士やマーガレットを始め多くの人々の命を奪っただけでなく、長年の夢を捨ててまでして自分を引き取り、しっかりと地に足を付けて生きていけるだけの力を身に付けさせてくれた。
その反面、シャロンもグレッチェンも犯した罪を生涯背負い続けているからこそ、シャロンには今のグレッチェンの考えなどふわふわとした砂糖菓子くらい甘いものに感じるのだろう。
生半可な同情のみで中途半端な救い方しかできないのなら、いっそのこと関わるべきではない、と。
「……だからと言って、あの母娘を見て見ぬ振りをするなど……、私には到底できそうにありません……」
やっとのことで発したグレッチェンの言葉にシャロンは愕然とし、ダークブラウンの瞳の中に哀しみの色をちらつかせた。彼を傷つけてしまったことに胸がひどく痛んだが、後悔はしていなかった。
しばらくの間、重たい沈黙が流れ続けた。
「……勝手にしたまえ……」
先程とは打って変わり、シャロンは刺すような鋭く冷たい視線でグレッチェンを一瞥した後、彼女に背を向けてしまったのだった。




